加藤青延(はるのぶ)「目撃 天安門事件 歴史的民主化運動の真相」(POPエディターズ・グループ、1300円)は、非常に重要な本である。考えさせられるとともに、こう言っては何だけど、まるでミステリーのように面白い本。著者の加藤氏はNHK専門解説委員で、香港支局長、北京支局長、中国総局長、解説主幹などを歴任した。1989年の事件当時は香港特派員だったが、ちょうど胡耀邦が死去した日に北京に派遣され、そのまま事件の目撃者となった。当時の取材をもとに、その後の内部資料などを駆使して、事件の真相をまとめたのがこの本である。

事件当時、中国共産党総書記だった趙紫陽は、対応が批判されて失脚し長く軟禁された。事件後は一度も公的な場に姿を現すことなく2005年に85歳で亡くなった。しかし存命中に秘かに回想録を書いていて、中国の民主化を求める構想をまとめていたのである。それが細心の注意を払って香港に持ち出され出版された。『趙紫陽 極秘回想録』は日本語訳も出ていて、僕も読んでいる。また当時の首相で保守派の中心だった李鵬の日記や党内文書など、様々な資料も利用している。両者を合わせて検討することで見えてくるものがある。
その当時、「共産党の最高責任者」は、名目上の最高位者(趙紫陽総書記)や国家元首にあたる楊尚昆国家主席ではなく、共産党中央軍事委員会主席の肩書きのみを持つ鄧小平だった。この本を読むと、総書記といえども「捨て駒」にしか過ぎなかったことがよく判る。2年前に前任の胡耀邦が学生運動に寛容だとして解任された後、首相だった趙紫陽が昇格した。しかし、鄧小平は党長老や保守派と改革派のバランスを取りながら、趙紫陽を翻弄する。鄧小平の支持を信じながら、裏切られてゆく趙紫陽が印象的だ。
(天安門広場の「民主の女神」)
この本では「党内抗争」の分析が多い。中国の場合やはり共産党内部の抗争が大きいのである。胡耀邦は失脚後もヒラの中央委員として残されたが、これ以上胡耀邦の地位を危なくしないため、学生側も自重してきた。4月15日に胡耀邦が死去し、党内の会議で腐敗を鋭く追及していた時に倒れたと伝えられた。(それは誤伝だったが。)そのことで学生側のタガが外れることになった。学生運動が激しくなる中、趙紫陽は予定されていた北朝鮮訪問に出かけた。その間に学生運動を「動乱」と決めつけた党機関誌「人民日報」社説が発表された。
中国だけでなく、独裁国家では指導者の国外訪問中に「謀略」が企まれることが多い。この時も趙紫陽には事前に相談はなく、後から追認するしかなかった。その後情勢のまき直しが可能だと信じ、アジア開発銀行総会の演説で反撃する。その後の経緯を細かく追うのは省略するが、趙紫陽はやがて鄧小平により切り捨てられたことに気付くしかなかった。それでも当時30年ぶりとなるソ連最高首脳の中国訪問が控えていた。中ソの共産党は、一時は蜜月だったが60年代以後は鋭く対立してきた。ゴルバチョフの登場で関係が改善されたが、ペレストロイカを進めるゴルバチョフ訪問を前に学生運動を武力で弾圧することは出来なかった。
ゴルバチョフとの会談で、趙紫陽は「重大問題では鄧小平に指導を仰ぐという中央委員会決議がある」と発言した。これは内容的には世界中の人が知っていたことだが、秘密決議だったことで「国家機密を暴露した」と後に失脚の理由とされた。中ソ共産党の最高首脳会談であるはずが、実は中国の最高指導者は自分ではないと言ったのは何故なのか。すでに失脚を覚悟した趙紫陽の「自爆」だったと著者は見ている。僕も昔からそう思っている。失脚間近の趙紫陽は天安門広場の学生を深夜に訪問した。趙紫陽の最後の公的な場となった訪問を、天安門広場に残って取材していた著者は目撃することになった。世界的スクープだという。
(「戦車男」)
中国共産党の「宣伝工作」はなかなか手が込んでいる。戦車に立ちふさがった「戦車男」は「自作自演」の可能性が高いという推測は納得できる。ゴルバチョフ訪中後も外国メディアは残って学生運動を取材していた。しかし戒厳令発令と共に、天安門東方の「北京飯店」を拠点に取材するしか出来なくなってきた。そんな中で、武力行使を前にして天安門に向かう戦車に対し、市民・学生が抵抗しても兵士は一切手向かいしない映像が外国メディアに流れた。実は外国メディアに見えるところで無抵抗を続ける間に、裏の方から広場に兵士を集結させていたという。
「戦車男」は今では何だか天安門広場制圧に向かう戦車を停めたように思い込んでしまっているが、実は制圧後の6日の出来事だという。しかも天安門広場へ向かう戦車ではなく、撤退する戦車だった。それが外国メディアが陣取る目の前で停められた。戦車は横へずれて進めばいいだけなのに、しばらく停まっている。撤退する戦車を停めても意味がないし、わざわざ取材しやすい地点で起きた。これは謀略の宣伝だというのは、納得できる結論だと思う。香港で出版された本の存在がないと、この本は書けない。今後このような分析が不可能になる恐れを感じた。30年経って当時のことを知らない若い世代も多いだろう。中国現代史を知るための必読書。

事件当時、中国共産党総書記だった趙紫陽は、対応が批判されて失脚し長く軟禁された。事件後は一度も公的な場に姿を現すことなく2005年に85歳で亡くなった。しかし存命中に秘かに回想録を書いていて、中国の民主化を求める構想をまとめていたのである。それが細心の注意を払って香港に持ち出され出版された。『趙紫陽 極秘回想録』は日本語訳も出ていて、僕も読んでいる。また当時の首相で保守派の中心だった李鵬の日記や党内文書など、様々な資料も利用している。両者を合わせて検討することで見えてくるものがある。
その当時、「共産党の最高責任者」は、名目上の最高位者(趙紫陽総書記)や国家元首にあたる楊尚昆国家主席ではなく、共産党中央軍事委員会主席の肩書きのみを持つ鄧小平だった。この本を読むと、総書記といえども「捨て駒」にしか過ぎなかったことがよく判る。2年前に前任の胡耀邦が学生運動に寛容だとして解任された後、首相だった趙紫陽が昇格した。しかし、鄧小平は党長老や保守派と改革派のバランスを取りながら、趙紫陽を翻弄する。鄧小平の支持を信じながら、裏切られてゆく趙紫陽が印象的だ。

この本では「党内抗争」の分析が多い。中国の場合やはり共産党内部の抗争が大きいのである。胡耀邦は失脚後もヒラの中央委員として残されたが、これ以上胡耀邦の地位を危なくしないため、学生側も自重してきた。4月15日に胡耀邦が死去し、党内の会議で腐敗を鋭く追及していた時に倒れたと伝えられた。(それは誤伝だったが。)そのことで学生側のタガが外れることになった。学生運動が激しくなる中、趙紫陽は予定されていた北朝鮮訪問に出かけた。その間に学生運動を「動乱」と決めつけた党機関誌「人民日報」社説が発表された。
中国だけでなく、独裁国家では指導者の国外訪問中に「謀略」が企まれることが多い。この時も趙紫陽には事前に相談はなく、後から追認するしかなかった。その後情勢のまき直しが可能だと信じ、アジア開発銀行総会の演説で反撃する。その後の経緯を細かく追うのは省略するが、趙紫陽はやがて鄧小平により切り捨てられたことに気付くしかなかった。それでも当時30年ぶりとなるソ連最高首脳の中国訪問が控えていた。中ソの共産党は、一時は蜜月だったが60年代以後は鋭く対立してきた。ゴルバチョフの登場で関係が改善されたが、ペレストロイカを進めるゴルバチョフ訪問を前に学生運動を武力で弾圧することは出来なかった。
ゴルバチョフとの会談で、趙紫陽は「重大問題では鄧小平に指導を仰ぐという中央委員会決議がある」と発言した。これは内容的には世界中の人が知っていたことだが、秘密決議だったことで「国家機密を暴露した」と後に失脚の理由とされた。中ソ共産党の最高首脳会談であるはずが、実は中国の最高指導者は自分ではないと言ったのは何故なのか。すでに失脚を覚悟した趙紫陽の「自爆」だったと著者は見ている。僕も昔からそう思っている。失脚間近の趙紫陽は天安門広場の学生を深夜に訪問した。趙紫陽の最後の公的な場となった訪問を、天安門広場に残って取材していた著者は目撃することになった。世界的スクープだという。

中国共産党の「宣伝工作」はなかなか手が込んでいる。戦車に立ちふさがった「戦車男」は「自作自演」の可能性が高いという推測は納得できる。ゴルバチョフ訪中後も外国メディアは残って学生運動を取材していた。しかし戒厳令発令と共に、天安門東方の「北京飯店」を拠点に取材するしか出来なくなってきた。そんな中で、武力行使を前にして天安門に向かう戦車に対し、市民・学生が抵抗しても兵士は一切手向かいしない映像が外国メディアに流れた。実は外国メディアに見えるところで無抵抗を続ける間に、裏の方から広場に兵士を集結させていたという。
「戦車男」は今では何だか天安門広場制圧に向かう戦車を停めたように思い込んでしまっているが、実は制圧後の6日の出来事だという。しかも天安門広場へ向かう戦車ではなく、撤退する戦車だった。それが外国メディアが陣取る目の前で停められた。戦車は横へずれて進めばいいだけなのに、しばらく停まっている。撤退する戦車を停めても意味がないし、わざわざ取材しやすい地点で起きた。これは謀略の宣伝だというのは、納得できる結論だと思う。香港で出版された本の存在がないと、この本は書けない。今後このような分析が不可能になる恐れを感じた。30年経って当時のことを知らない若い世代も多いだろう。中国現代史を知るための必読書。