立教大学共生社会研究センターの主催で、7月12日夜に『民間学再考-鶴見良行に寄せて』という公開講演会があった。講演者は鹿野政直さんでこれは僕には聞き逃せない。猛暑の中を(僕の時代にはなかった)立教大学8号館に出かけて行った。
鶴見良行さん(1926~1994)は、1982年の岩波新書「バナナと日本人」で一躍知られた。在野の東南アジア研究者という印象が強いが、それまでに長いアジアとの関わりがある。父は鶴見祐輔(政治家、作家として著名だった)の弟鶴見憲で、社会学者鶴見和子、哲学者鶴見俊輔姉弟のいとこにあたる。父は外交官で、そのため鶴見良行はロサンゼルスで生まれた。60年代には国際文化会館に勤務しながら、べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の活動に参加し、アジアとのつながりを深めていった。
(鶴見良行)
僕はアジア知識人の発言集「アジアからの直言」(1974、講談社現代新書)で名前を知った。80年代には「バナナと日本人」「マラッカ物語」「マングローブの沼地で」「ナマコの眼」などを次々と発表して、強いインパクトを与えた。1994年に68歳で亡くなったので、「研究者」だったのは50代以後の10年ちょっとに過ぎない。しかし、その研究スタイルは実践的な意味でも大きな影響を持った。(「バナナと日本人」は、無農薬バナナのフェアトレード運動を支えた。)僕はただ一回だが直接会ったことがある。1979年に早稲田奉仕園の募集した東南アジア旅行に参加した時に、事前学習で鶴見良行さんの話を聞くことになった。10人程度の集まりなのに快く引き受けてくれ、熱弁をふるう様子が今も思い浮かぶ。
講演者の鹿野政直さん(1931~)は、近代日本の思想史、民衆史を研究してきた人で、早稲田大学で教えていた。詩人で妻の堀場清子さんとの共著「高群逸枝」(1977)で知られている。一般書も多いので、歴史や思想に関心がある人には知名度が高い。今回も岩波新書の「近代日本の民間学」(1983)が論考のベースになっている。僕は「大正デモクラシーの底流-土俗への回帰」(1973)から読んでいて、民衆史の考え方に大きな影響を受けた。1976年に立教大学法学部の神島二郎教授が研究休暇にあたり、代わりに鹿野さんが「近代日本政治思想史」を担当したことがある。僕は文学部だが、他学部の履修もできたので、一年間大変刺激的な講義を聞く機会に恵まれた。
(鹿野政直さん)
やっと講演の中身に入るが、まずは「民間学」という言葉。これは実は森鴎外「舞姫」に出ているのだそうだが、70年代半ばになって鹿野さんなどが中心になって、学問はこのままでいいのかという問いの中で使われた。学生反乱や「公害」が近代日本のあり方を問い直した。学問の巨大化、専門化が進み、民衆の異議申し立てを「素人」の一言で決めつけた。そこに「学問の持つ加害性」への認識が生まれた。近代日本で「官学」「アカデミズム」として権威化されたのは「富国強兵のための学問」だった。しかし、在野の中に民衆自身による「民間学」の系譜もある。その先駆者が田中正造。
「官学」対「民間学」の特性をまとめてみると、次のようになるという。
移植性vs自前性、中央性vs在地性、制度性vs運動性、専門性vs総合性、前近代との絶縁性vs前近代からの連続性、基軸としての国家の視点vs基軸としての生活の視点。
このような整理は頭の中ををクリアーにするためにとても役に立つ。こういうのが思想史の面白さだと思う。鹿野さんの「近代日本の民間学」が出て以来、思想の科学研究会などの強い反応があり、97年には三省堂から「民間学事典」が鹿野、鶴見俊輔、中山茂共編で出版されているとのこと。
その中で鶴見良行の拓いた学問はどのようなものだったか。まず注目するのが「マラッカ物語」であり、その舞台となるマラッカ海峡への関心。そのきっかけとなったのは、70年代半ばにあった「クラ地峡」に水爆を使って運河を作る計画への反対運動だった。クラ地峡は、マレー半島の一番細くなっている地帯(タイ領)で、この計画に関する記事を新聞で見た鶴見は、日本が資金的に関与して水爆を使うという発想に大きな問題を感じた。そこでペンネームも使い、様々な媒体に反対論を書いた。国会では、社会党岡田春夫が田中角栄内閣へ質問した結果、日本人が関与することは「好ましいことではない」という森山科学技術庁長官の答弁を引き出した。もはや歴史の中に忘れられている、このクラ運河問題をきっかけに、鶴見は「マラッカ海峡に生きる人々からの視点」の重要性を認識した。
それ以後に展開された「鶴見学の特質=学問の態度」をまとめてみると(鶴見良行本人はこういう「まとめ」そのものが間違いと言うだろうと鹿野さんは留保しつつも)、以下のようになるという。
a.現場に立つ
鶴見良行は徹底して「歩く学問」でぼう大なフィールドノートを残した。(それはまだ未整理ながら、共生社会研究センターにあるらしい。)机上の学問に違和感を感じ、自ら実験して追体験した。現場を踏み、瑣末な事柄を大切にした。「神は細部に宿り給う」である。
b.海から世界を見る
歴史から見落とされてきた海民の世界を追求した。その結果、国家を単位とする歴史観を徹底的に批判できた。
c.みる・みられる関係を築く
近代の学問が「探究者と対象者」という図式を一方的に築き上げるのに対し、鶴見は「みる・みられる」関係の相互関係をつくる。自分が変わることで相手をも変える関係である。だから、話を聞くときは、ノートもレコーダーも使わなかった。
d.暮らしから考える
暮らしの中であくまでも具体に即して問題を追っていく。また暮らしの根幹は「食」であると確信し、食を通じて文化に迫った。
今書いたことは、周到なレジュメに基づくものである。まだ面白い点、またレジュメにないが当日の講演にあった興味深いエピソードも多いが、長くなるのでやめておきたい。鶴見良行という人の発想法、その残したものの大きさが、今(津波災害と原発事故以後の、知のあり方の再検討が迫られている時代)、まさに生きているということを改めて感じた次第である。
講演後の質問も多く興味深いものが多かった。宮本常一との比較とか、配布資料にある鶴見の文章に差別語があるという指摘などなど。僕も聞いてみたかったことがあった。今はインターネットの普及で、誰もが「学問的」と称する論述を気軽に全世界に発信できる。そのため、学問的手続き、論証を抜きにして思い込みで論を立てることも多いのではないか。「ネット時代の民間学」というのはどういうものだろうかということである。学問的な証明手続きの問題は、僕はすべての問題に必要なのではないかと思う。「民間学が学問である大切さ」を確認する必要があると思うのである。
鶴見良行さん(1926~1994)は、1982年の岩波新書「バナナと日本人」で一躍知られた。在野の東南アジア研究者という印象が強いが、それまでに長いアジアとの関わりがある。父は鶴見祐輔(政治家、作家として著名だった)の弟鶴見憲で、社会学者鶴見和子、哲学者鶴見俊輔姉弟のいとこにあたる。父は外交官で、そのため鶴見良行はロサンゼルスで生まれた。60年代には国際文化会館に勤務しながら、べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の活動に参加し、アジアとのつながりを深めていった。
(鶴見良行)
僕はアジア知識人の発言集「アジアからの直言」(1974、講談社現代新書)で名前を知った。80年代には「バナナと日本人」「マラッカ物語」「マングローブの沼地で」「ナマコの眼」などを次々と発表して、強いインパクトを与えた。1994年に68歳で亡くなったので、「研究者」だったのは50代以後の10年ちょっとに過ぎない。しかし、その研究スタイルは実践的な意味でも大きな影響を持った。(「バナナと日本人」は、無農薬バナナのフェアトレード運動を支えた。)僕はただ一回だが直接会ったことがある。1979年に早稲田奉仕園の募集した東南アジア旅行に参加した時に、事前学習で鶴見良行さんの話を聞くことになった。10人程度の集まりなのに快く引き受けてくれ、熱弁をふるう様子が今も思い浮かぶ。
講演者の鹿野政直さん(1931~)は、近代日本の思想史、民衆史を研究してきた人で、早稲田大学で教えていた。詩人で妻の堀場清子さんとの共著「高群逸枝」(1977)で知られている。一般書も多いので、歴史や思想に関心がある人には知名度が高い。今回も岩波新書の「近代日本の民間学」(1983)が論考のベースになっている。僕は「大正デモクラシーの底流-土俗への回帰」(1973)から読んでいて、民衆史の考え方に大きな影響を受けた。1976年に立教大学法学部の神島二郎教授が研究休暇にあたり、代わりに鹿野さんが「近代日本政治思想史」を担当したことがある。僕は文学部だが、他学部の履修もできたので、一年間大変刺激的な講義を聞く機会に恵まれた。
(鹿野政直さん)
やっと講演の中身に入るが、まずは「民間学」という言葉。これは実は森鴎外「舞姫」に出ているのだそうだが、70年代半ばになって鹿野さんなどが中心になって、学問はこのままでいいのかという問いの中で使われた。学生反乱や「公害」が近代日本のあり方を問い直した。学問の巨大化、専門化が進み、民衆の異議申し立てを「素人」の一言で決めつけた。そこに「学問の持つ加害性」への認識が生まれた。近代日本で「官学」「アカデミズム」として権威化されたのは「富国強兵のための学問」だった。しかし、在野の中に民衆自身による「民間学」の系譜もある。その先駆者が田中正造。
「官学」対「民間学」の特性をまとめてみると、次のようになるという。
移植性vs自前性、中央性vs在地性、制度性vs運動性、専門性vs総合性、前近代との絶縁性vs前近代からの連続性、基軸としての国家の視点vs基軸としての生活の視点。
このような整理は頭の中ををクリアーにするためにとても役に立つ。こういうのが思想史の面白さだと思う。鹿野さんの「近代日本の民間学」が出て以来、思想の科学研究会などの強い反応があり、97年には三省堂から「民間学事典」が鹿野、鶴見俊輔、中山茂共編で出版されているとのこと。
その中で鶴見良行の拓いた学問はどのようなものだったか。まず注目するのが「マラッカ物語」であり、その舞台となるマラッカ海峡への関心。そのきっかけとなったのは、70年代半ばにあった「クラ地峡」に水爆を使って運河を作る計画への反対運動だった。クラ地峡は、マレー半島の一番細くなっている地帯(タイ領)で、この計画に関する記事を新聞で見た鶴見は、日本が資金的に関与して水爆を使うという発想に大きな問題を感じた。そこでペンネームも使い、様々な媒体に反対論を書いた。国会では、社会党岡田春夫が田中角栄内閣へ質問した結果、日本人が関与することは「好ましいことではない」という森山科学技術庁長官の答弁を引き出した。もはや歴史の中に忘れられている、このクラ運河問題をきっかけに、鶴見は「マラッカ海峡に生きる人々からの視点」の重要性を認識した。
それ以後に展開された「鶴見学の特質=学問の態度」をまとめてみると(鶴見良行本人はこういう「まとめ」そのものが間違いと言うだろうと鹿野さんは留保しつつも)、以下のようになるという。
a.現場に立つ
鶴見良行は徹底して「歩く学問」でぼう大なフィールドノートを残した。(それはまだ未整理ながら、共生社会研究センターにあるらしい。)机上の学問に違和感を感じ、自ら実験して追体験した。現場を踏み、瑣末な事柄を大切にした。「神は細部に宿り給う」である。
b.海から世界を見る
歴史から見落とされてきた海民の世界を追求した。その結果、国家を単位とする歴史観を徹底的に批判できた。
c.みる・みられる関係を築く
近代の学問が「探究者と対象者」という図式を一方的に築き上げるのに対し、鶴見は「みる・みられる」関係の相互関係をつくる。自分が変わることで相手をも変える関係である。だから、話を聞くときは、ノートもレコーダーも使わなかった。
d.暮らしから考える
暮らしの中であくまでも具体に即して問題を追っていく。また暮らしの根幹は「食」であると確信し、食を通じて文化に迫った。
今書いたことは、周到なレジュメに基づくものである。まだ面白い点、またレジュメにないが当日の講演にあった興味深いエピソードも多いが、長くなるのでやめておきたい。鶴見良行という人の発想法、その残したものの大きさが、今(津波災害と原発事故以後の、知のあり方の再検討が迫られている時代)、まさに生きているということを改めて感じた次第である。
講演後の質問も多く興味深いものが多かった。宮本常一との比較とか、配布資料にある鶴見の文章に差別語があるという指摘などなど。僕も聞いてみたかったことがあった。今はインターネットの普及で、誰もが「学問的」と称する論述を気軽に全世界に発信できる。そのため、学問的手続き、論証を抜きにして思い込みで論を立てることも多いのではないか。「ネット時代の民間学」というのはどういうものだろうかということである。学問的な証明手続きの問題は、僕はすべての問題に必要なのではないかと思う。「民間学が学問である大切さ」を確認する必要があると思うのである。