話題のアニメ「この世界の片隅に」を見た。小さな公開規模からどんどん広がり、シネコンなどでも公開されている。今後もっと広がる予定らしい。配給した東京テアトルの株価も、長いこと130円あたりで低迷していたのだが、一時は200円を超えるまでになった。(今は180円ぐらい。まあ株価を気にしてる人は少ないだろうけど。)ところで、本日夕刊の広告によれば、「感動率100%、推薦率97%」なんだって。僕もまあ、感動はしたし、推薦もしたいと思うけど、それだけではどうかと思う。
最初にスタッフやキャストを書いておくと、こうの史代原作の漫画(2007年~2009年に連載)を、片渕須直(1960~)がクラウドファンディング(インターネットで出資者を募る)も利用して製作した。片渕監督はテレビで長く活動し、劇場用映画としても「アリーテ姫」「マイマイ新子と千年の魔法」などがある。これらは評判は高かったけど、僕は見ていない。原作者のこうの史代は広島出身で、「夕凪の街 桜の国」などで知られる。これは佐々部清監督、田中麗奈主演で映画化され、原作も映画も印象深かった。また、主人公の声を「のん」(能年玲奈あらため)がやっていることも大きな話題となった。
広島市の江波(えば)という海辺の町に、浦野すずという絵の好きな少女がいた。家の仕事の海苔養殖をすずも手伝っていた。縁あって、呉市の北条周作という青年に嫁ぐが、戦時下の日々をどう生きたか。丹念に生活の細部を描写し、リアルな「決戦下の非常時」を描き出す。遠い出来事だった戦争も、毎日の空襲におびえ、日々の食事にも事欠くようになり、昭和20年、最後の夏がやってくる…。
「戦争の日々」がリアルに再現されていて、それはアニメならでは。これを実写化するには、さらに多額の製作費が必要になるだろう。それにCGをいくら駆使しても、21世紀を生きる生身の俳優が当時の人々を演じると、どうしても違和感が出てくるものだ。それを思うと、アニメという手段が生きていると思う。もう当時の生活を実際に知っている人は数少ない。子どもどころか、親も教師も知らない。これは是非、親が子供と一緒に見に行ってほしい映画だと思う。
「この世界の片隅に」という題名はどうか。すずは日本を代表する軍都である呉市に嫁ぎ、戦史に有名な戦艦大和を実際に見た。「世界の片隅」じゃないじゃないか。戦争の真っただ中を、ど真ん中で生きているではないか。しかし、それは後から思えることで、単に「ぼんやりした少女」だったすずは、特に大きなミッションを生きているわけではない。だから、自分は「世界の片隅」で生きていると思う。
「君の名は。」や「シン・ゴジラ」とは違って、この映画の主人公は世界の動きに右往左往するだけである。だけど、と映画を見終わって思う。「すずにも非常に大きなミッションがあったのだ」ということを。それは日々を生き抜き、日々のやるべきことをやっていくということである。自分のできることは限られる。だから、すずもさまざまな代償を払わせられる。だけど、すべての人々には「大きな仕事」がある。「生きていくという大きな仕事」が。だから、この映画は多くの若い人々に見てもらいたいと思う。
一方、この映画の設定は「かなり恵まれている」とも思う。望まれて結婚し、夫は軍法会議に勤めていて、出征しない。もちろん、実家のある広島は原爆が投下された。そのことは僕らは判っているから、この主人公はどうなるんだろうと思って見るわけで、ここでは書かないことにする。当時のことだから、それに主人公の設定からも、彼女は戦争について、あるいは軍都である呉という町について、何かを考えていたわけではない。だから、ただ戦時下の非常時を一生懸命生きているだけだ。
姿は小柄で、顔も可愛らしく描かれているから、僕らは安心して「同情」できる。(対照的に、気の強い義姉まで用意されている。)だけど、彼女に見えていないものがある。それは映画内でも自覚されている。すずが遊郭に迷い込んで、帰り道を教えてもらうシーンで、この世界に存在する大きな「格差」を示唆している。だけど、すずは気が付いていない。
なんで、すずは、あるいは家族の人々は、これほど大きな悲惨にあわなければならないのか。戦争は自然災害じゃないんだから、誰かが起こしたのである。日本が起こしたのである。大体、日本を救うはずの戦艦大和なんか、「特攻出撃」を命じられて戦果を挙げることなく撃沈されてしまった。一緒に見ていた少女に「空母がないね」と言わせているが、そんな時代遅れの軍部に国民は声を挙げられなかった。それどころか、何かというと軍部が威張り、人々を押さえつけていた。
すずが済んでいた江波というところは、広島駅の西南部にある。かつては広島の外港として栄え、海苔の養殖が盛んだった。ウィキペディアに記載があり、それによれば1940年以後、埋め立てが進んで海苔生産はできなくなった。代わりに工業地帯が作られ、三菱重工の造船所ができ、広島電鉄江波線が引かれた。このように、家業の衰退からも軍需工業化が民業を圧迫していった歴史が判る。すずには見えていなかったのである。
だけど、と思う。すずの年齢を考えると、もう亡くなっていてもおかしくないけれど、まだ90代初めで生きているかもしれない。今も生きて平和のために活動していても、決しておかしくない。映画内で「気づいていない」と描かれているのは、戦後の日々で「気づいていった」と考えてもいい。そういう戦後の日々があったと想定してみたい。そして、もう年老いて、いま語らなければと思って、自分の戦時下を語っているのだと。つまり、すずが気づかなかったことを僕らは気づけるはずだということである。
だから、僕はこう思う。すずは戦後の日々を、きっと自分と自分の周りの人々が悲しい目に合わないように、「二度とだまされない」生き方をしたはずだと。そして、それを僕たちが引き継いでいくんだと。最後に二つ、映画内で「広島県物産陳列館」の姿が映し出される場面が何度かある。「その後」を知っている僕は、なんという美しい建物だろうと思う。そして、今も苛烈な戦争の中に置かれたアレッポやモスルの人々の苦難にも思いをはせる。そんなことを思って見た映画である。
最初にスタッフやキャストを書いておくと、こうの史代原作の漫画(2007年~2009年に連載)を、片渕須直(1960~)がクラウドファンディング(インターネットで出資者を募る)も利用して製作した。片渕監督はテレビで長く活動し、劇場用映画としても「アリーテ姫」「マイマイ新子と千年の魔法」などがある。これらは評判は高かったけど、僕は見ていない。原作者のこうの史代は広島出身で、「夕凪の街 桜の国」などで知られる。これは佐々部清監督、田中麗奈主演で映画化され、原作も映画も印象深かった。また、主人公の声を「のん」(能年玲奈あらため)がやっていることも大きな話題となった。
広島市の江波(えば)という海辺の町に、浦野すずという絵の好きな少女がいた。家の仕事の海苔養殖をすずも手伝っていた。縁あって、呉市の北条周作という青年に嫁ぐが、戦時下の日々をどう生きたか。丹念に生活の細部を描写し、リアルな「決戦下の非常時」を描き出す。遠い出来事だった戦争も、毎日の空襲におびえ、日々の食事にも事欠くようになり、昭和20年、最後の夏がやってくる…。
「戦争の日々」がリアルに再現されていて、それはアニメならでは。これを実写化するには、さらに多額の製作費が必要になるだろう。それにCGをいくら駆使しても、21世紀を生きる生身の俳優が当時の人々を演じると、どうしても違和感が出てくるものだ。それを思うと、アニメという手段が生きていると思う。もう当時の生活を実際に知っている人は数少ない。子どもどころか、親も教師も知らない。これは是非、親が子供と一緒に見に行ってほしい映画だと思う。
「この世界の片隅に」という題名はどうか。すずは日本を代表する軍都である呉市に嫁ぎ、戦史に有名な戦艦大和を実際に見た。「世界の片隅」じゃないじゃないか。戦争の真っただ中を、ど真ん中で生きているではないか。しかし、それは後から思えることで、単に「ぼんやりした少女」だったすずは、特に大きなミッションを生きているわけではない。だから、自分は「世界の片隅」で生きていると思う。
「君の名は。」や「シン・ゴジラ」とは違って、この映画の主人公は世界の動きに右往左往するだけである。だけど、と映画を見終わって思う。「すずにも非常に大きなミッションがあったのだ」ということを。それは日々を生き抜き、日々のやるべきことをやっていくということである。自分のできることは限られる。だから、すずもさまざまな代償を払わせられる。だけど、すべての人々には「大きな仕事」がある。「生きていくという大きな仕事」が。だから、この映画は多くの若い人々に見てもらいたいと思う。
一方、この映画の設定は「かなり恵まれている」とも思う。望まれて結婚し、夫は軍法会議に勤めていて、出征しない。もちろん、実家のある広島は原爆が投下された。そのことは僕らは判っているから、この主人公はどうなるんだろうと思って見るわけで、ここでは書かないことにする。当時のことだから、それに主人公の設定からも、彼女は戦争について、あるいは軍都である呉という町について、何かを考えていたわけではない。だから、ただ戦時下の非常時を一生懸命生きているだけだ。
姿は小柄で、顔も可愛らしく描かれているから、僕らは安心して「同情」できる。(対照的に、気の強い義姉まで用意されている。)だけど、彼女に見えていないものがある。それは映画内でも自覚されている。すずが遊郭に迷い込んで、帰り道を教えてもらうシーンで、この世界に存在する大きな「格差」を示唆している。だけど、すずは気が付いていない。
なんで、すずは、あるいは家族の人々は、これほど大きな悲惨にあわなければならないのか。戦争は自然災害じゃないんだから、誰かが起こしたのである。日本が起こしたのである。大体、日本を救うはずの戦艦大和なんか、「特攻出撃」を命じられて戦果を挙げることなく撃沈されてしまった。一緒に見ていた少女に「空母がないね」と言わせているが、そんな時代遅れの軍部に国民は声を挙げられなかった。それどころか、何かというと軍部が威張り、人々を押さえつけていた。
すずが済んでいた江波というところは、広島駅の西南部にある。かつては広島の外港として栄え、海苔の養殖が盛んだった。ウィキペディアに記載があり、それによれば1940年以後、埋め立てが進んで海苔生産はできなくなった。代わりに工業地帯が作られ、三菱重工の造船所ができ、広島電鉄江波線が引かれた。このように、家業の衰退からも軍需工業化が民業を圧迫していった歴史が判る。すずには見えていなかったのである。
だけど、と思う。すずの年齢を考えると、もう亡くなっていてもおかしくないけれど、まだ90代初めで生きているかもしれない。今も生きて平和のために活動していても、決しておかしくない。映画内で「気づいていない」と描かれているのは、戦後の日々で「気づいていった」と考えてもいい。そういう戦後の日々があったと想定してみたい。そして、もう年老いて、いま語らなければと思って、自分の戦時下を語っているのだと。つまり、すずが気づかなかったことを僕らは気づけるはずだということである。
だから、僕はこう思う。すずは戦後の日々を、きっと自分と自分の周りの人々が悲しい目に合わないように、「二度とだまされない」生き方をしたはずだと。そして、それを僕たちが引き継いでいくんだと。最後に二つ、映画内で「広島県物産陳列館」の姿が映し出される場面が何度かある。「その後」を知っている僕は、なんという美しい建物だろうと思う。そして、今も苛烈な戦争の中に置かれたアレッポやモスルの人々の苦難にも思いをはせる。そんなことを思って見た映画である。