「神武天皇陵」関係記事の最後。まず最初に書いておくけれど、2回目に「真の初代天皇は誰か」と書き、それは10代崇神天皇ではないかと書いた。だけど、細かいことを言い出せば、その時代には「天皇」とは呼んでいない。だから、本当の意味での「初代天皇」は、「天皇号」を使い始めたのは誰か問題になる。古く取れば33代の推古天皇時代という説もある。また壬申の乱に勝利した天武天皇の時代からという説もある。まだ完全には解決していないので、通説というほどには語れない。
まあ7世紀あたりには「天皇」という称号を用いていると思われている。今はその問題は考えないことにする。ある時代までは、「日本」ではなく「倭」、「天皇」ではなく「大王」(オオキミまたはオホキミ)だけど、混乱を避けるため通常使っている「天皇」で全部を通すことにする。ついでに言うと、古代史の段階で「朝鮮人」と表記することも問題が多い。当時の人からすれば、「百済」「新羅」「高句麗」と別々に把握していたはずで、後の時代の王朝名である「朝鮮」として見ていた人はいないはずだ。
さて、神武天皇陵の問題。いないはずの天皇になぜお墓があるのか?この問題は実は奥が相当深い。天皇の墓は「陵」(りょう、みささぎ)というが、歴史の中の各時代で、常に大事にされてきたわけではない。というか、後の時代になると、天皇はさっさと譲位して、出家して仏教徒となった。10代で即位し、10代で譲位した人もいて、そういう人が何十年か後に亡くなる。火葬して寺に葬られるのが普通だった。天皇家として古代の巨大古墳を大切にしてきたということもなかった。
だから、大体の古墳は盗掘されていて、天皇陵も同じ。長い歴史の中で、どれが誰だか、全然判らなくなっていたのである。古代の巨大古墳の中で、天皇陵の被葬者が正しいとされるものは数少ないのである。天武・持統合葬陵(夫婦だった天武と持統は同じ古墳に葬られたと記録にある)は、その数少ない例外だけど、それは中世に盗掘された時の記録があるのである。(1235年のことで、藤原定家の日記「明月記」に載っている。犯人は後に捕まって磔になった。)
では、数多くの天皇陵はいつ定まったのか。(定めることを「治定(ちじょう)」という。)それは幕末から明治初期のことなのである。江戸時代中期になると、国学の勃興により「勤皇思想」が高まってくる。それは反幕府的な側面もあったけど、幕府だって「天皇の任命で将軍になる」わけで、特に幕末は「公武合体」路線だったから、幕府の手によって天皇陵の治定と修復が行われた。1862年から行われ、それを「文久の修陵」と呼んでいる。
その時に決まった治定は、今では多くの疑問を持たれているものがほとんどである。でも、だからと言って、幕府がデタラメに決めたということではない。「日本書紀」や「古事記」、あるいは「延喜式」(えんぎしき=律令の細則を式といい、平安時代初期の醍醐天皇に時に作られたものを延喜式という)などの記述を比較検討し、それなりに合理的に決めていったわけである。だけど、その当時は科学的な考古学の知見がまったくない時代なんだから、今の目で見ると時代が違っていたものがいっぱいある。
神武天皇陵も「文久の修陵」によって、1863年に現在の地に決められた。150年ほどの歴史しかない、「作られた伝統」なのである。だけど、神武天皇陵に関しては、それだけでは済まない。なぜかと言えば、7世紀後半の段階で、実際に神武天皇陵が作られていたと思われるからである。何で判るかと言うと、日本書紀によれば、壬申の乱(672年)に際して、大海人皇子(乱に勝利して、天武天皇となる)が使者を送っているという記載があるのである。
(「神武天皇陵」)
大海人皇子といえば、伊勢神宮に参拝して戦勝祈願をしたことが知られている。「伊勢神宮」と「神武天皇陵」という、「天皇制の2大神話装置」はすでに天武時代に作られていたのである。では、その時の神武天皇陵はどこだったか? それは歴史の中で判らなくなった。探し出そうという試みは江戸時代中期からあって、元禄時代には決められたんだけど、それは今は2代天皇綏靖(すいぜい)天皇陵とされている場所だった。要するに、史書や地形、地名の伝説などを考えていくと、なかなか決めがたく、候補は3つあったという。そこで、先に決めたところと違う場所に幕末に決めなおしたのである。
さて、では今の神武天皇陵は、大昔に神武天皇陵があった場所と同じなんだろうか。そこまでは僕には判らない。今の場所でいいのではという考えもある。それにしても、それは「神武天皇」なる架空の人のお墓ではないはずだ。大体、今の神武天皇陵は円墳であって、なんで初代天皇に作られるべき巨大な前方後円墳じゃないのか。それはそれとして、古代の段階で「神話時代の初代天皇」伝説が作られていたということは注目すべきことだと思う。それをどう捉えるかはよく判らないんだけど。
では、そういう神武天皇陵には参拝する意味があるのだろうか。「意味」などどうでもいいのか。「こころの問題」なんだから…。と言われてしまえば、それまでだが。天皇制とか天皇陵、あるいは参拝に意味があるかなどの問題を別にして、どうせ参拝するんだったら、他の天皇陵に行った方が「効果」があるんじゃないか。だけど、「靖国神社」とか「国歌」とか「紀元節」(建国記念の日)とか、みんな「近代になって作り出されたもの」である。日本の「真の伝統」でも何でもない。だから、「近代に作られた伝統」を守って神武天皇陵に行くということなんだろう。
まあ7世紀あたりには「天皇」という称号を用いていると思われている。今はその問題は考えないことにする。ある時代までは、「日本」ではなく「倭」、「天皇」ではなく「大王」(オオキミまたはオホキミ)だけど、混乱を避けるため通常使っている「天皇」で全部を通すことにする。ついでに言うと、古代史の段階で「朝鮮人」と表記することも問題が多い。当時の人からすれば、「百済」「新羅」「高句麗」と別々に把握していたはずで、後の時代の王朝名である「朝鮮」として見ていた人はいないはずだ。
さて、神武天皇陵の問題。いないはずの天皇になぜお墓があるのか?この問題は実は奥が相当深い。天皇の墓は「陵」(りょう、みささぎ)というが、歴史の中の各時代で、常に大事にされてきたわけではない。というか、後の時代になると、天皇はさっさと譲位して、出家して仏教徒となった。10代で即位し、10代で譲位した人もいて、そういう人が何十年か後に亡くなる。火葬して寺に葬られるのが普通だった。天皇家として古代の巨大古墳を大切にしてきたということもなかった。
だから、大体の古墳は盗掘されていて、天皇陵も同じ。長い歴史の中で、どれが誰だか、全然判らなくなっていたのである。古代の巨大古墳の中で、天皇陵の被葬者が正しいとされるものは数少ないのである。天武・持統合葬陵(夫婦だった天武と持統は同じ古墳に葬られたと記録にある)は、その数少ない例外だけど、それは中世に盗掘された時の記録があるのである。(1235年のことで、藤原定家の日記「明月記」に載っている。犯人は後に捕まって磔になった。)
では、数多くの天皇陵はいつ定まったのか。(定めることを「治定(ちじょう)」という。)それは幕末から明治初期のことなのである。江戸時代中期になると、国学の勃興により「勤皇思想」が高まってくる。それは反幕府的な側面もあったけど、幕府だって「天皇の任命で将軍になる」わけで、特に幕末は「公武合体」路線だったから、幕府の手によって天皇陵の治定と修復が行われた。1862年から行われ、それを「文久の修陵」と呼んでいる。
その時に決まった治定は、今では多くの疑問を持たれているものがほとんどである。でも、だからと言って、幕府がデタラメに決めたということではない。「日本書紀」や「古事記」、あるいは「延喜式」(えんぎしき=律令の細則を式といい、平安時代初期の醍醐天皇に時に作られたものを延喜式という)などの記述を比較検討し、それなりに合理的に決めていったわけである。だけど、その当時は科学的な考古学の知見がまったくない時代なんだから、今の目で見ると時代が違っていたものがいっぱいある。
神武天皇陵も「文久の修陵」によって、1863年に現在の地に決められた。150年ほどの歴史しかない、「作られた伝統」なのである。だけど、神武天皇陵に関しては、それだけでは済まない。なぜかと言えば、7世紀後半の段階で、実際に神武天皇陵が作られていたと思われるからである。何で判るかと言うと、日本書紀によれば、壬申の乱(672年)に際して、大海人皇子(乱に勝利して、天武天皇となる)が使者を送っているという記載があるのである。
(「神武天皇陵」)
大海人皇子といえば、伊勢神宮に参拝して戦勝祈願をしたことが知られている。「伊勢神宮」と「神武天皇陵」という、「天皇制の2大神話装置」はすでに天武時代に作られていたのである。では、その時の神武天皇陵はどこだったか? それは歴史の中で判らなくなった。探し出そうという試みは江戸時代中期からあって、元禄時代には決められたんだけど、それは今は2代天皇綏靖(すいぜい)天皇陵とされている場所だった。要するに、史書や地形、地名の伝説などを考えていくと、なかなか決めがたく、候補は3つあったという。そこで、先に決めたところと違う場所に幕末に決めなおしたのである。
さて、では今の神武天皇陵は、大昔に神武天皇陵があった場所と同じなんだろうか。そこまでは僕には判らない。今の場所でいいのではという考えもある。それにしても、それは「神武天皇」なる架空の人のお墓ではないはずだ。大体、今の神武天皇陵は円墳であって、なんで初代天皇に作られるべき巨大な前方後円墳じゃないのか。それはそれとして、古代の段階で「神話時代の初代天皇」伝説が作られていたということは注目すべきことだと思う。それをどう捉えるかはよく判らないんだけど。
では、そういう神武天皇陵には参拝する意味があるのだろうか。「意味」などどうでもいいのか。「こころの問題」なんだから…。と言われてしまえば、それまでだが。天皇制とか天皇陵、あるいは参拝に意味があるかなどの問題を別にして、どうせ参拝するんだったら、他の天皇陵に行った方が「効果」があるんじゃないか。だけど、「靖国神社」とか「国歌」とか「紀元節」(建国記念の日)とか、みんな「近代になって作り出されたもの」である。日本の「真の伝統」でも何でもない。だから、「近代に作られた伝統」を守って神武天皇陵に行くということなんだろう。