中公新書で小山俊樹「五・一五事件」を読んだ。出たときに買うかどうか迷って買わなかった。新聞の書評を見て買うことにしたが、1ヶ月で再版になっていた。事件について類書がないぐらいに詳しい。戦前の歴史に関心がある人には、落とせない本かなと思う。副題が「海軍青年将校たちの「昭和維新」」とある。陸軍青年将校が中心になった「二・二六事件」に対して、「五・一五事件」は海軍青年将校が中心だったが、確かに僕もそんなに詳しくは知らない。

5月15日に起きたから「五・一五事件」と呼ぶわけだが、じゃあ、それは何年のことか。そんなのは常識だと言えるほど、皆が判っているとは思えない。「満州事変」「二・二六事件」「盧溝橋事件」(日中全面戦争開始)を起きた順番に並べられる人は少ないと思う。高齢層の人はよく、学校で現代史を教えないから若い世代が戦争を知らないと言う人がいる。しかし、これらは基本中の基本であり、受験に必須である。先ほどの4つの歴史事項は書いた順に起きたわけだが、ちゃんと答えられるのは受験生ぐらいかもしれない。
帯には「昭和戦前、最大の分岐点」とある。これは「政党内閣」の日本的なあり方(憲政の常道)がここで途切れたことを指すのだろう。「憲政の常道」と当時言われたのは、普通選挙で勝利した最大政党の党首を内閣総理大臣に推挙する慣例のことである。日本国憲法の「議院内閣制」(国会が総理大臣を指名する)と違って、当時は天皇が総理大臣を任命した。もちろん誰でもなれるわけではなく、「元老」と呼ばれる長老が天皇に首相候補を推挙する慣例があった。
明治時代は薩摩や長州出身の「藩閥内閣」が続いたが、次第に政党が力を蓄えていった。1924年の加藤高明内閣から1932年(昭和7年)の「五・一五事件」までの約8年間が日本の短い「政党内閣」時代だった。1932年5月15日、海軍青年将校が首相官邸を襲撃し、政友会の犬養毅首相を暗殺した。政友会は後継総裁に鈴木喜三郎を選任したが、「最後の元老」西園寺公望は首相候補として斉藤実(さいとう・まこと)海軍大将(前朝鮮総督)を選んだのである。
(犬養毅首相)
事件当日の様子は本書で見て貰うとして、その後の第2章、第3章は襲撃側の前史、海軍における国家改造運動を扱っている。あまり細かい話を書いても仕方ないけれど、海軍は藤井斉という強力なリーダーが存在した。またロンドン軍縮条約をめぐる「統帥権干犯問題」が起こって海軍内の「国家改造運動」が盛り上がった。陸軍にも同志が多数いたわけだが、陸軍青年将校は時期を待つ判断をしていた。1931年9月に「満州事変」が起きたこと、1931年末の政変で民政党内閣が崩壊し、政友会の犬養内閣が成立して陸軍大臣に皇道派の荒木貞夫が就任したことなどが背景にある。
当時「三月事件」「十月事件」という未発のクーデター事件があり、さらに井上日召らの「血盟団」による「一人一殺」のテロも起こった。海軍の藤井は陸海民間が決起するクーデターを計画していたが、満州事変後に日本側の謀略で起きた「第一次上海事変」で戦死した。これは日本海軍初の航空戦の戦死である。その結果、「テロ」で良い、自分たちはさきがけとして決起する。「破壊」だけを担当するというような発想で、首相暗殺に至る。同時に牧野内大臣邸や政友会本部の襲撃もあり、また右翼的農民運動家橘孝三郎の率いる「愛郷塾」生による「変電所襲撃」(帝都暗黒化計画)も実行された。
そこら辺は昔は知ってたと思うけど、もうほとんど忘れていた。僕も首相暗殺だけみたいに思い込んでいたが、もう少し大規模な計画だったのである。しかし、藤井戦死後のリーダーだった後輩の三上卓は「テロ」を選んだ。犬養内閣の政策への不満ではない。「特権階級」の代表としての襲撃であり、彼らにはその後の計画がない。一応、戒厳令を敷いて一気に「国家改造」を実現するということになるが、国家改造とは「天皇親政」である。天皇の周りで悪い政治を行っている「君側の姦」を取り除くだけで、自分たちの歴史的役割は終わる。
(三上卓)
実際に「政党内閣」はここで終わった。政友会の新総裁、鈴木喜三郎は首相になれなかった。その裏にあったものは何か。今までは僕も「軍部の反発」程度に思い込んでいたが、著者によれば「昭和天皇の意向」が働いていた。それは重要な指摘だ。この間の経緯はかなり複雑なのだが、結局選ばれた斉藤実は海軍内でロンドン軍縮条約を認める立場に立っていた。政友会内閣よりも、実質的には穏健だったのかもしれない。
一年経って裁判が始まるが、そこで大規模な「減刑運動」が起こった。それは有名な話だけど、入手しやすい最近の本で、ここまで詳しい叙述はないだろう。どうして「首相暗殺の殺人犯」に同情が集まったのか。何故主犯の三上らは求刑死刑に対し、禁固15年という「軽い判決」だったのか。その裏事情も究明されている。軍人だから軍法会議で裁かれて、所詮は軍内の政治で判決が決まる。一方、民間人である橘らは普通の裁判所で裁かれ、橘には無期懲役と軍人被告とは段違いの重刑になった。当日は東京にいなかったにも関わらずである。
この陸海軍少壮軍人による国家改造運動をどう考えるべきか。軍人だって人間だから、いろいろ考えるだろうが「軍人勅諭」で禁じられる政治関与はおかしいだろう。軍を辞めて民間人でやるならともかく、軍に在籍したまま軍の武器を使用してテロを行うのは間違っている。大日本帝国憲法は軍に関してはタテマエ上は「天皇親率」だが、政治上のことは議会を置き選挙を認めているのだから「天皇親政」はできない。世界に軍のクーデターは山のようにあるけれど、大体は「議会と憲法を停止して、クーデター勢力が全権を握る」のが通例だろう。だが天皇絶対を掲げる以上、明治天皇が定めた「欽定憲法」を否定できない。
そういう風に構造的に失敗が運命づけられていたわけだが、それ以上に昭和天皇の「大御心」はテロ勢力に同情的ではなかった。そのことは「二・二六事件」に至れば完全に判明する。政治のリアリズムがない。現在では実感出来ない問題になってしまったから、歴史好きでもなければ陸軍の「統制派」「皇道派」なんて言っても判らないだろう。それよりも、東北には身売りせざるを得ない貧困があると決起しながら、多額の資金を得て決起前日に料亭で酒と芸者で遊ぶ神経が僕には判らない。やっぱり「上から目線」で偽善だったかと思ってしまう。

5月15日に起きたから「五・一五事件」と呼ぶわけだが、じゃあ、それは何年のことか。そんなのは常識だと言えるほど、皆が判っているとは思えない。「満州事変」「二・二六事件」「盧溝橋事件」(日中全面戦争開始)を起きた順番に並べられる人は少ないと思う。高齢層の人はよく、学校で現代史を教えないから若い世代が戦争を知らないと言う人がいる。しかし、これらは基本中の基本であり、受験に必須である。先ほどの4つの歴史事項は書いた順に起きたわけだが、ちゃんと答えられるのは受験生ぐらいかもしれない。
帯には「昭和戦前、最大の分岐点」とある。これは「政党内閣」の日本的なあり方(憲政の常道)がここで途切れたことを指すのだろう。「憲政の常道」と当時言われたのは、普通選挙で勝利した最大政党の党首を内閣総理大臣に推挙する慣例のことである。日本国憲法の「議院内閣制」(国会が総理大臣を指名する)と違って、当時は天皇が総理大臣を任命した。もちろん誰でもなれるわけではなく、「元老」と呼ばれる長老が天皇に首相候補を推挙する慣例があった。
明治時代は薩摩や長州出身の「藩閥内閣」が続いたが、次第に政党が力を蓄えていった。1924年の加藤高明内閣から1932年(昭和7年)の「五・一五事件」までの約8年間が日本の短い「政党内閣」時代だった。1932年5月15日、海軍青年将校が首相官邸を襲撃し、政友会の犬養毅首相を暗殺した。政友会は後継総裁に鈴木喜三郎を選任したが、「最後の元老」西園寺公望は首相候補として斉藤実(さいとう・まこと)海軍大将(前朝鮮総督)を選んだのである。

事件当日の様子は本書で見て貰うとして、その後の第2章、第3章は襲撃側の前史、海軍における国家改造運動を扱っている。あまり細かい話を書いても仕方ないけれど、海軍は藤井斉という強力なリーダーが存在した。またロンドン軍縮条約をめぐる「統帥権干犯問題」が起こって海軍内の「国家改造運動」が盛り上がった。陸軍にも同志が多数いたわけだが、陸軍青年将校は時期を待つ判断をしていた。1931年9月に「満州事変」が起きたこと、1931年末の政変で民政党内閣が崩壊し、政友会の犬養内閣が成立して陸軍大臣に皇道派の荒木貞夫が就任したことなどが背景にある。
当時「三月事件」「十月事件」という未発のクーデター事件があり、さらに井上日召らの「血盟団」による「一人一殺」のテロも起こった。海軍の藤井は陸海民間が決起するクーデターを計画していたが、満州事変後に日本側の謀略で起きた「第一次上海事変」で戦死した。これは日本海軍初の航空戦の戦死である。その結果、「テロ」で良い、自分たちはさきがけとして決起する。「破壊」だけを担当するというような発想で、首相暗殺に至る。同時に牧野内大臣邸や政友会本部の襲撃もあり、また右翼的農民運動家橘孝三郎の率いる「愛郷塾」生による「変電所襲撃」(帝都暗黒化計画)も実行された。
そこら辺は昔は知ってたと思うけど、もうほとんど忘れていた。僕も首相暗殺だけみたいに思い込んでいたが、もう少し大規模な計画だったのである。しかし、藤井戦死後のリーダーだった後輩の三上卓は「テロ」を選んだ。犬養内閣の政策への不満ではない。「特権階級」の代表としての襲撃であり、彼らにはその後の計画がない。一応、戒厳令を敷いて一気に「国家改造」を実現するということになるが、国家改造とは「天皇親政」である。天皇の周りで悪い政治を行っている「君側の姦」を取り除くだけで、自分たちの歴史的役割は終わる。

実際に「政党内閣」はここで終わった。政友会の新総裁、鈴木喜三郎は首相になれなかった。その裏にあったものは何か。今までは僕も「軍部の反発」程度に思い込んでいたが、著者によれば「昭和天皇の意向」が働いていた。それは重要な指摘だ。この間の経緯はかなり複雑なのだが、結局選ばれた斉藤実は海軍内でロンドン軍縮条約を認める立場に立っていた。政友会内閣よりも、実質的には穏健だったのかもしれない。
一年経って裁判が始まるが、そこで大規模な「減刑運動」が起こった。それは有名な話だけど、入手しやすい最近の本で、ここまで詳しい叙述はないだろう。どうして「首相暗殺の殺人犯」に同情が集まったのか。何故主犯の三上らは求刑死刑に対し、禁固15年という「軽い判決」だったのか。その裏事情も究明されている。軍人だから軍法会議で裁かれて、所詮は軍内の政治で判決が決まる。一方、民間人である橘らは普通の裁判所で裁かれ、橘には無期懲役と軍人被告とは段違いの重刑になった。当日は東京にいなかったにも関わらずである。
この陸海軍少壮軍人による国家改造運動をどう考えるべきか。軍人だって人間だから、いろいろ考えるだろうが「軍人勅諭」で禁じられる政治関与はおかしいだろう。軍を辞めて民間人でやるならともかく、軍に在籍したまま軍の武器を使用してテロを行うのは間違っている。大日本帝国憲法は軍に関してはタテマエ上は「天皇親率」だが、政治上のことは議会を置き選挙を認めているのだから「天皇親政」はできない。世界に軍のクーデターは山のようにあるけれど、大体は「議会と憲法を停止して、クーデター勢力が全権を握る」のが通例だろう。だが天皇絶対を掲げる以上、明治天皇が定めた「欽定憲法」を否定できない。
そういう風に構造的に失敗が運命づけられていたわけだが、それ以上に昭和天皇の「大御心」はテロ勢力に同情的ではなかった。そのことは「二・二六事件」に至れば完全に判明する。政治のリアリズムがない。現在では実感出来ない問題になってしまったから、歴史好きでもなければ陸軍の「統制派」「皇道派」なんて言っても判らないだろう。それよりも、東北には身売りせざるを得ない貧困があると決起しながら、多額の資金を得て決起前日に料亭で酒と芸者で遊ぶ神経が僕には判らない。やっぱり「上から目線」で偽善だったかと思ってしまう。