尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『モンタレー・ポップ』、伝説のフェスティバルを永遠に残す

2024年04月09日 22時39分19秒 |  〃  (旧作外国映画)
 一部映画館で『モンタレー・ポップ』4K版を上映している。題名を見れば判る人もいると思うけど、これは1967年6月16日から18日に行われた「あの伝説のミュージック・フェスティバル」の記録映画である。1968年末にアメリカで公開されたものの、何故か日本では今まで正式に公開されていなかった。このフィルムには、まさに伝説となった何人ものミュージシャン、幾つもの演奏シーンが続々と出て来て、今もなお興奮して見られる映画だ。しかし、それに止まらないまらない社会的意味も持っている。

 スコット・マッケンジー花のサンフランシスコ』という曲がある。“If you're going to San Francisco Be sure to wear some flowers in your hair If you're going to San Francisco You're gonna meet some gentle people there” と始まる。(もし君がサンフランシスコへ行くなら 花で髪を飾って行って もし君がサンフランシスコへ行くなら そこで優しい人たちと出会うだろう)この歌はこのフェスティバルを企画したママス&パパスジョン・フィリップスが、このフェスティバルのプロモーションのために作った曲なのである。冒頭でこの歌声が流れる時、あっという間に時空を越えてしまう。

 モンタレー・ポップ・フェスティバルは、69年のウッドストック音楽祭など大規模音楽フェスティバルの最初のものだった。さらにそれに止まらずアメリカの60年代末のカウンター・カルチャーの象徴にもなった。67年の「サマー・オブ・ラブ」と呼ばれたヒッピー・ムーブメントの絶頂でもあった。ベトナム反戦運動、公民権運動に揺れた60年代アメリカで、「gentle people」が集結したのである。そして、このフィルムはその運動の限界をも記録してしまった。

 何より貴重なのは、このフェスティバルがジャニス・ジョプリンジミ・ヘンドリックスの名前を広めたことである。奇しくも二人は3年後に、同じ27歳で亡くなることになる。ジャニスなど、そのシャウトが非常に評判になって2回出たぐらいである。しかし、こう言っちゃ何だけど、アップにすると早くも肌の荒れが気になるのである。ジミ・ヘンドリックスはイギリスで活躍していたが、このフェスで母国アメリカでも知られるようになった。有名なエレキギターを燃やしてしまうシーンが出て来る。
(ジャニス・ジョプリン)(ジミ・ヘンドリックス)
 ギターを壊すと言えば、その前にザ・フーもぶっ壊している。そんなシーンはそれまで誰も見たことがなかったと思う。冒頭にママス&パパス夢のカリフォルニア』が流れ、サイモン&ガーファンクル59番街橋の歌 (フィーリン・グルーヴィー)』が出て来る。いや、懐かしいな。全部書いても仕方ないが、ジェファーソン・エアプレインエリック・バードン&ジ・アニマルズカントリー・ジョー&ザ・フィッシュとか、ロック界の有名どころが次々と出て来る。

 そんな中で特に貴重なのは、オーティス・レディングだ。黒人のソウル歌手であるオーティス・レディングは、異色メンバーである。だけど、映画を見れば一目瞭然、完全に聴衆を虜にしてしまった。僕もこの人はあまり知らなかった。何しろこの年(1967年)の12月10日に自家用飛行機の事故で亡くなってしまったのである。その意味でも、すごく貴重なフィルムなのである。そして歌った『シェイク』、『愛しすぎて』などは全く素晴らしいというしかない。感動的だった。
(オーティス・レディング)
 ところで、この映画に登場するミュージシャンは白人が圧倒的に多い。黒人はジミ・ヘンドリックスとオーティス・レディングだけである。観衆の方も圧倒的に白人ばかりである。観衆を映すシーンもいっぱいあるけど、黒人客は10人ぐらいしか写らない。またカップルで来ている客もいっぱいで、それこそ「サマー・オブ・ラブ」なんだけど、それも異性カップルばかりだ。つまり、ヒッピー・ムーブメントの象徴とも言える祭典だったけど、まだ「ヘテロセクシャルの白人」のものだったのである。後に性的指向に寛容な町として知られるサンフランシスコでも、この時点では同性カップルが公然と行動出来なかったのだろう。
(ラヴィ・シャンカール)
 アジア系観衆はほぼ出てないけど、映画の最後はラヴィ・シャンカールシタール演奏である。当時ビートルズへの影響などでインド音楽が注目されていた。中でもラヴィ・シャンカールは世界的に有名になったが、この映画でも圧倒的である。かなり長く出て来て、終了後に観衆はスタンディング・オベーションで応えている。ロックコンサートというのに、この段階では座って聞いている人ばかり。今なら考えられないと思うが、ラヴィ・シャンカールに対しては皆起ち上がったんだから、いかに素晴らしいかが伝わってくる。とにかく歴史的なフィルム。D・A・ペネベイカー監督は、この後ボブ・ディランの『ドント・ルック・バック』、デヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』などを製作していて、アカデミー名誉賞を受賞している。
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五百旗頭真、鈴木健二、加藤幸子、ポリーニ他ー2024年3月の訃報②

2024年04月08日 22時19分39秒 | 追悼
 2024年3月の訃報特集。1回目に書ききれなかった日本の学者、著述家等と外国人の訃報をまとめて。政治学者の五百旗頭真(いおきべ・まこと)が6日死去、80歳。兵庫生まれで、京大で猪木正道に師事、広島大助教授からハーバード大研究員を経て神戸大学教授となった。このように東大系じゃなく、猪木、高坂正堯の系譜の現実主義的政治学者として名をなした。日米関係史、占領政策などを研究し、1985年『米国の日本占領政策』でサントリー学芸賞、『占領期 首相たちの新日本』(1997)で吉野作造賞などを受賞。2006年から12年まで防衛大学校長を務めた。多くの内閣で有識者会議委員を務めている。95年阪神淡路大震災で被災したのをきっかけに「災害復興」研究に携わった。その経験から2011年に「東日本大震災復興構想会議議長」を託され、「創造的復興」を掲げて復興への道筋を示した。最後まで「ひょうご震災記念21世紀研究機構」の理事長を務めていた。
(五百旗頭真)
 元NHKアナウンサーの鈴木健二が29日死去、95歳。テレビ司会者として、またエッセイストとして大活躍していた80年代には、日本人全員が知っていた人である。ニュースや紅白歌合戦司会なども担当したが、それより『歴史への招待』(1978~84)、『クイズ面白ゼミナール』(1981~88)などの教養・バラエティ番組で有名になった。特に後者では「教授」と呼ばれて人気を得た。また180冊以上の著作があり、1982年の『気くばりのすすめ』は400万部を超えるベストセラーになった。NHK退職後は、テレビにはほぼ出ずに、熊本県立劇場館長(1988~98)、青森県立図書館館長(1998~2004)を務めた。映画監督鈴木清順の弟
 (鈴木健二)
 作家の加藤幸子(かとう・ゆきこ)が30日死去、87歳。5歳から11歳まで北京で過ごし、敗戦後に引き揚げてきた。その後、同居していた叔父(戯曲『なよたけ』などで知られる加藤道夫)が自殺して大きな衝撃を受けた。北大農学部卒業後、農林省、日本自然保護協会などに勤めた理系、自然保護活動家の加藤幸子が作家になったのは、若い時の体験のため。1983年、『夢の壁』で芥川賞、『尾崎翠の感覚世界』(芸術選奨文部大臣賞)、『長江』(毎日芸術賞)などの他、『北京海棠の街』『苺畑よ永遠に』『翼をもった女』などの作品がある。その清冽な世界が好きだった。東京港野鳥公園設立に尽くした人でもある。
(加藤幸子)
 SF作家、ゲームデザイナーの山本弘が29日死去、68歳。SFとしては『去年はいい年になるだろう』(2011、第42回星雲賞日本長編部門)、『多々良島ふたたび』(2016、第47回星雲賞日本短編部門)や『アイの物語』などがある。それ以上に有名なのは、オカルト、UFO、ノストラダムスなどの疑似科学本を「トンデモ本」と名付けて、その世界を楽しんでしまおうという「と学会」を結成して初代会長になったことである。この「トンデモ」という言葉はすっかり定着してしまった。本人はいたって真面目に疑似科学を正面から批判していて、それは『ニセ科学を10倍楽しむ本』(ちくま文庫)でよく理解出来る。是非一読を。
(山本弘)
 ラリードライバーの篠塚建次郎が18日死去、75歳。三菱自動車のドライバーとして、ダカール・ラリーに参戦。12回目の1997年に日本人として初の総合優勝を果たした。2002年に三菱を退社したが、生涯現役を目指して日産と契約するなどした。21世紀になってからはソーラーカーのレースに参戦して活躍した。妻は三浦友和の姉。
(篠塚健次郎)
 大相撲の元関脇、明武谷(みょうぶだに)が10日死去、86歳。驚くことに「明武谷」は本名である。189㎝と当時としては破格の高身長で、「人間起重機」と呼ばれた。1957年7月場所で新入幕、1969年11月場所で引退するまで、豪快な吊り出しを得意技として、殊勲賞、敢闘賞を各4回受賞するなど活躍した。僕はこの人の活躍を幼い頃に覚えているのだが、驚いたのは引退後である。中村親方を襲名して指導に当たっていたが、「エホバの証人」に入信して1977年に廃業したのである。よりによって格闘技を認めない宗派に入信するなんて。その後はビル清掃などをしながら布教したという。
(明武谷)
 経済界ではメニコン創業者の田中恭一が10日死去、92歳。現代音楽の作曲家、篠原眞が3日死去、92歳。イタリア文学者の大久保昭男が12日死去、96歳。イタリアの作家アルベルト・モラヴィアの翻訳は大久保訳でほとんど読んでいる。政治家では鳥取県知事(74~83)、衆議院議員(83~90、93~2003)、郵政大臣を務めた平林鴻三が28日死去、93歳。また冒険家の阿部雅龍が27日死去、41歳。2018年~19年にかけ、単独徒歩で南極点に到達した人である。

 イタリアのピアニスト、マウリツィオ・ポリーニが23日死去、82歳。1960年、18歳でショパン国際ピアノコンクール優勝、ルービンシュタインが絶賛して知られた。その後8年間の空白を経て、1968年から国際的活動を再開し、現代最高のピアニストと呼ばれた。古典から現代音楽まで何でもこなしたが、特にショパン、ベートーヴェン、シューベルト、シューマンなどを得意とした。何度も来日したが、聞きにいったことはない。だがクラシック界の貴公子だったポリーニが亡くなったというのはショックだ。自分も年を取ったということだから。
(マウリツィオ・ポリーニ)(ショパン「練習曲集」)
 スウェーデンの世界的陶芸家、デザイナーのリサ・ラーソンが11日死去、92歳。動物をモチーフにした温かみのある作風で知られる。猫のキャラクター「マイキー」などが日本でも人気を集めた。
 (リサ・ラーソン)
 日本では報道されていないが、フィリピンの女優ジャクリン・ホセが3日死去、60歳。80年代から女優として活動し、近年はブリランテ・メンドーサ監督作品で国際的に知られた。『ローサは密告された』(2016)でカンヌ映画祭女優賞を受賞している。最近公開された『FEAST -狂宴-』でも重要な役を演じていたので訃報に驚いた。重厚な存在感で知られた女優だった。またアメリカの俳優ルイス・ゴセット・ジュニアが29日死去、87歳。『愛と青春の旅だち』(1982)でアフリカ系初のアカデミー賞助演男優賞を得た。テレビドラマ『ルーツ』では、主人公クンタ・キンテの友人のバイオリン弾きを演じていた。
(ジャクリン・ホセ)(ルイス・ゴセット・ジュニア)
 アメリカの心理学者、行動経済学者のダニエル・カーネマンが27日死去、90歳。心理学的見地から消費者行動を分析する独自の研究で、2002年のノーベル経済学賞を受賞した。従来の経済学では人間は経済合理的に行動するとしていたが、現実の人間の意思決定ではそういう前提とは異なる習性があることを示した。
(ダニエル・カーネマン)
 元米上院議員のジョー・リーバーマンが27日死去、82歳。2000年の米大統領選で、民主党候補アル・ゴアの副大統領候補となった。これはユダヤ系として初のことだった。1989年から2013年まで上院議員を務めたが、民主党内では最右派に属し最後の任期では無所属となった。地元の予備選で左派候補に敗れて、本選を無所属として戦って当選したのである。イラク戦争支持、同性婚反対などを主張し、2008年大統領選ではオバマではなく「個人的友情」で共和党のマケインを支持した。
(ジョセフ・リーバーマン)
 2000年にノーベル物理学賞を受けたハーバート・クレーマーが8日死去、95歳。受賞理由は「高速エレクトロニクスおよび光エレクトロニクスに利用される半導体ヘテロ構造の開発」。イギリスの脚本家、デヴィッド・サイドラーが16日死去、86歳。『英国王のスピーチ』で米アカデミー賞を受賞した人。イタリアの彫刻家ジュリアーノ・ヴァンジが26日死去、93歳。2002年に静岡県にヴァンジ彫刻庭園美術館が開館したが、23年に閉館した。アメリカの彫刻家リチャード・セラが26日死去、85歳。鋼板による巨大彫刻で知られる。ヴァンジ、セラ二人とも高松宮世界文化賞を受賞している。
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鳥山明、寺田農、天児牛大、坂本長利他ー2024年3月の訃報①

2024年04月07日 21時38分35秒 | 追悼
 2024年3月の訃報特集。まず1日に漫画家の鳥山明が亡くなり、一週間後の8日に集英社から公表された。68歳。若い時の写真しかなくて、近年の肖像写真を公表していなかったのは驚いた。以下の画像は「徹子の部屋」に出演した時のもの(1983年5月4日)。(著名人が亡くなると、テレビ朝日のニュースで大体「徹子の部屋」の映像が流れる。)『Dr.スランプ』の累計発行部数は3000万部、『ドラゴンボール』は2億6000万部を記録。キャラクターデザインを務めた『ドラゴンクエストシリーズ』は、8,800万本の出荷本数というからものすごい。しかし、本人は生まれ育った愛知県に住み続けた。
(鳥山明)
 僕は鳥山明のマンガに関して書けることがない。小さい頃はテレビでアニメをよく見てたけど、大きくなってからは(時間が合わず)見なくなった。鳥山明のマンガがテレビ化され大ブームになったのは、80年代から90年代にかけてで、自分には子どももいないから見る機会がなかった。それでも名前を知っているぐらい有名人だったけど、作家論や作品論は書けない。諸外国でも大きく報道されたが、鳥山明がこんなに世界的に知られていたとは知らなかった。2013年にはフランスのアングレーム国際漫画祭40周年記念特別賞を受けている。内外で「伝説の漫画家」「史上最も影響力のある漫画家」と呼ばれる人だった。

 アニメ関係では、1990年1月からアニメ『ちびまる子ちゃん』の主人公まる子の声優を務めていたTARAKOが死去、63歳。本名は非公表。原作者さくらももこの声に似ていたため、オーディションで抜てきされたという。それ以前に『うる星やつら』『めぞん一刻』などでも声優を務めていたが、本人はシンガーソングライターを目指していてCDも出している。小さな役だが『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』などでも声優を務めたほか、CMやテレビ番組のナレーションも数多く務めていた。
(TARAKO)
 俳優の寺田農(てらだ・みのり)が14日死去、81歳。文学座付属演劇研究所に入所、三島由紀夫作『十日の菊』で舞台デビュー。その後テレビや映画に数多く出演した。1968年の岡本喜八監督『肉弾』で、監督自身の戦争体験を演じて鮮烈な印象を与え毎日映画コンクール主演男優賞。岡本喜八、実相寺昭雄、相米慎二らの監督作品で重用され、相米慎二『ラブレター』では主演を務めた。声優では『天空の城ラピュタ』のムスカ大佐で知られた。また、一人芝居『土佐源氏』で有名な坂本長利が20日死去、94歳。「ぶどうの会」「変身」を経て、1967年から『土佐源氏』を演じた。これは宮本常一忘れられた日本人』の挿話を一人芝居にしたもので、異様な迫力がある傑作だった。他に日活ロマンポルノなどの映画、テレビ『Dr.コトー診療所』の村長役などにも出ていた。また伝統芸能では能楽の観世流シテ方で人間国宝の坂井音重(さかい・おとしげ)が27日死去、84歳。
(寺田農)(坂本長利)
 舞踏家で『山海塾』主宰の天児牛大(あまがつ・うしお)が25日死去、74歳。1980年代以降、ヨーロッパで「BUTOH」の大ブームを起こした。70年代初頭に土方巽や大野一雄に出会い、舞踏を目指した。72年に麿赤兒の「大駱駝館」の設立に関わり、75年に「山海塾」を旗揚げ。外国での評価が高く、92年フランス政府から芸術文化勲章(シュヴァリエ章)を受けた。世評が高くなって一度見てみようと、世田谷パブリックシアターに見に行ったが、全く理解不能なので驚いた。また舞踏家の中嶋夏が3日死去、80歳。バレエ、モダンダンスを経て、土方巽、大野一雄に師事した後「霧笛舎」を創設して国際的に活躍した。メキシコで死去。
(天児牛大)(中嶋夏)
 美術関係では彫刻家の舟越桂が29日死去、72歳。彫刻家舟越保武の次男で、東京造形大、東京芸大大学院で彫刻を学んだ。クスノキの半身像に着彩し目に大理石を入れ、詩的で端正な人物像で知られた。独特の憂愁や精神性はキリスト教信仰から来ると言われる。海外でも高く評価された他、本の装幀に多く使われた。天童荒太『永遠の仔』は特に印象的だった。中原悌二郎賞、毎日芸術賞、芸術選奨文部科学大臣賞など受賞多数。また画家、美術評論家の谷川晃一が10日死去、86歳。60年代は前衛美術運動に参加していたが、88年に伊豆高原に拠点を移して素朴な画風に転じた。評論、エッセイの他、絵本など著書多数。妻は故・宮迫千鶴。
(舟越桂)(谷川晃一)
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オフィス300『さるすべり』、渡辺えり・高畑淳子の「二人芝居」

2024年04月06日 22時17分28秒 | 演劇
 渡辺えりがやっている「オフィス3OO」(さんじゅうまる)の『さるすべり』という芝居を紀伊國屋ホールで見てきた。今日が初日で、15日まで。高畑淳子を迎えて、渡辺えりと姉妹役をやっている。チラシでは「新劇とアンダーグラウンド、歩んできた道の違う同い年の二人が奇跡のコラボ!」とうたっている。セリフがある役はこの二人だけで、一人芝居ならぬ「二人芝居」になっている。舞台は5時に始まって、6時半に終わってしまった。内容的には深刻なドラマも含むけれど、姉妹二人の葛藤というよりは、虚実入り交じるスケッチ風の芝居になっている。

 演劇というのは、普通入場したときには舞台の幕が閉まっている。開場のベルが鳴って幕が上がると、そこはドラマの世界になっている。それに対して今度の芝居では最初から最後まで一度も幕が下りない。最初から舞台が見えていて、大道具を直したりしている。初日だからバタバタしているのかと思うが、それなら幕を下ろしてやるはず。そして主演の二人も大道具や小道具を動かしている。そして、いつの間にかセリフも始まるのだが、姉役の高畑淳子は「ゴミの分別」をしていて、突然『八月の鯨』をやると言うから出たのに、何でゴミ処理なんかしなくちゃいけないのとか言い出す。そうすると、妹役兼作者の渡辺えりがアングラだから何でもアリなんだとか言い出す。そういう趣向が面白いのである。
(チラシ裏)
 『八月の鯨』は岩波ホールで姉妹で見たという。その時のベティ・デイヴィスとリリアン・ギッシュほどではないけれど、高畑淳子、渡辺えりも高齢になってきて、この劇ではもう認知症っぽい役作りになっている。しかし、そういうセリフがしっかり入っているんだから、現実の二人はまだまだ元気なんだろう。そういう設定で、テレビデオ(!)が壊れてニュースも見てないから、自分たちが何で「自粛」しているんだかも忘れている。妹は夫を置いて実家に戻ったまま、4年目らしい。姉は独身で昔の家に住んでいるけど、実は二人には「もう一人の家族」があったのである。その悲しい秘密も、ちょっと忘れてしまうぐらい老いてきたのである。
(渡辺えりと高畑淳子)
 舞台にはバンドネオンとコントラバスの「楽士」がいて、音を奏でている。またセリフが無いダンサーがいて、いろいろな過去の象徴のようである。戦争や学生運動、姉は闘争を経て築地場外市場で成功したりした。そして昔家にあった「さるすべり」の思い出が蘇ってくる。もっと若ければドラマティックになるところ、何だか忘れてしまう心境になってる。二人の女優の掛け合いが楽しいメタ演劇だが、やはりコロナ禍の「老い」を描いた作品である。テレビや商業演劇でもよく見る二人だが、この二人が舞台に立つだけで芝居が成立するのである。夜7時開始の公演はまだ余裕があるということで、紹介する次第。
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『カレー移民の謎』、カレーから見た日本のネパール人社会

2024年04月05日 22時30分41秒 |  〃  (国際問題)
 インド映画の本を読んだので、次に室橋裕和カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」』(集英社新書)を買ってみた。昔から町の喫茶店のメニューに、ナポリタンやエビピラフなんかと並んで「カレーライス」というメニューがあった。小さい頃はよく知らずに「カレーはインド」と思っていたけど、日本のカレーライスはイギリス経由で伝わった独自の洋食というべきものだった。(昔タイに行ったときに、ホテルのレストランにただのカレーと別に「ジャパニーズ・スタイル・カレーライス」というメニューがあった。)その頃はちゃんとした「インドカレー」を食べられるお店は東京でも幾つかしかなかった。

 それが21世紀になると、あちこちでインドカレーの店が出来てきた。それは僕も知ってるし、食べたこともある。そういう店はネパール人がやっていることが多いという話も聞いたような気がする。ものすごく大きなナンが付いているのが特徴で、バターチキンカレーを出すのも特徴。夜だけじゃなく、お昼のランチメニューが充実していて、時にはワンコイン(500円)で食べられたりした。(今は物価が上がって無理だろうけど。)そういう店を「インネパ」というらしい。まあ業界用語だろう。著者は新大久保に住んで外国人に関する取材を続けてきた人で、「インネパ」系カレー店の大増殖に関心を持って、どうしてそうなったか取材した。その結果ネパールまで出掛けて、知られざる歴史と現状を探った本である。
(代表的なセットメニュー)
 読んでみて「日本を制覇する」は大げさだと思ったが、なかなか考えさせられるエピソードがいっぱいだった。まず「バターチキン」などのインドっぽい、高級っぽいカレーは、もともとムガル帝国の宮廷料理(ムグライ)だったという。日本でちゃんとしたインド料理店を始めるときに、メニューに取り入れたんだそうだ。日本人だって、家で毎日スシやテンプラ、スキヤキを食べてる人なんかいない。「ご飯と味噌汁」に焼魚、野菜の煮物とかを(少なくとも昔は)食べてるわけで、インドやネパールだって日常生活では違うものを食べているのである。

 ところでネパールは世界有数の「出稼ぎ大国」だという。イギリス軍最強と言われる「グルカ兵」は有名。観光と農業ぐらいしか産業がないから、昔から隣の大国インドに働きに行く人が多かった。今は中東初め世界中に行くが、やはりインドに行く人が多いという。ビザもパスポートも不要という協定があるからだという。そしてインドのホテルやレストランでネパール人は重宝されてきた。インドには根強い「カースト」意識があって、インド人の調理人は給仕や清掃をしないのに対し、ネパール人は何でもこなしたからである。そして、インドでカレー料理人として活躍した人が独立して日本を目指したのである。

 その中に努力して成功した人が出て来て、家族や親戚を呼ぶようになり同郷のコックを呼ぶようになった。日本語が判らないから遊びにも行けず、次第にお金が貯まったら独立して自分の店を持つようになった。単なる料理人より、経営者のビザを取れたら有利になる。そうして「のれん分け」式に増えていったという。その際、前に勤めていた店のメニューを真似したし、ホームページやチラシも(時には無断で)借りたわけである。なるほど、なんかどこも似たチラシを配ってたりした。

 そして、子どもも呼び家族で暮らすようになると、別の悩みが起こった。それは子どもの教育で、日本の学校に行かせても言葉が判らないから不登校になる。東京では阿佐ヶ谷(杉並区)にネパール人学校が作られたそうで、そこで中央線沿線にインドカレーの店が多くなったという。この問題は非常に重大で、今では14万人近くになっている。(2022年末段階。)数自体は中国、ベトナム、韓国、フィリピン、ブラジルに次ぐ6位だが、本国の人口を考えれば、日本在住者の割合が高いことが判る。それも話を聞いていくと、ネパール中部のバグルンという地域から来ている人がほとんどだという。
 (バグルン)
 じゃあ、早速バグルンに行ってみよう、というところが非常に面白い。それは是非本で読んで欲しいが、あまりにも日本に行きすぎて地域社会が崩壊しつつある。日本で成功したとしても、日本に居付くか、帰国したとしても都会に家を建てたりトレッキング向きのホテルを買う。故郷の村には誰もいなくなるのである。しかし、インドカレー店の経営者がほぼ同じ地域から来た人々だったというのは驚き。そして今度はネパール人同士で搾取が起こり、ネパール人の下では働きたくないという人が増えているらしい。そしてネパール人もどんどん日本を捨ててカナダを目指しているという。
(新宿に移転したアショカ)
 東京のインドカレー店の歴史も書かれている。それは「インド独立運動」と関わっていたというのは、有名な話。新宿中村屋の「インド・カリー」や、銀座歌舞伎座近くにある「ナイル・レストラン」である。その後、ムグライ料理を本格的に提供したのが銀座にあった「アショカ」である。ここはインド政府観光局が開いたレストランだが、僕も昔一度行ったことがある。素晴らしく美味しかったけれど、なかなか高かったので次に行く前に無くなってしまった。ところがこの本で、今は新宿のヒルトンホテルでやっていると出ていた。それと、東京に夜間中学定時制高校があって良かったなと改めて思わせられた本だった。
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『RRR』で知るインド近現代史(文春新書)ーインド・ナショナリズムのいま

2024年04月04日 22時16分17秒 |  〃  (国際問題)
 軽く読めてタメになる新書が読みたくなって、『『RRR』で知るインド近現代史』(笠井亮平著、文春新書)を読んでみた。先頃『インド、「世界最大の民主主義国」は「厄介な大国」になったのか』(2024.2.27)を書いたが、そこで書いたことを専門家が詳しく解説してくれる本である。インド映画ファンには是非読んで貰いたいし、インド近現代史の「早わかり」本としても有効だ。インド情勢は5年ぶりの総選挙が来月始まることもあって、いろいろ報道される機会が増えている。10年続いたモディ政権の継続は決定的だが、予想以上の圧勝になるとの観測も強まっている。

 前回書いたように、モディ政権を支える「インド人民党」は右翼ナショナリズム政党と言ってよい。日本で言えば、かつての安倍政権みたいな感じ。実際二人には深い親交があり、モディ氏は安倍氏の国葬に来日したぐらいである。モディ政権は、だから「インドを、取り戻す」みたいなスローガンを掲げて勝利してきた。ただし、ここで言う「インド」は「ヒンドゥー・ナショナリズム」である。ムスリム(イスラム教徒)やシーク教徒、さらにはキリスト教徒、仏教徒、拝火教徒(パールシー、ゾロアスター教徒)などを含む「多様性」を擁護するものではない。だから近年ではイスラム教のモスクを取り壊してヒンドゥー寺院を建ててしまうような「暴挙」も行われている。それがまたモディ政権支持層には受けるわけである。

 映画『RRR』は2022年に日本で公開されて以来、今もなお上映が続いている。日本で一番ヒットしたインド映画になっている。182分もある長い映画なので、まだ見てない人もいるかもしれないが、時間を感じさせない面白さがあるのは間違いない。ダンスシーンも最高に素晴らしいが、設定には疑問を感じる映画でもあった。非暴力独立運動のガンディーは全く描かずに、2人の超人的英雄がインド総督府に乗り込んで暴れまくるという話である。ついにインド映画も中国や韓国と同じようなナショナリズム優先になってしまったのか。もちろんフィクションの娯楽映画なんだから、目くじら立てる必要はないとも言える。しかし、どの国でもナショナリズムの高揚の中で「愛国映画」ばかりになると批判せざるを得ない。
(『RRR』)
 この本には『RRR』の2人の主人公ラーマビームが実在人物だという興味深い指摘がある。そこまでインド独立運動史に詳しくないので、二人の名前は知らなかった。ただし、この二人が知り合いだという設定はフィクションで、もちろん総督府に殴り込むのも映画の趣向である。インド独立運動が非暴力一辺倒ということはなく、日本人には有名なスバス・チャンドラ・ボースのように、反英国のためにナチス・ドイツと手を組もうとした人もいる。それが上手く行かないと、次は日本軍と協力して「インド国民軍」を作ったりした。興味深い人物だけど、歴史的には組む相手を間違えたことになるだろう。

 それでもチャンドラ・ボースは独立の英雄として遇されているようだ。だが、やはりガンディーネールの国民会議派主流が独立運動の中心だった。そしてモディ首相はそのガンディーを暗殺したヒンドゥー過激派の「民族義勇団」に所属していた過去がある。ただし、首相としてはガンディーを批判しているわけではない。むしろ全世界にガンディー像を贈る運動をやっているようだ。最近も長崎市にガンディー像が設置され、縁もゆかりもないのに大きすぎないかと問題になっている。世界にインドを売り込むために「世界的有名人としてのガンディー」は利用するんだということだろう。
(長崎市のガンディー像)
 ガンディーはかつて映画『ガンジー』が作られ、アカデミー賞で作品、主演男優、監督等8部門で受賞した。確かに名作だが、監督はイギリス人のリチャード・アッテンボローだった。この本では日本未公開の映画も含めて、インドの映画をいっぱい紹介して、インド独立運動がどう描かれているのか解説している。見てない映画が多いが、その分析がとても興味深い。ただし、歴史に関わらないインド映画はほとんど出て来ない。インド映画史の本ではなく、あくまでも映画で知るインド近現代史なのである。

 『RRR』はヒンドゥー語映画ではない。かつてボンベイ(ムンバイ)で製作されたヒンドゥー語映画がインド映画の中心だった。当時ボンベイは「ボリウッド」と呼ばれていた。その後、『ムトゥ 踊るマハラジャ』のようなタミル語映画も増えた。『RRR』はインド南東部のテルグ語で作られている。インド内では話者人口13位である。他地方で上映されるときは、その地方の言語に吹き替えられるのが通常だ。南インドでヒンドゥー・ナショナリズムが高揚しているのではないかと思う。『RRR』の監督S・S・ラージャマウリがその前に作って大ヒットした『バーフバリ』2部作のセットがテーマパークになって繁盛しているという。
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記録映画『美と殺戮のすべて』、薬害と闘うアーティストの生涯

2024年04月03日 20時41分22秒 |  〃  (新作外国映画)
 『美と殺戮のすべて』(All the Beauty and the Bloodshed)という映画が公開された。あまり知らないと思うけど、2022年のヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞作である。ヴェネツィア映画祭と言えば、黒澤明『羅生門』や北野武『HANAーBI』に最高賞を与えるなど世界への目配りで知られてきたが、近年は翌年のアカデミー賞狙いの映画が集まる傾向が強い。『シェイプ・オブ・ウォーター』『ROMA』『ジョーカー』『ノマドランド』などである。23年の金獅子賞も『哀れなるものたち』だった。ところが、2022年は『イニシェリン島の精霊』『ター』『ザ・ホエール』などを押えて、ドキュメンタリー映画が受賞したのである。

 ローラ・ポイトラス監督の『美と殺戮のすべて』は、驚くほど鮮烈な傑作だ。内容はアングラ系アーティストであるナン・ゴールディン(Nan Goldin、1953~)の生涯を追いながら、薬物中毒を引き起こした製薬会社を告発する近年の活動に密着している。日本ではあまり知られてない題材、人物なので、観客にアピールする要素が少ない。公開も2年遅れたが、これは見逃すにはもったいない映画だ。しかし、2週目からはもう上映時間も少なくなっている。ヴェネツィアでは最高賞を得たが、米アカデミー賞では長編記録映画賞ノミネートで終わった。受賞作は『ナワリヌイ』だったが、同じように刺激的だ。
(抗議するナン・ゴールディン)
 冒頭はメトロポリタン美術館である。そこに人々が集まっている。絵を見に来たのではない。人々は幕を広げ、池に何か(薬の空きビン)を投げ込み、スローガンを発する。多くの人々が中毒死して社会問題になっているオピオイド鎮痛剤。その「オキシコンチン」を作っている会社のオーナー、サックラー一族は美術館の支援で知られ、メトロポリタン美術館にもサックラーの名が付いた部屋があった。集まった人々はサックラー家を非難し、寄付金を受け取る美術館にも責任があると声を挙げたのである。
(ルーブル美術館前の抗議活動)
 そこから運動の中心になっているナン・ゴールディンの人生を振り返る。それが凄まじく、目を奪われてしまう。11歳の時、18歳の姉が自殺してそれが大きな衝撃となった。姉は同性を好きだと妹に告げていたが、両親は彼女を理解出来ず精神病院に送ったのである。そして彼女も養女に出されてしまう。その体験からセクシャル・マイノリティの人々と暮らす「拡大家族」を好むようになり、写真や映像などで彼らを記録するようになった。ニューヨークのゲイ、トランスジェンダーの文化を描く『性的依存のバラード』が話題になった。僕は知らなかったのだが、ナン・ゴールディンは有名な前衛アーティストだったのである。

 しかし、彼女の友人たち、写真のモデルになった人々は多くが亡くなってしまった。エイズである。そして、やがて病気になった彼女は鎮痛剤を処方され、オピオイド中毒になってしまう。何とか立ち直った彼女は、薬害を告発するPAINという団体を作り、抗議活動を始めたのである。この薬物中毒のことは全米で50万以上が亡くなり、大きな社会問題になっている。そのことは知っていたが、ナン・ゴールディンとこの抗議活動をのことは知らなかった。彼女の数奇な人生と現在の抗議活動が交互に織りなされ、非常に興味深く、深い感慨を覚える映画になっている。この映画はナン・ゴールディンの姉に捧げられている。
(ヴェネツィア映画祭のローラ・ポイトラス監督)
 映画を作ったローラ・ポイトラス(1964~)は『シチズンフォー スノーデンの暴露』(2014)でアカデミー賞を受賞している。アメリカの外交文書を暴露したスノーデンを追ったドキュメンタリーである。この映画に関しては『スノーデンを扱った2本の映画』で紹介した。アメリカの暗部を告発する映画を作り続ける勇気ある女性監督である。奇しくも直前に紹介した『戦雲』の三上智恵監督と同年生まれである。薬害告発とともに、20世紀のゲイ・コミュニティやアートに関心がある人にも是非見て欲しい映画。
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記録映画『戦雲』(いくさふむ)、先島諸島の軍事基地化を追う

2024年04月01日 21時56分37秒 | 映画 (新作日本映画)
 『戦雲』(いくさふむ)というドキュメンタリー映画が公開された。三上智恵監督の作品なので、これは見ないといけない。三上監督は毎日放送、琉球朝日放送を経て独立、沖縄をテーマにドキュメンタリーを作り続けている。特に『標的の村』(2013)、『沖縄スパイ戦史』(2018)はキネマ旬報文化映画部門ベストワンを獲得した。これらの映画はちょっと遅れて見たので、記事としては書いてないと思う。しかし、大変スリリングで「面白い」(という表現は語弊があるかもしれないが)映画だった。

 今回の『戦雲』も沖縄を舞台にしているが、今まで沖縄本島や沖縄戦を扱っていたのに対し、南西諸島の中でも「先島」と呼ばれる島々、具体的には与那国島石垣島宮古島に続々と自衛隊の基地が作られた経過を追っている。8年間に渡り取材を積み重ねた映画で、大変な力作だ。反対派ばかりでなく、多くの人々に取材していて見ごたえがある。というか、事態をどう考えればよいのか、見る者に難問を突きつけてくる。内容的には「政治」「社会」などのカテゴリーで書くべきかもしれないが、映画だから映画館で見るしかない。東京ではポレポレ東中野で上映している。
(南西諸島地図)
 日本最西端、台湾に最も近い島である与那国(よなぐに)島に自衛隊が基地を作ろうとしているという話は新聞などで見た記憶がある。反対運動があり、島が大きく揺れたと報道されていたが、2016年に自衛隊の駐屯地が完成した。石垣島や宮古島でも自衛隊基地が増強され、弾薬庫やさらにミサイル基地まで計画されている。これらは東京でも折々に小さく報道されているが、地元の人々の声を含めきちんと取り上げられることは少ない。この間の変化を映像で見ると、この8年間であっという間に軍事化が進行したことが判る。もちろん、言葉で言えば「東アジアの安全保障環境」が悪化しつつあるという背景がある。だが、位置が近いというだけで人口も少ない島々に、これほど軍事基地を集中させるのは何故だろう。
(与那国島)
 住民からすれば、「基地があるから戦争に巻き込まれる」心配がある。中国軍がこれらの島々を軍事侵略するというのだろうか。「台湾有事」があったとして、ミサイル基地は攻撃の対象になりうる。基地も何もなければ、外国軍隊は素通りするだろう。特に占領して意味があるとも思えない。基地があって、住民が戦争に巻き込まれる恐れはないのか。それは自衛隊側も認識していて、その際の避難計画を練っているらしい。かつての伊豆大島の三原山噴火時の「全島避難」が前例として参照されている。住民説明会も開かれているのである。事態はそこまで切迫しているのだ。
(与那国馬)
 ところで、そういう風なことが起きているのだが、そこには反対運動だけがあるわけではない。基本的にそこにも「日常」がある。与那国島と宮古島は日本在来馬(全部で8種)の「与那国馬」と「宮古馬」がいるところだ。宮古馬は北部にある牧場でしか見られないので与那国馬もそうなのかと思ったら、基地の前の道を悠然と馬が歩いていたりしてビックリ。カジキマグロを追う漁師は、ある日カジキマグロの「角」(正確には前方に長く延びた上顎で、「吻」(ふん)というらしい)に足を刺されて大ケガをしてしまう。しかし、負けてたまるかと奮起しカジキマグロを捕まえると誓う。カジキマグロ漁に成功するかも大きな見どころ。
(集英社新書『戦雲』)
 冒頭で反対運動をしている山里節子さんの歌が流れる。「戦雲がまた湧き出てくるよ 恐ろしくて眠ろうにも眠れない」と始まる琉歌である。ここで恐れているのは、沖縄が再び(本土の)犠牲になるのかという気持ちだろう。自衛隊は初めからミサイル基地を作るとは言わなかった。駐屯地を作った後で、どんどん既成事実にしてしまう。宮古島の弾薬庫も初めは訓練はしないと言っていたらしいが、今は日々銃声が聞こえるらしい。しかし、反対運動に参加していた人が、次のシーンでは市議に当選したりしている。日々の日常と進行する軍事基地化、そして抗い続ける人々。是非多くの人に見て欲しいドキュメンタリー映画だ。
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