この際だからとたまっていた新書本を読み続けている。つい買ってしまったまま、今では授業に使うわけでもないから読みそびれている新書がいっぱいある。今読まないと一生読まずに終わりそうだから、読みたい本を差し置いて先に読んでるわけ。日米地位協定に関する本を読んだが、それを後に回してデイヴィッド・T・ジョンソン『アメリカ人のみた日本の死刑』(岩波新書)を取り上げたい。2019年に出た本で、著者は日本の司法制度を研究してるハワイ大学教授(社会学)である。
死刑制度に関心があるから(というか、死刑廃止論者だから)この本を買ったわけだが、何だか知ってる内容が多いかなと思って読まずにいた。165頁ほどのそんなに長くない本だが、読んでみたらやはり「外の目」で見ることは大切だと思う指摘が多かった。最近「死刑執行の当日告知違憲訴訟」の判決があったばかりである(4月15日)。判決文を読んだわけではないけれど、報道でみる限り論点を外しているんじゃないかと思う。それもあって、この本のことを書いてみたいのである。
(当日告知訴訟判決)
その訴訟は「死刑執行を当日の朝告知するのは憲法違反」と主張した。詳しく言うと、当日告知は「弁護士への接見や執行の不服を申し立てることができず、適正な手続きを保障した憲法に違反する」として、国に慰謝料や当日の告知による執行を受ける義務がないことの確認を求めたのである。それに対し、判決は「原告の死刑囚は、当日告知を前提とした死刑執行を受け入れなければならない立場であり、訴えは確定した死刑判決を実質的に無意味にすることを求めるもので認められない」とした。
先の新書にもあるが、アメリカではこのような「当日告知」はあり得ない。もっと早く告知する(というか本人や弁護士に告知だけではなく、社会全体に発表する)ので、死刑囚が州知事に恩赦を請願したりする。(裁判は州ごとで、死刑廃止州もある。連邦犯罪にあたる場合は、大統領が判断する場合もある。)執行当日は家族も見守る中、死刑賛成派、反対派が詰めかける。ある種「騒然」とするわけだが、それが「民主主義社会」の当然のありかたと思うんだろう。その間死刑執行をめぐって様々な「異議申立て」がなされるが、それこそ「適正手続き」(デュー・プロセス)なのである。
この新書を読んで、「日本では死刑が特別な刑罰ではない」という指摘が印象的だった。日本でも一応公的には「死刑は生命を奪う特別な刑罰である」と言っている。死刑そのものが憲法に反するかどうかが問われた裁判では、最高裁は「人間の命は地球より重い」と判示している。だけど「死刑は合憲である」と結論するのである。しかし、著者によれば「死刑が特別かどうか」は「死刑に関して裁判で特別な規定を設けているか」という問題なのだという。
(デヴィッド・ジョンソン教授)
つまり、「裁判員全員が一致しないと死刑を言い渡すことが出来ない」というような。アメリカの陪審裁判では、全員一致じゃないと決定出来ないし、有罪無罪の認定だけして量刑判断はしないのが一般である。日本では「裁判官3人、裁判員6人」のうち、裁判官1人を含む多数決で事実認定だけでなく量刑まで決定する。いわゆる「先進国」で死刑を存置するのは日本(とアメリカの約半数の州)だけだから、国民が死刑を判断する唯一の国と言えるのである。
また時には死刑囚が控訴を取り下げて、一審だけで死刑が確定することも多い。諸外国には死刑判決の場合は必ず上訴しなければならず、複数の裁判所の判断を経なければ死刑が確定しない国もあるという。つまり、日本では言葉上はともかく、裁判の運用においては「日本の死刑制度は普通の刑罰」なのだという。こういうことは確かに外から言われてみないと気付かない論点だ。
先の訴訟は「死刑制度は憲法違反(の残虐な刑罰)だから、執行を受ける義務はない」という訴訟じゃない。そういう論点だったら、裁判所が「死刑執行を受忍する義務がある」と判決しても、まあ当然だろう。しかし、今回の訴訟は当日告知は「デュ-・プロセス」(適正手続き)に反するという主張である。確かに「当日告知」を禁じる法的条文はないから、違法ではない。それ以前の告知を求める法的根拠そのものはない。(執行日の告知は法律で決まってない。)それなのに事前告知を求めるのは「死刑判決を実質的に無意味にすることを求めるもの」とまで言うのは何故か?
事前に執行日を知らせると、死刑廃止論に立つ弁護士などが執行停止を求める訴訟や、再審、恩赦などを請求する可能性は高い。しかし、それは死刑囚に与えられている「適正手続き」である。この理由では請求を退ける理由にならない。このように裁判所も「適正手続き」に関心が薄いのである。死刑囚には死刑を受け入れている人もいれば、死刑を受け入れてない人もいる。その中には無実を主張している人もあるし、無実じゃないけど死刑判決には納得してない人もいる。死刑を受け入れている人にも、「反省」として受忍する人もいれば、死刑になりたくて犯罪を犯して早く執行してくれと言う人までいる。
どういう立場の死刑囚にとっても、当日告知より事前告知の方がいいはずだ。当日告知は執行側にとっても負担が重いのではないかと思う。なお、昔は事前に告知していたのはよく知られている。変更のきっかけは「死刑囚の自殺」だと今回法務省が明らかにした。自殺した死刑囚としては、1977年の「新潟デザイナー誘拐殺人事件」の死刑囚が有名だが、その事件ではないようだ。実はWikipediaに情報が載っていて、確定死刑囚の自殺が5件あったことが判る。1975年に2件あり、この頃変更されたのだろうか。それはともかく『アメリカ人のみた日本の死刑』という本はなかなか気付くことが出来ない論点を教えてくれる得がたい本だ。
死刑制度に関心があるから(というか、死刑廃止論者だから)この本を買ったわけだが、何だか知ってる内容が多いかなと思って読まずにいた。165頁ほどのそんなに長くない本だが、読んでみたらやはり「外の目」で見ることは大切だと思う指摘が多かった。最近「死刑執行の当日告知違憲訴訟」の判決があったばかりである(4月15日)。判決文を読んだわけではないけれど、報道でみる限り論点を外しているんじゃないかと思う。それもあって、この本のことを書いてみたいのである。
(当日告知訴訟判決)
その訴訟は「死刑執行を当日の朝告知するのは憲法違反」と主張した。詳しく言うと、当日告知は「弁護士への接見や執行の不服を申し立てることができず、適正な手続きを保障した憲法に違反する」として、国に慰謝料や当日の告知による執行を受ける義務がないことの確認を求めたのである。それに対し、判決は「原告の死刑囚は、当日告知を前提とした死刑執行を受け入れなければならない立場であり、訴えは確定した死刑判決を実質的に無意味にすることを求めるもので認められない」とした。
先の新書にもあるが、アメリカではこのような「当日告知」はあり得ない。もっと早く告知する(というか本人や弁護士に告知だけではなく、社会全体に発表する)ので、死刑囚が州知事に恩赦を請願したりする。(裁判は州ごとで、死刑廃止州もある。連邦犯罪にあたる場合は、大統領が判断する場合もある。)執行当日は家族も見守る中、死刑賛成派、反対派が詰めかける。ある種「騒然」とするわけだが、それが「民主主義社会」の当然のありかたと思うんだろう。その間死刑執行をめぐって様々な「異議申立て」がなされるが、それこそ「適正手続き」(デュー・プロセス)なのである。
この新書を読んで、「日本では死刑が特別な刑罰ではない」という指摘が印象的だった。日本でも一応公的には「死刑は生命を奪う特別な刑罰である」と言っている。死刑そのものが憲法に反するかどうかが問われた裁判では、最高裁は「人間の命は地球より重い」と判示している。だけど「死刑は合憲である」と結論するのである。しかし、著者によれば「死刑が特別かどうか」は「死刑に関して裁判で特別な規定を設けているか」という問題なのだという。
(デヴィッド・ジョンソン教授)
つまり、「裁判員全員が一致しないと死刑を言い渡すことが出来ない」というような。アメリカの陪審裁判では、全員一致じゃないと決定出来ないし、有罪無罪の認定だけして量刑判断はしないのが一般である。日本では「裁判官3人、裁判員6人」のうち、裁判官1人を含む多数決で事実認定だけでなく量刑まで決定する。いわゆる「先進国」で死刑を存置するのは日本(とアメリカの約半数の州)だけだから、国民が死刑を判断する唯一の国と言えるのである。
また時には死刑囚が控訴を取り下げて、一審だけで死刑が確定することも多い。諸外国には死刑判決の場合は必ず上訴しなければならず、複数の裁判所の判断を経なければ死刑が確定しない国もあるという。つまり、日本では言葉上はともかく、裁判の運用においては「日本の死刑制度は普通の刑罰」なのだという。こういうことは確かに外から言われてみないと気付かない論点だ。
先の訴訟は「死刑制度は憲法違反(の残虐な刑罰)だから、執行を受ける義務はない」という訴訟じゃない。そういう論点だったら、裁判所が「死刑執行を受忍する義務がある」と判決しても、まあ当然だろう。しかし、今回の訴訟は当日告知は「デュ-・プロセス」(適正手続き)に反するという主張である。確かに「当日告知」を禁じる法的条文はないから、違法ではない。それ以前の告知を求める法的根拠そのものはない。(執行日の告知は法律で決まってない。)それなのに事前告知を求めるのは「死刑判決を実質的に無意味にすることを求めるもの」とまで言うのは何故か?
事前に執行日を知らせると、死刑廃止論に立つ弁護士などが執行停止を求める訴訟や、再審、恩赦などを請求する可能性は高い。しかし、それは死刑囚に与えられている「適正手続き」である。この理由では請求を退ける理由にならない。このように裁判所も「適正手続き」に関心が薄いのである。死刑囚には死刑を受け入れている人もいれば、死刑を受け入れてない人もいる。その中には無実を主張している人もあるし、無実じゃないけど死刑判決には納得してない人もいる。死刑を受け入れている人にも、「反省」として受忍する人もいれば、死刑になりたくて犯罪を犯して早く執行してくれと言う人までいる。
どういう立場の死刑囚にとっても、当日告知より事前告知の方がいいはずだ。当日告知は執行側にとっても負担が重いのではないかと思う。なお、昔は事前に告知していたのはよく知られている。変更のきっかけは「死刑囚の自殺」だと今回法務省が明らかにした。自殺した死刑囚としては、1977年の「新潟デザイナー誘拐殺人事件」の死刑囚が有名だが、その事件ではないようだ。実はWikipediaに情報が載っていて、確定死刑囚の自殺が5件あったことが判る。1975年に2件あり、この頃変更されたのだろうか。それはともかく『アメリカ人のみた日本の死刑』という本はなかなか気付くことが出来ない論点を教えてくれる得がたい本だ。