尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「この世界の片隅に」をどう見るか

2016年12月09日 23時15分54秒 | 映画 (新作日本映画)
 話題のアニメ「この世界の片隅に」を見た。小さな公開規模からどんどん広がり、シネコンなどでも公開されている。今後もっと広がる予定らしい。配給した東京テアトルの株価も、長いこと130円あたりで低迷していたのだが、一時は200円を超えるまでになった。(今は180円ぐらい。まあ株価を気にしてる人は少ないだろうけど。)ところで、本日夕刊の広告によれば、「感動率100%、推薦率97%」なんだって。僕もまあ、感動はしたし、推薦もしたいと思うけど、それだけではどうかと思う。

 最初にスタッフやキャストを書いておくと、こうの史代原作の漫画(2007年~2009年に連載)を、片渕須直(1960~)がクラウドファンディング(インターネットで出資者を募る)も利用して製作した。片渕監督はテレビで長く活動し、劇場用映画としても「アリーテ姫」「マイマイ新子と千年の魔法」などがある。これらは評判は高かったけど、僕は見ていない。原作者のこうの史代は広島出身で、「夕凪の街 桜の国」などで知られる。これは佐々部清監督、田中麗奈主演で映画化され、原作も映画も印象深かった。また、主人公の声を「のん」(能年玲奈あらため)がやっていることも大きな話題となった。

 広島市の江波(えば)という海辺の町に、浦野すずという絵の好きな少女がいた。家の仕事の海苔養殖をすずも手伝っていた。縁あって、呉市の北条周作という青年に嫁ぐが、戦時下の日々をどう生きたか。丹念に生活の細部を描写し、リアルな「決戦下の非常時」を描き出す。遠い出来事だった戦争も、毎日の空襲におびえ、日々の食事にも事欠くようになり、昭和20年、最後の夏がやってくる…。

 「戦争の日々」がリアルに再現されていて、それはアニメならでは。これを実写化するには、さらに多額の製作費が必要になるだろう。それにCGをいくら駆使しても、21世紀を生きる生身の俳優が当時の人々を演じると、どうしても違和感が出てくるものだ。それを思うと、アニメという手段が生きていると思う。もう当時の生活を実際に知っている人は数少ない。子どもどころか、親も教師も知らない。これは是非、親が子供と一緒に見に行ってほしい映画だと思う。

 「この世界の片隅に」という題名はどうか。すずは日本を代表する軍都である呉市に嫁ぎ、戦史に有名な戦艦大和を実際に見た。「世界の片隅」じゃないじゃないか。戦争の真っただ中を、ど真ん中で生きているではないか。しかし、それは後から思えることで、単に「ぼんやりした少女」だったすずは、特に大きなミッションを生きているわけではない。だから、自分は「世界の片隅」で生きていると思う。

 「君の名は。」や「シン・ゴジラ」とは違って、この映画の主人公は世界の動きに右往左往するだけである。だけど、と映画を見終わって思う。「すずにも非常に大きなミッションがあったのだ」ということを。それは日々を生き抜き、日々のやるべきことをやっていくということである。自分のできることは限られる。だから、すずもさまざまな代償を払わせられる。だけど、すべての人々には「大きな仕事」がある。「生きていくという大きな仕事」が。だから、この映画は多くの若い人々に見てもらいたいと思う。

 一方、この映画の設定は「かなり恵まれている」とも思う。望まれて結婚し、夫は軍法会議に勤めていて、出征しない。もちろん、実家のある広島は原爆が投下された。そのことは僕らは判っているから、この主人公はどうなるんだろうと思って見るわけで、ここでは書かないことにする。当時のことだから、それに主人公の設定からも、彼女は戦争について、あるいは軍都である呉という町について、何かを考えていたわけではない。だから、ただ戦時下の非常時を一生懸命生きているだけだ

 姿は小柄で、顔も可愛らしく描かれているから、僕らは安心して「同情」できる。(対照的に、気の強い義姉まで用意されている。)だけど、彼女に見えていないものがある。それは映画内でも自覚されている。すずが遊郭に迷い込んで、帰り道を教えてもらうシーンで、この世界に存在する大きな「格差」を示唆している。だけど、すずは気が付いていない。

 なんで、すずは、あるいは家族の人々は、これほど大きな悲惨にあわなければならないのか。戦争は自然災害じゃないんだから、誰かが起こしたのである日本が起こしたのである。大体、日本を救うはずの戦艦大和なんか、「特攻出撃」を命じられて戦果を挙げることなく撃沈されてしまった。一緒に見ていた少女に「空母がないね」と言わせているが、そんな時代遅れの軍部に国民は声を挙げられなかった。それどころか、何かというと軍部が威張り、人々を押さえつけていた。

 すずが済んでいた江波というところは、広島駅の西南部にある。かつては広島の外港として栄え、海苔の養殖が盛んだった。ウィキペディアに記載があり、それによれば1940年以後、埋め立てが進んで海苔生産はできなくなった。代わりに工業地帯が作られ、三菱重工の造船所ができ、広島電鉄江波線が引かれた。このように、家業の衰退からも軍需工業化が民業を圧迫していった歴史が判る。すずには見えていなかったのである。

 だけど、と思う。すずの年齢を考えると、もう亡くなっていてもおかしくないけれど、まだ90代初めで生きているかもしれない。今も生きて平和のために活動していても、決しておかしくない。映画内で「気づいていない」と描かれているのは、戦後の日々で「気づいていった」と考えてもいい。そういう戦後の日々があったと想定してみたい。そして、もう年老いて、いま語らなければと思って、自分の戦時下を語っているのだと。つまり、すずが気づかなかったことを僕らは気づけるはずだということである。

 だから、僕はこう思う。すずは戦後の日々を、きっと自分と自分の周りの人々が悲しい目に合わないように、「二度とだまされない」生き方をしたはずだと。そして、それを僕たちが引き継いでいくんだと。最後に二つ、映画内で「広島県物産陳列館」の姿が映し出される場面が何度かある。「その後」を知っている僕は、なんという美しい建物だろうと思う。そして、今も苛烈な戦争の中に置かれたアレッポモスルの人々の苦難にも思いをはせる。そんなことを思って見た映画である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柳宗悦をどう考えるか

2016年12月08日 23時14分10秒 |  〃 (歴史・地理)
 お芝居に合わせて、柳宗悦(やなぎ・むねよし)に関する本を読んだ。2013年に出た中見真理「柳宗悦」(岩波新書)を買ったまま読んでなかった。それと鶴見俊輔「柳宗悦」(1976)を前から読み直したかったので、この機会に読み直した。そこで考えたことを少し書いておきたい。

 柳宗悦(1889~1961)は、日本の「民芸の父」というべき人物で、東京都渋谷区の駒場に日本民芸館を創設した。戦前からある文化運動が今も続いている例は少ない。民芸館は僕も何回か行ったことがあるが、家から近くないので最近は行ってない。とても気持ちのいい場所だと思う。だけど、僕の若いころには、もう「民芸」が一種の権威となっていて、柳もエライ人という印象がした。

 70年代には、韓国の軍事独裁政権に対する民主化運動が活発に行われた。日本でも韓国政治犯の救援運動や民主化連帯運動が起こり、日本の「植民地として支配した責任」が問われるようになった。朝鮮との連帯を求めた日本人も「再発見」されるようになった。1919年の三・一独立運動が起こった時、日本の新聞は「暴動」と報道したが、同情を公然と表明したのは、吉野作造(民本主義の主張者)や石橋湛山(東洋経済新報)、あるいはキリスト教の人々などごく一部だった。「朝鮮文化」を守る運動を行った柳宗悦もその有力な人物として再発見されたのである。

 中見著に詳しいが、80年代以後、柳に対しては批判も大きくなっていった。「同情」に留まったとか、朝鮮総督府の「文化統治」に結果的に協力しているなど。さらに柳が主張した「朝鮮文化=悲哀の美」論が、支配者の目から見た「押しつけ的見方」であり、「オリエンタル・オリエンタリズム」とでも言うべき「幻想」だというようなものである。ある意味、それは否定できない面もあるだろう。日本でもそうだが、民衆には「派手」な原色は禁止され、民芸品は「白」を基調とした作風になった面はあるだろう。

 僕も「民芸運動」は偉くなりすぎて、文化勲章を取るような「エライ作家」(濱田庄司、棟方志功など。河井寛次郎は辞退)を生み出して、「無名の工人」を大事にするはずが少し違ってきたような感じがした。また最後のころは(というか最初からではあるが)、宗教や神秘思想への関心が強く、「抹香くさい」文章が多くて、ちょっと嫌になるところがある。そんなこんなで、岩波からずいぶん著作が文庫化されたが、あまり読まなくなったのである。

 でも、柳宗悦の基本的方向は今でもすごく好きである。それは「文化」や「日常の美」を求めて、理想社会へ近づこうという発想である。イギリス社会主義運動の中の、ウィリアム・モリスのような考えである。政治や経済の権力を握るだけでは、「反体制」が「体制」に代わっただけで、相変わらず専制的な権力が続く。歴史の中にあるのは、そんな「革命」ばかりである。だからこそ、日々の暮らしの中に美を作り出そうというモリスや柳の発想は、いまも魅力的ではないか。
(柳宗悦)
 中見著は副題を「『複合の美』の思想」とあるが、この言葉は柳が若いころから使っているものだという。どんなに美しい花でも、世界中にその花しかないというのでは、世界は単調である。「単色の美」ではダメなのである。この発想は、文化人類学や美学から来たものではなく、若いころに熱中したブレイク(イギリスの詩人、画家)の神秘思想に元があるらしい。世界は光だけでなく、影もあるという発想である。若くして父を失い、兄弟も失うことが多かった柳は、神秘主義にひかれる面があったのだろう。

 そして、朝鮮文化に触れてから、柳は「民芸」という考えをはっきりさせることができた。日本の民芸を朝鮮に当てはめたのではなく、朝鮮の民衆文化発見が先だったのである。柳は「朝鮮民族」や「二つの文化」というとらえ方をしている。「朝鮮」を日本と違った一つの「民族」と表明するのは、当時は危険思想に近いが、柳は一貫して「朝鮮民族」と表現している。その視点は、アイヌ文化や琉球文化にも貫かれた。世界に「文化的排他主義」が力を増しているときに、柳の文化のとらえ方は今も意味がある。

 そして、柳の「平和思想」や「宗教的寛容」も、もっと注目するべきものだ。もともと「白樺」に属していた時も、武者小路実篤や志賀直哉と違って、ケンカしない人柄で信頼されたという。一番若年だったこともあるだろうが、事務能力も高く、周囲をまとめる役だった。そういう資質もあってか、戦時中も平和主義を貫いた。武者小路なんか、戦時中は戦争賛美の文章を書きまくったが、柳は一切書いていない。民芸運動を守るため、当局にある程度協力した場面はあったけど、戦争の旗振りはしなかった。

 文化のとらえ方も決して、伝統墨守の固定化したものではなかったという。民芸館では、椅子に座った茶会も考案したし、コーヒー茶会も行ったという。(獅子文六の「コーヒーと恋愛」はまんざら突拍子もない発想じゃなかったのだ。)朝鮮文化の「悲哀の美」論も、柳が各民族の比較文化的研究に乗り出した初期のもので、最初に図式的な仮説を作ったというものだという。大正時代だけで10回以上朝鮮を訪れた柳だが、戦後は当然一度も訪問していない。だから、最終的な判断と受け取る必要はないと思う。

 むしろ、宗教的な原理主義が世界に広まっているいまこそ、宗教的寛容と民衆文化に目を向けた柳の思想が役に立つんじゃないか。改めて、柳宗悦という人を考えてみると発見することがいっぱい残っている。文章など、少し古い面はあるけれど、イスラム世界でも柳の発想を広めていけないか。平和を求めること、民衆芸術の豊かなことで、イスラム世界こそ「民芸」が求められている気がする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

劇団民藝「SOETSU 韓くにの白き太陽」を見る

2016年12月08日 00時07分23秒 | 演劇
 劇団民藝の「SOETSU 韓くにの白き太陽」を見た。三越劇場(日本橋三越本店6階)で、18日(土)まで上演。長田育恵作、丹野郁美演出。「SOETSU」とローマ字で書いてあるけど、日本の民芸運動を確立した思想家、美学者の柳宗悦(やなぎ・むねよし)のこと。一般によく「そうえつ」と読まれた。さまざまなことに関わった人だが、主に朝鮮文化との関わり朝鮮問題への取り組みを描いている。

 最近あまり舞台を見てなかったんだけど、柳宗悦に強い関心があるのと、長田育恵(おさだ・いくえ)が戯曲を書いているので、ぜひ見たいと思った。てがみ座主催の長田さんは、最近注目すべき作品が続いていて、僕も「蜜柑とユウウツ」「対岸の永遠」を見て、とても心を動かされた。柳のことは次回に別に書きたいが、間違いなく近代日本の文化史、思想史に輝く巨星である。いろいろな切り口があり過ぎて、「いま」という時点でどう取り上げるか、大変難しい題材だったと思う。

 「白樺」時代の青春、あるいは文学や神秘思想、宗教への深い関心アイヌや東北、台湾などへの関心などはきっぱりと切り捨てて、「朝鮮」に焦点を絞っている。柳宗悦を基本的に肯定しつつも、朝鮮人の立場、朝鮮に住みついている浅川巧の立場、さらに支配者の朝鮮総督府、家庭における兼子夫人など、いろんな立場の人々が出てきて、柳宗悦を相対化する。そうしないとドラマが作れないが、主人公の立場が不安定にもなる。現実の柳のありようも、さまざまな批判を浴び続けてきたから、それもやむを得ないかと思うが、ちょっと印象が薄まる感じもあった。
 
 柳を演じているのは、客演の篠田三郎。上の前の方が柳だから、確かにこれは似てるなあ。実在の主人公に似せるのが演劇ではないが、写真でしか知らないけど似てるなあと思った。朝鮮民族美術館を開くために協力する浅川巧斎藤尊史、妻の兼子は中地美佐子が演じている。どちらも民藝の劇団員で、前にも何度か見ているはずだが名前は覚えてない。今回は非常に印象的な熱演で、柳を相対化しつつ、柳の協働者である役割を果たした人物を忘れがたく演じている。

 一方、朝鮮人では柳の書生となる南宮璧は実在人物。(ちなみに、南宮は朝鮮には珍しい二字姓。)日色ともゑが演じている、京城(現ソウル)の旅館の女将・姜明珠一家はフィクション。支配者である日本人と被支配者である朝鮮人は、協力できるのかという重い問いをこれらの人々が投げかける。柳は「朝鮮文化を守る」ことに力を尽くすが、一面から見れば「独立運動には関わらない」ということで、総督府の「文化統治」と同じに見えかねない。柳は「同化」を厳しく批判したが、あくまでも文化にしか関わらない。「文化」と現実政治の緊張関係を、どう理解すべきか。今もなお解けない難問ではないか。

 長田戯曲では、あまり厳しい対立状況が起きない評伝劇が多いように思う。この作品では、例外的に最後のころに日色演じる金明珠が「日本人」を厳しく批判するセリフを書いている。柳の中にも「哀れみ」的な感覚がなかったか。その問題は別に書くけど、とても大事な問題だと思う。近代思想史に関心がある人には、割と知られた題材なんだけど、一般には忘れられているかもしれない。大事な問題を突き付けたドラマだから、あまり詳しくない人にこそ見て欲しい舞台。

 浅川巧は映画になっていて、かつて「映画『道-白磁の人-』」に感想を書いた。柳は柔道で知られる嘉納治五郎の母方の甥にあたり、ともに千葉県我孫子市に住んでいた時代がある。柳の屋敷は今も残るが違う人が住んでいる。そのことは前に「我孫子散歩」をして写真を載せた。その我孫子の家に、浅川伯教(巧の兄)があるとき、朝鮮白磁を持ってやってきた。柳が持っているロダンを見たかったのだが、柳はその白磁に魅せられた。今は日本民芸館に所蔵されているが、こんなもの。

 確かに「いいもの」である。僕も若いころに李朝の白磁を見て素晴らしいと思った。この美しさは、ドナルド・トランプに判るかな。あの金ぴか御殿に住んでられる人には判らんだろう。それと、柳兼子の素晴らしさがこの舞台によく描かれている。柳宗悦とは愛と芸術で結ばれた夫婦として、時代に先がけていた。でも宗悦は家庭人としてはもちろん何もせず(できず)、家事一切を兼子に任せていた。柳兼子は日本を代表する声楽家(アルト)で、80過ぎまで活躍した。今も高く評価されていて、兼子夫人が朝鮮でリサイタルを行ったことは大きな意味があった。劇の中でも、かなり夫批判をしていて、ついにドイツ留学を認めさせている(実話)。東京府立第一高女卒で、僕にとって大先輩にあたることになる。柳兼子のドラマも誰か作って欲しいな。ミュージカルになると思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平林寺散歩

2016年12月05日 23時37分58秒 | 東京関東散歩
 埼玉県新座市にある平林寺(へいりんじ)に紅葉を訪ねる散歩。暑い夏や雨ばかりの9月には行けなかったので、最近は散歩に行きたい気分、。4日の日曜は混んでると思ったけど、暖かい日で散歩日和。旅行のバイキングで食べ過ぎたから、映画を見るよりカロリーを消費しないと。

 平林寺は、臨済宗妙心寺派の古刹で、今も中心あたりは修行のため入山禁止になっている。武蔵野の面影を残す広大な雑木林は、国の天然記念物に指定されている。「知恵伊豆」こと松平信綱一族の墓所がある歴史的に由緒ある寺院である。まずは紅葉の写真を。
   
 東京近郊では有数の散歩コースだけど、ずっと忘れていた。思い出したのは、獅子文六の「コーヒーと恋愛」(ちくま文庫)というユーモア小説を読んだからである。茶道のようにコーヒーをたしなむ「可否道」確立を目指す人々を描くが、最後の方で平林寺と思える寺(名前は違えている)で、「コーヒー野点」をしようとするシーンがあった。あ、ここは平林寺だな、若いころに行ったなと思い当たった。
  
 30年以上行ってないから、どこにあったっけと調べた。昔は西武線のどっかからバスで行ったと思うけど、JR武蔵野線新座駅から歩いて30分ほどとある。平林寺が近づいてくると、樹々の迫力に期待が膨らむ。だけど、中へ入れるのは「総門」だけなので、そこまでが長い。気持ちのいい道をずっと歩いて、新座市役所のところで曲がって、さらに歩く。500円払って入ると、やっぱり人が多い。入ってすぐに「山門」がある。額に「凌雲閣」と書いてある。上の写真は山門と放生池。その奥に仏殿と本堂があるが、人が多いうえ光線の具合でうまく撮れなかった。
   
 その奥に松平信綱一族の墓がズラッと並んでいる。平林寺はもともと1375年に岩槻(さいたま市)に創建された。それが1663年に現在の地に移された。川越藩主だった松平信綱の遺志によるものだという。ということで、信綱一族の墓所となったが、一族の墓がそろっているのは実に壮観。上の4枚目の写真は、島原の乱の供養塔で、乱後200年遠忌に作られたもの。信綱は鎮圧の総大将だった。
   
 あとは広大な散歩道を写真を撮りながらグルっと回る。どこで撮った写真か、自分でもよく判らないけど、奥の方に「もみじ山」という一角があり、モミジで言えばやはりそこらが一番だった。多少盛りを過ぎたかなと思うけど、十分楽しめた。上の3枚目の写真を見ると、野点をやれそうな感じ。やっていいのかはしらないけど。たくさんあるから、先に使わなかった紅葉の写真をもう少し。
   
 まあ、いくら載せてもきりがないので、もう終わり。他にも「電力王」松永安左ヱ門の墓もある。また野火止(のびどめ)用水がここを通っている。関東平野は火山灰の関東ローム層に覆われ、水の確保が難しい地域が多かった。そこでいくつもの用水が作られている。松平信綱はまず玉川用水を作り、さらにそこから分水して、東京都小平から埼玉県志木まで開削したのが野火止用水。寺や市役所の近くに野火止用水公園があった。そこらあたりまで小川のような用水が見られる。
   
 寺の真ん前に。松永安左エ門の地所だった「睡足軒の森」がある。また寺に沿った「大門通り」にある「たけ山うどん」はよく案内に出ているが、美味しそうな店だった。(満員で入れず。ここに新座市マップがある)。そして少し行くと市役所で、この期間の土日はオープンカフェをやっていた。用水公園から少し歩くと、農産物直売センターもあり、なかなか便利なコース。今度は新緑に来ようと思った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

増田義郎、竹内芳郎、りりィ、藤原てい等ー2016年11月の訃報

2016年12月04日 20時54分02秒 | 追悼
 11月の追悼特集。独自記事を書いたのは、映画監督・プロデューサーの荒戸源次郎フィデル・カストロ。まず文化人類学者・歴史学者の増田義郎(よしお)氏の訃報から。(11.5没、88歳) 日本における中南米研究の先駆者であり、一般向けの本もいっぱい書いた。僕もずいぶん読んで、インカ帝国なんかの謎に満ちた歴史に憧れたものだ。「太陽と月の神殿」(1969)は、中学生で読んだと思う。他にもメキシコ革命や大航海時代の本を読んでる。教科書に載る歴史用語「大航海時代」も、増田氏が発案したんだそうだ。専門書以外の翻訳もいっぱいあって、中公文庫のマクニール「世界史」や「宝島」「ロビンソン・クルーソー」なんかも訳している。

 続いて、哲学者の竹内芳郎氏。11.19没、92歳。サルトルメルロ=ポンティなどを紹介し、マルクス主義の立場から論壇で発言も続けた。70年代頃の知的世界では知られていたと思う。紀伊国屋新書で出ていた「サルトルとマルクス主義」という本を、高校の倫社の授業で思想家ごとのグループ発表で取り上げた思い出がある。もちろんちゃんと判っているはずはない。だけど、一応そういう授業があり、それなりに何かをしゃべったわけだ。他に「国家と文明」という岩波から出た本は、持ってると思う。80年代以降もポストモダン思想を批判し続けて本も出しているが、僕ももう知らない。
 
 歌手のりりィが死去。11.11没、64歳。74年に出た「私は泣いています」が、独特のハスキーヴォイスで大ヒットした。でも、その前の1972年に、大島渚が復帰直後の沖縄で撮った「夏の妹」という映画に準主演していた。僕にはそっちの方が印象深い。決して傑作だとは思えないし、りりィも名演というほどではないけど、印象には深く刻まれたわけ。その後も歌手としても俳優としても、断続的に長く活躍している。今年公開された「リップヴァンウィンクルの花嫁」でも、怪演を披露していた。
  (右は若いころに出したレコードのジャケット)
 藤原ていが98歳の長命で亡くなった。11月15日。旧満州国から朝鮮北部へ、そして日本へなんとか逃げ延びた手記「流れる星は生きている」(1949)が大ベストセラーになったことで知られる。夫は後に有名作家となる新田次郎で、次男は数学者でエッセイストの藤原正彦だけど、この一家で最初に世間に知られたのは藤原てい夫人だったのである。新田次郎は、中央気象台勤務だった人で、1943年から満州国の気象台に課長として行っていたのである。

 戦後の自民党内、保守政界で重きをなした奥野誠亮(せいすけ、11.16没、103歳)が死去。ずいぶん長生きしたものだが、2003年に政界を引退した。90歳まで議員をしていたことになる。田中内閣の文相、鈴木内閣の法相、竹下内閣の国土庁長官を務め、最後は歴史問題発言で辞任した。1938年に旧内務省に入省し、敗戦時に公文書の焼却を発案した人で、戦前の価値観をそのままにずっと生きてきた。


 僕のよく判らない分野の訃報。将棋連盟元会長の二上達也(ふたかみ・たつや、11.1没、84歳)は、羽生義治の師匠。大山康晴名人に3度挑み、敗れたが、王将、棋聖は奪取した。戦後初のプロテニス選手として知られる石黒修(11.9,80歳)は、30代でプロに転向したというから、すごいことだ。新派の女形として活躍した英太郎(はなぶさ・たろう、11.11没、81歳)は、初代に弟子入りして、72年に2代目を襲名した。山田洋次が演出した「東京物語」に出てたというから、一度は見てるはず…。
 長瀧重信(11.12没、84歳)は、長崎大で被爆者の調査を行い、その経験踏まえてチェルノブイリ原発事故の健康被害調査や支援に取り組んだ。漫画家で「山口六平太」を連載していた高井研一郎(11.14没、79歳)。ライターの雨宮まみ(11.17没、40歳)は、「こじらせ女子」という言葉を流行らせたというけど、僕はこの人を知らなかった。島田章三(11.26没、83歳)は、洋画家で文化功労者。「キュービズム的構成の中に抒情性の漂う」作風で、独自の具象画を書いた。

 名前だけ並べたけど、こうしてみると、改めて自分の知らない世界は広いなあと思う。日本人の最後に、吉永春子(11.4没、85歳)。元TBSテレビのディレクターで、ドキュメンタリー「魔の731部隊」を作った。多くの社会派ドキュメンタリーを作り、著作も多い。ウィキペディアを見ると、60年安保当時の全学連委員長、唐牛健太郎らが右翼の大物・田中清玄から資金を貰っていたという有名な話は、この人の「ゆがんだ青春 全学連闘士のその後」という1963年のラジオ・ルポルタージュが暴露したという。

 外国人では、まずカナダ出身のシンガーソングライター、詩人、小説家のレナード・コーエン。11月7日没、82歳。カナダのモントリオール生まれのカナダ人だけど、アメリカで禅の修行をして臨済宗の和尚だという。シンガーソングライターとして世界的に知られているが、同時にというか、むしろ最初は詩人として認められた。非常に多くの詩集があるが、小説も書いている。そういう興味深い人物で、ファンも多いということも知っていたけど、僕自身はほとんど知らない。

 ロバート・ボーンは、アメリカの映画、テレビ俳優。11.11没、83歳。この人は、「ナポレオン・ソロ」の主役ということになる。「ナポレオン・ソロ」は、2015年にガイ・リッチー監督がリメイクした「コードネーム U.N.C.L.E.」のもとになったテレビシリーズである。ロバート・ボーンは、確かに「荒野の七人」の七人目で出ていた。(「七人の侍」に相当役がないオリジナルの脇役だという。)「タワーリング・インフェルノ」や深作欣二の「復活の日」などに出てるけど、なんといっても「ナポレオン・ソロ」しか思い浮かばない。

 写真家、映画監督のデビッド・ハミルトン。11.25没、83歳。ソフトフォーカスの美少女写真集をいっぱい出している写真家で、日本でも何冊も作っている。画像はいっぱい出てくるけど、まあ、芸術というか、エロティシズムというか、少女趣味というか、僕にはよく判らない。映画も「ビリティス」などを作っているけど、やっぱりポルノアートみたいなのが多いようだ。

 最後に、フランス映画の撮影監督として、ヌーヴェルヴァーグ映画を支えたラウル・クタール(11.8没、92歳)。徴兵されてインドシナに赴き、ベトナムで11年暮らして報道写真家になった。その後、映画に誘われ、新人監督の撮影を手掛けた。それらの映画が今映画史上に輝いているのは、ラウル・クタールの撮影が大きな貢献をしている。ジャン=リュック・ゴダールの「勝手にしゃがれ」に始まり、ゴダールの「女と男のいる舗道」や「気狂いピエロ」、「軽蔑」や「はなればなれに」など。さらにフランソワ・トリュフォーの「ピアニストを撃て!」や「突然炎のごとく」、「やわらかい肌」など。そしてコスタ=がブラスの「Z」や「告白」。大島渚の「マックス・モン・アムール」もあった。「気狂いピエロ」や「突然炎のごとく」は、僕にとってオールタイムベストテンに入る映画だから、ラウル・クタールという人は、僕の人生に大きな影響を与えたというべきだろう。監督もしているけど、それは見ていない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロンビアの傑作映画「彷徨える河」

2016年12月03日 21時45分19秒 |  〃  (新作外国映画)
 今年は南米コロンビアに関する話題が多い。サントス大統領が進めてきた左翼ゲリラとの和平は、いったん国民投票で否決されたものの、どうやらその後の再交渉が国会でまとまった。これで半世紀以上続いてきた内戦に終止符が打たれる。サントス大統領にはノーベル平和賞が与えられた。一方、一昔前には麻薬組織の中心として知られたメデジンで、日本人大学生が強盗に殺害される事件も起こった。またブラジルのサッカーチームを乗せた飛行機が墜落したのもメデジンの近く。

 そんなニュースもある中、コロンビア映画が初めて米国アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたという出来事もあった。受賞はならなかったが、最近コロンビア映画は元気なんだという。(ちなみに、受賞は「サウルの息子」で、他のノミネートに「裸足の季節」や「ある戦争」がある。もう一本ヨルダン映画があるが未公開。)さて、その「彷徨える河」が渋谷のシアター・イメージフォーラムで公開中。見るのが遅れて、12月9日まで。題名は「さまよえる」と読ませる。ちょっと無理かな。

 1981年生まれのシーロ・ゲーラという若手監督が作ったモノクロ映画で、ちょっとビックリするほど精神性の高い「探検映画」「ロード・ムービー」である。20世紀初頭、コロンビア奥地のアマゾン川上流域を調査するドイツ人探検家テオがいた。彼はいま重い病気にかかっていて、連れの先住民マンドゥカとともに、カラマカテという呪術師を訪ねる。カラマカテは白人に虐殺された部族の唯一の生き残りだった。からだけが知る「幻の聖なる植物」ヤクルナを教えて欲しいと頼み、何とか一緒にカヌーを漕ぎだす。

 そういう話かと思うと、途中で時間40年ぐらい飛んで、そのドイツ人学者の跡を訪ねるアメリカ人学者が出てくる。彼は年とったカラマンテを訪ねて、同じく聖なる薬草を教えて欲しいという。両方の時間を超えた川の旅が延々と続く。最初の旅では、スペイン人司祭が子どもたちに厳格なキリスト教を教え込んでいる(母語は「悪魔の言葉」として禁止されている。)その地と同じ場所と思われる地を、アメリカ人学者も訪ねるが、そこは恐るべき宗教集団が支配していた。「救世主」を名乗る男の妻を、カラマンテが治して信用されるが…。このあたりは、どう見てもコンラッドの「闇の奥」、映画ではコッポラの「地獄の黙示録」を思わせる筋書きで、ちょっと困ったなという感じもした。

 アマゾン川を舞台に映像マジックを繰り広げた映画と言えば、ヘルツォークの「アギーレ 神の怒り」や「フィツカラルド」を思い出す。でも、「アギーレ」はスペイン人征服者の視点で描いた悲劇、「フィツカラルド」はオペラに取りつかれた男の壮大な夢を描いていた。この映画は、先住民の視点にたって、白人学者を相対化し、ゴムを求めて侵略してきたヨーロッパ人を批判している。しかし、政治的な批判ではなくて、先住民のマジカルな世界、呪術的な精神性を主張している。どこか懐かしい気もするし、そこがちょっと作り物っぽい気もしたが、こういう感じの映画は久しぶりだったような気がする。

 僕にはよく判らない点も多くて、他に書いている人の記事を読んで教えられた。カラマンテの老若を演じる二人が素晴らしい。映画の中心になっている二人の白人学者は実在人物だという話である。冒頭で蛇の映像が出てきて、これがかなり気持ち悪い。でも、「蛇」が先住民の神話世界では大きな意味を持つらしい。モノクロ映像の河の風景が、印象的。判らないところ、図式的なところも多くありつつ、どうも気になる映画だなという感じ。注目すべき新鋭のシャープな作品である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鬼怒川温泉と日光杉並木

2016年12月01日 23時07分23秒 |  〃 (温泉)
 鬼怒川温泉に泊まりに行った。翌日に歩いた今市のことから。今まで百回ぐらいは日光や奥日光に行ってると思う。東武鉄道で行くと、鬼怒川温泉行きと日光行きが下今市(しもいまいち)という駅で分かれる。車で行くときも通るし、日塩もみじラインに行く場合は今市で下りる。だから「今市」という場所を百回ぐらい通っているわけである。今は「平成の大合併」で、今市も鬼怒川も「日光市」になった。

 今回は二日目は日光へ行くつもりだったけど、先週雪も降って寒そう。では、一度も行ってない今市を歩いてみようかと思った。最近「道の駅」ができたというし。「道の駅」はドライバー向け施設だから、よく町はずれにあるもんだけど、調べてみると駅から徒歩5分にある。ということで、2日目は今市散歩。

 発見がいろいろあったけど、まずは「日光杉並木」。駅から5分で「道の駅日光」、そこから10分ほど歩くと「杉並木公園」。東武日光線の車窓から杉並木と公園の水車が見えてくる。一度歩いてみたいもんだと、以前から思っていた。日光杉並木は名前は有名だし、車で通ったこともある。でも詳しくは知らなかった。今回調べたら、「特別史跡」と「特別天然記念物」に両方指定されている唯一のもので、日光街道だけでなく、日光例幣使街道会津西街道にも残っている。
   
 杉並木公園入口からしばらく、気持ちの良い道が続いている。けっこう長いけど、実にいい散歩道。並木道の脇の「杉並木公園」には水車がいっぱいあった。土手はコケがいっぱい。公園入り口近くには、「朝鮮通信使今市客館跡」の碑があった。朝鮮通信使は3回ほど、日光社参を行っているそうで、その際幕府は今市に豪華な客館を築いたんだという。
   
 ずっと歩いていくと、蕎麦屋「報徳庵」がある。その建物は「報徳仕法」で作られたものを移築したという。二宮尊徳様式である。手打ちそばで昼食。唯一動いていた大きな水車もここ。公園入口の向かいに「瀧尾神社」がある。日光の霊山から降りてくる「霊風」を受け止める神社だそうで、説明を読んでビックリ。霊風があるんだ。神社には「風車」に願い事を書いて飾るしきたり。
   
 「道の駅」近くに「報徳二宮神社」がある。報徳っていうのは、二宮尊徳の思想。尊徳は小田原生まれだけど、下野国でも活動したから、ここらに神社があるのかなと思ったら、なんと二宮尊徳の墓があると書いてある。えっ、墓があるんだ。説明を読むと、今市で死んでいるのである。1856年のことで、今年は没後160年にあたる。生まれたのは1787年。あまり関心がないので、今まで何度もここらに来ていながら、没地が今市とは知らなかった。遺言では墓は作るなとあったらしいが、結局門人と妻が作ってしまったという。墓の近くに大人の尊徳像、神社の方には二宮金次郎の像があった。いかにも二宮神社。
   
 神社には「宝物庫」もあったけど、もう誰も見ない感じの建物だった。この辺りは「大谷石」(おおやいし)の蔵がよくあるが、神社の境内にも大きな蔵があった。「道の駅」に戻ると、文化勲章受章の船村徹記念館もある。「王将」や「矢切の渡し」なんかの作曲家だけど、まあ入らない。今市の祭りの山車(だし)も置いてあって、これは立派なものだった。お土産もたいそう充実していた。これからよく行きそう。
    
 宿泊は鬼怒川温泉。職場旅行では何度も行ってるが、夫婦で行くのは初めて。鬼怒川温泉ホテルの85周年記念の安い優待券があったから、一度ぐらい行ってもいいかな。ここには観光、プラザ、ロイヤル、国際…など鬼怒川〇〇ホテルという大旅館が林立している。鬼怒川温泉ホテルは85年前に日光金谷ホテル系列で開業したところ。それは知らなかったから初めて行ったんだと思う。館内には昔の写真やクリスマスのサンタ人形なんかがいっぱい。お風呂は大きいけど、塩素臭のある循環で残念。石窯バイキングの食事は、今までになく豪華な感じで満足できたけど。
   
 お昼過ぎに着いたから、温泉街を散歩でもするかと歩き出した。下流に行くと、吊り橋がある。楽勝楽勝と渡り始めたが、途中で揺れると怖いではないか。高いのはいいけど、揺れるのは苦手なのである。何とか渡り終えると、さすがに迫力がある。ちょっと階段を上ると、全景が見える。
    
 その展望台から左に行けば滝、右に登れば楯岩展望台とある。先につい下って滝を見に行ったら、ちゃっちいのでガッカリ。戻って頑張って展望台に行くことにする。そうすると、トンネルがあって、抜けると広場がある。そこから大変な急登の階段があった。この急さ、狭さは登山並み。よっぽどやめようかと思ったんだけど、せっかくだから頑張るかと登り切ったら、そこには絶景があった。タダで行けて運動になる楯岩展望台は穴場的なスポットかな。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする