選挙論議の最後。僕は何党に入れるか以上に、選挙に行くということを続けるのが大切だと思ってる。「選挙に行く意味」を判っていれば、誰に入れるという判断もしやすくなってくる。そうして、以後の選挙も(入れる相手は少しずつ変わることもあるだろうが)、行きやすくなる。
「選挙に行っても仕方ない」「自分が投票しても何も変わらない」というようなことを言う人が時々いる。そういう考え方に対して僕が思うことを書いておきたい。二つある。「全くその通りである」というのと「あんた、何様だと思ってるんだよ」である。
誰か一人が選挙に行ったからって、それだけで世の中が変わるわけないじゃないか。ただ選挙に行ったからと言って、世の中が変わるなんて思える方が不思議である。日本の有権者は約1億人いる。去年12月の衆議院選挙は大体59%の投票率で、およそ6千万人が投票した。参院選は毎回少し下がるが、半数が行くとして5千万人。比例代表区は全国単位だから、一人の影響力は5千万分の1程度になる。人間は自分は特別だと思いたいものだが、実は同じ国の同じ時代に生きる数千万人の一人に過ぎない。だから選挙に行ったからと言って、すぐ影響力があるわけがない。当たり前である。それでは行かなくても同じなのではないか。いや、決してそうではない。「同時代に生きる数千万人の一人」として、日本社会に参加するという他では得られない経験ができるのだから。
問題は、「何故自分の一票では社会が変わらないか」をとことん突き詰めることである。今「社会が変わらない」と書いたけど、これは特に原発問題などを頭に思い浮かべている。福島第一原発事故以後初の衆議院選挙で、脱原発を掲げる政党ではなく、原発を推進してきた政党が勝利した事態をどう思うか。でも、若い世代だって自民党支持者はいるだろう。そういう人は「自分の一票で、民主党政権を倒して自民党政権復活を実現できた」と思っているのではないか。世の中には様々な人がいる。変えたいと思う人もいれば、変えたくないと思う人もいる。今の社会に「それ」があるということは、「それ」があることで仕事が成り立っている人がいるということである。様々な問題について、同じことが言える。自分だけが一票を持っているのではなく、他の人も同じ一票を持っているわけだから、選挙では自分の入れた党が負けることも当然ある。
つまり「他者」の存在を理解することである。世の中は自分だけではない。若い時は「オレ様意識」が強い場合があり、そんなまだるっこしい選挙になんて、関わりたくないと思ったりする。もうすぐ自分の音楽活動が認められる日が来れば、オレの音楽で世界を変えられる、とか。だから、選挙のごときは「愚民の業」に見えてしまったりする。でも、ホントは自分もその「愚民」の一員なのであって、同時代に生きる一員なのである。
「変えたくない人」は現状から利益を得ている。利益を守ろうという人は、利益を守るために幅広く団結できる。一方、そういう現状を変えたい、理想を実現したいと思う人は、その人なりの「思想」「信条」をベースにしていることが多い。「思想」を問題にする人は、ちょっとした考え方の違いで「分裂」していきやすい。(いや当人は「ちょっとした違い」ではなく、「本質的な違い」だと言うんだろうけど。)つまり、現状を変えたくない勢力の方はまとまって選挙に臨むのに、現状を変えたいと思う勢力はバラバラで選挙に臨むことが多いのである。(これは日本だけでなく、韓国で大統領直接選挙が復活した87年の選挙で金大中と金泳三が両方たった例、2000年米大統領選で、ゴアに対しラルフ・ネイダーがたってブッシュ・ジュニアが当選した例など、世界政治史上で枚挙にいとまない。)
そのように分裂選挙になるんだったら、ますます行く意味がなくなると思うかもしれない。僕も「抗議としての選挙ボイコット」が必要な場合もあることは認める。でも、ほとんどの場合は、自分が行かなければ、自分の支持しない政党の得票率が数千万分の一の分だけ増えてしまう。これを同時代に生きる者の倫理として、自分で許せるか。
社会を変えたいと思うものにとって、選挙はほとんど負け続けになるはずだ。だから行っても仕方ないのではなく、負け続けだからこそ行くのである。日本の同時代を生きる他者に対して、反対勢力もいるんだと示すためである。まだまだ違う意見を持つものもいるのだぞと示すためである。だから負けそうな時ほど行く意味が大きい。どうせ自分が行かなくても当選するんだったら、さぼりたくなるだろう。でも自分が入れても負けそうな時ほど、自分が少数意見を表明する意味が大きくなるのである。
僕にとっては、選挙に行くのは自明の前提で、選挙で社会を変えるなどと思ったことはない。もちろん政権を変えるとかそういうことはありうる。しかし、どの党が政権を担ったとしても、世の中は急には変わらないだろう。人の行動を奥深くで決定する文化的、歴史的な行動様式、生活様式は、変わるとしても数百年レベルでしか変わらないと思う。それは「革命」を起こしたはずの国で、革命政権が同じような独裁を開始することが多いのを見ても、よく判る。だから、選挙だけではダメで、デモに行くのもいいし、集会に参加するのも必要。それとともに、仕事の場、家庭の場、遊びの場、様々な自分の持ち場で「少しずつ変えていく」。そして世の中を変える前に、まず「自分」を変える。
選挙に行かないと言う人の言い分は、行っても仕方ない、もう結果は決まってる、当日はちょっと用事がある、どうも暑くて行く気にならない、どこに入れても同じ、入れたい人がいない…いちいちもっともなんだけど、全部言い訳である。こういう「言い訳人間」で生きていきたくなければ、デモや集会はともかく、せめて選挙ぐらいは行って欲しい。その程度の、今のシステムへの信任、世の中での責任を示すべきだと思うけど。
「選挙に行っても仕方ない」「自分が投票しても何も変わらない」というようなことを言う人が時々いる。そういう考え方に対して僕が思うことを書いておきたい。二つある。「全くその通りである」というのと「あんた、何様だと思ってるんだよ」である。
誰か一人が選挙に行ったからって、それだけで世の中が変わるわけないじゃないか。ただ選挙に行ったからと言って、世の中が変わるなんて思える方が不思議である。日本の有権者は約1億人いる。去年12月の衆議院選挙は大体59%の投票率で、およそ6千万人が投票した。参院選は毎回少し下がるが、半数が行くとして5千万人。比例代表区は全国単位だから、一人の影響力は5千万分の1程度になる。人間は自分は特別だと思いたいものだが、実は同じ国の同じ時代に生きる数千万人の一人に過ぎない。だから選挙に行ったからと言って、すぐ影響力があるわけがない。当たり前である。それでは行かなくても同じなのではないか。いや、決してそうではない。「同時代に生きる数千万人の一人」として、日本社会に参加するという他では得られない経験ができるのだから。
問題は、「何故自分の一票では社会が変わらないか」をとことん突き詰めることである。今「社会が変わらない」と書いたけど、これは特に原発問題などを頭に思い浮かべている。福島第一原発事故以後初の衆議院選挙で、脱原発を掲げる政党ではなく、原発を推進してきた政党が勝利した事態をどう思うか。でも、若い世代だって自民党支持者はいるだろう。そういう人は「自分の一票で、民主党政権を倒して自民党政権復活を実現できた」と思っているのではないか。世の中には様々な人がいる。変えたいと思う人もいれば、変えたくないと思う人もいる。今の社会に「それ」があるということは、「それ」があることで仕事が成り立っている人がいるということである。様々な問題について、同じことが言える。自分だけが一票を持っているのではなく、他の人も同じ一票を持っているわけだから、選挙では自分の入れた党が負けることも当然ある。
つまり「他者」の存在を理解することである。世の中は自分だけではない。若い時は「オレ様意識」が強い場合があり、そんなまだるっこしい選挙になんて、関わりたくないと思ったりする。もうすぐ自分の音楽活動が認められる日が来れば、オレの音楽で世界を変えられる、とか。だから、選挙のごときは「愚民の業」に見えてしまったりする。でも、ホントは自分もその「愚民」の一員なのであって、同時代に生きる一員なのである。
「変えたくない人」は現状から利益を得ている。利益を守ろうという人は、利益を守るために幅広く団結できる。一方、そういう現状を変えたい、理想を実現したいと思う人は、その人なりの「思想」「信条」をベースにしていることが多い。「思想」を問題にする人は、ちょっとした考え方の違いで「分裂」していきやすい。(いや当人は「ちょっとした違い」ではなく、「本質的な違い」だと言うんだろうけど。)つまり、現状を変えたくない勢力の方はまとまって選挙に臨むのに、現状を変えたいと思う勢力はバラバラで選挙に臨むことが多いのである。(これは日本だけでなく、韓国で大統領直接選挙が復活した87年の選挙で金大中と金泳三が両方たった例、2000年米大統領選で、ゴアに対しラルフ・ネイダーがたってブッシュ・ジュニアが当選した例など、世界政治史上で枚挙にいとまない。)
そのように分裂選挙になるんだったら、ますます行く意味がなくなると思うかもしれない。僕も「抗議としての選挙ボイコット」が必要な場合もあることは認める。でも、ほとんどの場合は、自分が行かなければ、自分の支持しない政党の得票率が数千万分の一の分だけ増えてしまう。これを同時代に生きる者の倫理として、自分で許せるか。
社会を変えたいと思うものにとって、選挙はほとんど負け続けになるはずだ。だから行っても仕方ないのではなく、負け続けだからこそ行くのである。日本の同時代を生きる他者に対して、反対勢力もいるんだと示すためである。まだまだ違う意見を持つものもいるのだぞと示すためである。だから負けそうな時ほど行く意味が大きい。どうせ自分が行かなくても当選するんだったら、さぼりたくなるだろう。でも自分が入れても負けそうな時ほど、自分が少数意見を表明する意味が大きくなるのである。
僕にとっては、選挙に行くのは自明の前提で、選挙で社会を変えるなどと思ったことはない。もちろん政権を変えるとかそういうことはありうる。しかし、どの党が政権を担ったとしても、世の中は急には変わらないだろう。人の行動を奥深くで決定する文化的、歴史的な行動様式、生活様式は、変わるとしても数百年レベルでしか変わらないと思う。それは「革命」を起こしたはずの国で、革命政権が同じような独裁を開始することが多いのを見ても、よく判る。だから、選挙だけではダメで、デモに行くのもいいし、集会に参加するのも必要。それとともに、仕事の場、家庭の場、遊びの場、様々な自分の持ち場で「少しずつ変えていく」。そして世の中を変える前に、まず「自分」を変える。
選挙に行かないと言う人の言い分は、行っても仕方ない、もう結果は決まってる、当日はちょっと用事がある、どうも暑くて行く気にならない、どこに入れても同じ、入れたい人がいない…いちいちもっともなんだけど、全部言い訳である。こういう「言い訳人間」で生きていきたくなければ、デモや集会はともかく、せめて選挙ぐらいは行って欲しい。その程度の、今のシステムへの信任、世の中での責任を示すべきだと思うけど。