尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『拳と祈り 袴田巌の生涯』、袴田事件を追い続けて

2024年11月12日 20時39分25秒 | 映画 (新作日本映画)

 『拳(けん)と祈り 袴田巌の生涯』というドキュメンタリー映画を見た。ホントはどうしようかなと悩んだんだけど、やっぱり見ようかと思った。見たら非常に「面白い」映画で、見逃さなくて良かった袴田事件については今まで何度も書いてきたから、やはり見ておきたい。だけど、なんで悩んだかというと、すごく長いのである。159分もあって、2時間半を越える。最近長い映画を見ると、途中でトイレに行きたくなるし、腰も痛くなる。もちろん袴田事件が進行中なら支援の意味で見なければならない。でも周知のように、長い再審が終わって無罪が確定したのである。もう見なくても良くないか?

 多分そう思う人も多いかなと思って最初に書いたけど、冤罪事件を扱う「社会派」映画であるだけでなく、「袴田巌」という人間の不思議に迫る人間追求映画だった。映画は再審段階で開示された「録音テープ」を流して、冤罪を作り出す取り調べを告発している。だがそれ以上に袴田さんに密着する映像が多い。それが非常に興味深くて、見ていて退屈しない。「袴田巌」という人物を、我々は名前としては知っている。でも実際に一緒に暮らしているわけではないし、身近に接してきたわけでもない。映画は再審請求が認められ、「著しく正義に反する」として、死刑囚から突然釈放された2014年時点から、ずっと密接取材をしている。

(笠井千晶監督)

 監督の笠井千晶氏は大学卒業後に静岡テレビに入社し、2002年から姉の袴田秀子さんの取材を続けてきた。その後、退社、留学、中京テレビ勤務、フリーになったという経歴だが、その間もずっと取材してきたようだ。特に釈放当日の車に秀子さんや小川秀世弁護士などと同乗している。東京のホテルに泊まった様子も記録されている。袴田巌さんは獄中で「拘禁反応」により心を病んで、一時は姉の面会も拒否する状態だった。釈放直後も能面のように現実と遮断されたような様子をしている。秀子さんの長年の苦労には本当に頭が下がる。90歳前後の日々なのである。(もう一人の姉も出て来る。)

(姉と弟)

 袴田巌さんは結局今に至るも正常に戻っていないが、その間に次第に「冤罪」と語るようになり、「死刑は良くない」と語る。ボクシングのことも語るようになっていく。当初は一日中部屋を歩き回っていたが、その後姉と同居した浜松市で町を歩き回るようになった。健康にための散歩というよりも、もう「巡察」と呼んだ方が良いぐらいである。カトリックでありながら、目につく寺社には賽銭を投げて祈る。小銭を子どもにあげたり、花の根本に置く。パンが大好きで、何個も買い込んだりする。

 実に不思議なんだけど、その合間に再審の進展、事件内容、そして本人の生涯が振り返られる。この過去の写真(国体のボクシングに出た時など)に初めて見るものが多く貴重。特にプロボクサー時代の話が興味深い。当時を覚えている人がまだいて、タフなファイターだったことが語られる。アメリカのボクサーでやはり冤罪に巻き込まれたハリケーン・カーターとの交流は心に残る。先に冤罪を晴らし、その後ガンの闘病を続けたハリケーンは、2014年に袴田さんの釈放の報を聞いてから亡くなった。

(ボクシングを語る)

 袴田事件そのものは、再審無罪判決、検察側の控訴断念、無罪確定によって、1966年の事件発生58年経ってようやく終わった。しかし、袴田巌さんの精神は破壊されたままである。何とか日常生活を送っているものの、やはり「フシギ感」は残っている。それは冤罪そのものにもよるけれど、何と言っても「死刑制度」がもたらしたものだと思う。近くの房にいた死刑囚が執行されるのを知れば、次は自分かと恐怖に駆られるのも当然だ。次に死刑制度も問わないといけない。

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第2期トランプ政権はどうなるかー2024米大統領選③

2024年11月11日 21時56分33秒 |  〃  (国際問題)

 2025年1月から4年間のアメリカ合衆国大統領に、ドナルド・トランプが就任することが確定した。トランプが選挙に出るのも、これで最後である。かつてフランクリン・ルーズベルトが連続4期務めたことがあるが、その後憲法修正第22条が1951年に成立して、合衆国大統領は「2期まで」と制限された。これは「連続2期まで」ではなく、間に大統領じゃない時期があっても、「通算で2期」務めればそれで終わりである。(なお、大統領辞任、死亡等により、副大統領から昇格した場合、残り任期が2年以上あれば1期やったとみなす。従って、昇格して約2年、続いて2期と大統領は最長でほぼ10年間務めることがある。)

 ということで、3期目がないトランプはどのように行動するのか? 僕に予想が付くわけもないが、それでも一応考えてみたい。まず、多くの人は最後に「世界的業績」を挙げて、ノーベル平和賞を受賞するなど、歴史に名を残すことを追求するものだ。だが、どうもトランプ大統領に限っては、そんなことは全然気にしない可能性が高いと思う。しかし、やりたい放題を続けると、次期大統領に民主党候補が当選しかねない。その場合、刑事訴追を受けるなど(トランプから見れば)「報復」の心配がある。

 次期大統領に「子飼い」のトランプ派、例えば副大統領のJ・D・ヴァンスのような人物を当選させること。そうなれば、仮に何か問題があっても(大統領就任中に「凍結」された刑事裁判が再開されるなど)、大統領権限で恩赦されて救われる。そのために「内政」「外交」で「実績(と称するもの)」を挙げて、高い支持率を維持するというのが任期中の最大の目標になる。何が何でも「経済安定」、まあ「アベノミクス」一本槍だった時期の安倍内閣みたいになるんじゃないだろうか。

(日本への影響は?)

 トランプ氏の発想法は、自分が強い場合は「敵と取引可能」、むしろ「仲間こそが自分を利用する」というものではないか。特別な生育歴によって、社会的認知に何か問題があるのかもしれない。「日本は同盟国だから」なんて甘い発想は成り立たないと予想する。安倍晋三元首相は「身内」扱いされていたらしいが、安倍氏の政敵だった石破首相はどう思われるんだろうか。

 まあ僕が心配するべき問題じゃないけれど、第1期のことを思い出しても、日本のイメージは「すっかり落ちぶれた長期低落中の経済」ではなく、「アメリカから冨を盗むアジアの国」という80年代頃のまま認識が止まっていた気がする。世界経済はすっかり変わってしまい、今や日本がアメリカへの「デジタル赤字」に悩んでいる。僕もこうしてブログなど書くことによって、GoogleMicrosoftFacebookなどの利益増進に「貢献」している。(Amazonは使わないようにしているけど。)

 世界的IT企業への国際課税タックスヘイヴン(租税回避地)をなんとかしようなんて発想はないだろう。むしろ新興企業経営者に支持されたトランプ政権は自国企業への利益を最大にするように行動するだろう。MAGA帽は中国で作っていたという話があるが、アメリカ経済だって中国に相当程度依存しているにも関わらず、「中国」が最大の標的になる。だから、日本は「お目こぼし」かというと、そんなことはなく「似たようにズルする国」扱いされることを覚悟するべきだ。

(早速プーチンと電話会談)

 「外交」はどうなるか。もう「パリ協定再離脱」は決定事項だと考えて良い。選挙戦中にトランプはウクライナやガザの戦争は「終わらせる」と主張していた。そもそも弱腰のバイデン大統領だから戦争が起こったのであり、自分が大統領だったら戦争は起きなかったとも主張した。もちろんこの考え方は現実の国際政治とは違うだろう。トランプが大統領だったら、プーチンはウクライナに侵攻しなかったのか。むしろウクライナ侵攻を事前に「許可」してしまった可能性の方が高いと思う。

 ハマスのイスラエル奇襲攻撃は、トランプ外交の「成果」がもたらしたと考えられる。トランプ外交によって、サウジアラビアとイスラエルの国交交渉がほぼまとまりつつあった。その交渉はイスラエルの大規模報復によって、凍結されている。僕はこの交渉をつぶすのが、ハマスの目的だったと考えている。トランプが「中東の戦争を終わらせる」というのは、「パレスチナに正義をもたらす」ことを意味しない。むしろパレスチナの犠牲のもとに、イスラエルの「占領」を合法化することを指すはずだ。

 トランプの勝利を世界で一番待ち望んでいたのは、イスラエルのネタニヤフ首相だと思う。1期目のトランプ時代に、アメリカは大使館をエルサレムに移転した。これはバイデン政権も元に戻せなかった。一度やってしまうと、戻せないことが多い。バイデン政権の対応に不満があるからといっても、あんなにネタニヤフ支持だったトランプよりはマシだと思うけど、アメリカ国内ではそう思わないアラブ系有権者も多いらしかった。今後どれほど大変なことが起きるか予測できない。

 まさか国連自体は脱退しないと思うけど、ひょっとするとNATOからの離脱はないとは言えない。国連機関への拠出金凍結は、むしろ当たり前に起きるだろう。もう再選なしなので、怖いものなしになる可能性もある。経済運営はともかく、外交は何が起こるか予測不能な時代がまた来るのかと思うとユーウツ。バイデン外交は成果が乏しかったとは思うが、方向性は理解出来た。トランプ外交は「読めない」が、「何があるか予測出来ないということは予測可能」である。

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「リベラル」のジレンマ、カマラ・ハリスはなぜ負けたのか②ー2024米大統領選②

2024年11月10日 21時54分50秒 |  〃  (国際問題)

 カマラ・ハリスの選挙運動には、日本人なら「既視感」があったのではないか。それは都知事選の蓮舫候補である。仲間内では盛り上がっているように見えて、結局肝心なところで有権者をつかみ損なったのである。最終盤でレディ・ガガが登場したり、一見有名人が集結して盛り上がったように見えたが、それで取り込めない層があったということだ。

 しかし、カマラ・ハリスだけを責めるわけにもいかない。結局「予備選」を行わずに大統領候補になったことが致命的だった。バイデン大統領の撤退決断が遅すぎたのである。第1回目の候補者討論会まではバイデンだったが、その時の結果が悪すぎて、このままでは負けるという懸念が強くなった。本来なら前回出馬の時に「自分は1期」と明言するべきだった。

(ヒスパニック系の支持率)

 今回ではっきりしたのは、ここしばらく民主党支持で固定していた「マイノリティ」票が、必ずしも民主党に結集しなくなったという現実である。今のところ、黒人票はやはりハリス候補が圧倒的に多いけれど、特に男性の場合トランプ支持も珍しくなくなった。ハリス候補の母方であるインド系など、男性の場合にはトランプ支持の方が多いという調査がある。

(激戦7州の支持率)(2020年選挙の支持率)

 上記画像は最初が今回の激戦7州の人種別、性別の支持率である。後者が2020年の全米規模の人種別、性別の支持率で、調査対象が違うので、厳密な比較ではない。また前者の調査ではハリス優勢になっていて、今回もやはり「隠れトランプ」があったのかと思う。それを見ると、黒人男性は71:22、黒人女性は82:11で、ハリス支持が圧倒している。ところが前回の調査では、黒人男性は79:16、黒人女性は90:5だったので、調査対象が違うとは言えトランプ支持者が黒人にも増えている。

 ラティーノ(ヒスパニック)の場合はもっと顕著で、2020年に男性が59%、女性が69%が民主党支持だったのに、今回は男女合わせて、56:38までトランプが迫っている。アジア系も同様である。なぜ民主党は「マイノリティ」票の取り込みに失敗したのか。そもそもアメリカ政治で民主党が人種的なマイノリティ票に強いという現象は、そんなに昔からのことではない。

 奴隷解放宣言を発したリンカーンは共和党所属だった。その後紆余曲折へ経て、20世紀半ばにフランクリン・ルーズベルト大統領による「ニューディール連合」が成立した。1930年代から1970年代にかけ、労働組合、知識人、ブルーカラー労働者、南部農場経営者など様々な階層を民主党支持で幅広くまとめたのである。しかし、内部的な矛盾は大きくて、例えば人種差別主義者の元アラバマ州知事ジョージ・ウォレスは民主党だったのである。(1968年大統領選にはアメリカ独立党から出馬した。)

 60年代の「公民権運動」を経て、黒人層の場合、公民権法を成立させた民主党への支持が圧倒的になった。いわば「恩義」があって、それに応えて投票し続けて来たと言っても良い。一方、60年代の「混乱」に眉をひそめた白人富裕層は、ニクソン、レーガンなどの「法と秩序」に結集した。70年代以前はラテン系、アジア系は数も少なく、アメリカ政治の枠外に置かれていた。しかし、白人富裕層中心の政治から落ちこぼれる黒人以外のマイノリティ票も、民主党に結集せざるを得なかった。

 民主党の「リベラル」イメージは、このように20世紀末からのものと言える。人種ばかりでなく、性別や性的指向の差別も「良くない」ということで、「リベラル」な法制度への改革が民主党のもとで進んだ。その結果、リベラル改革(「妊娠中絶」や「同性婚」など)に教義解釈上強く反対する「キリスト教右派」は、共和党への支持を強めていった。

(「鍵握る」と呼ばれたアラブ票)

 人種や性別などで人生が左右されるのは、もちろん間違っている。だから、「リベラル」な社会は望ましいわけだが、「リベラル社会」が一定程度実現すると、今度は別の要因が浮上する。インド系男性がインド系でもあるハリスではなく、トランプ支持者の方が多かったのは、そもそもインド系移民は被差別の歴史性を負っていない(少ない)からだろう。IT技術者として高額所得者であるインド系男性なら、トランプの方が身近に思えても不自然ではない。

 アラブ系の場合はイスラム教なんだから、同性婚などには反対の人が多いだろう。もちろん母国で性的指向によって迫害され逃れてきた人もいるだろう。しかし、一般的に言えば、アラブ系移民は保守的で、家父長制意識が濃厚な人も多いはずだ。それは基本的にカトリックであるラテン系住民にも言える。「差別される」という一点では団結できても、ある程度アメリカ社会に受け入れられれば、今度はもともとの保守的価値観が表れてくるわけだ。

 マイノリティ社会が母国から持ち込まれた保守性を維持するというのは、南米の日系移民でもあったし、日本のコリアン社会でも見られる。「リベラル」は「異文化に寛容」ということになっていて、それらマイノリティ社会内部の保守性を批判しにくい。リベラルな社会が実現すればするほど、マイノリティが経済的に上昇し、白人富裕層に似た価値観を持つようになる。

 これは組織労働者やブルーカラー労働者にも言えることで、過去のなじみ、昔からの恩義ではもはや票をつなぎ止められない。「自由」を存在価値にする「リベラル」は強引な票の取り込みも難しい。21世紀リベラル政治のジレンマが、今回のハリス陣営には付きまとったのではないか。28年大統領選がどうなるかはまだ全く見通せないが、共和党がラテン系女性、民主党が白人男性というケースになっても全く不思議ではない。「初の女性大統領」は共和党から誕生するのかもしれない。

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カマラ・ハリスはなぜ負けたのか①国際経済的要因ー2024米大統領選①

2024年11月09日 21時48分10秒 |  〃  (国際問題)

 アメリカ大統領選挙について、そろそろ書いておきたい。と思って、昨日の夜に書く予定が、なんとインターネット環境の不調により書けなくなってしまった。画像は見えているのに字だけが全く見えなくなってしまうという怪現象。こういうときのために入っていたサポートを受けて、ようやく先ほど修復されたのである。昨日ぐらいから急に寒くなって、そう言えばちょうど去年の今頃(11.11)に突然入院してから1年だなあと思い出した。今年は何とか乗り切りたいものだ。

 今年はアメリカ大統領選挙について、ほとんど書かなかった。一回民主党副大統領候補ティム・ウォルズについて書いたことがあるだけである。ちょうど日本の総選挙と時期が重なったこともあるが、どうもトランプが勝ちそうだなどと書いて、当たっても楽しくない。自分に投票権があれば、カマラ・ハリスに入れたんだろうけど、直前の調査報道などを見ればトランプ有利なのではないかと判断していた。それにハリスが勝つ可能性は絶無ではないと思っていたが、上院選は確実に共和党が勝利しそうだった。(実際に過半数の52議席を確保している。未定2。)下院は共和=212、民主=200で、過半数218に共和党が迫っている。

 カマラ・ハリスはなぜ負けたのか? 2016年には「有利」と言われたヒラリー・クリントンがトランプに負けた。2024年は「接戦」と言われていたから、常識的に推理すればトランプ優勢と見るべきだ。ヒラリー・クリントンはオバマ政権(第1期)で国務長官を務め、一般的には「実績を挙げた」と評された。カマラ・ハリスはバイデン政権の副大統領として、一般的には「期待外れ」と評されていた。実績ある「白人女性」が敗北した大統領選で、「有色女性」ならより不利になるはずである。

(敗北宣言を行うハリス副大統領)

 しかし、そのことは民主党内であまり議論されたとは言えない。人種、性別要因で政治を語ると「レイシスト」「セクシスト」と言われかねない。だが、アメリカ国民が本当に「アフリカ系、アジア系の女性」を大統領に選ぶのだろうか。もちろん大多数は構わないと答えるだろう。しかし、激戦州は数万票で差が付くこともありうる。(実際にミシガン、ウィスコンシン、ネバダは数万票の差である。)数万人の保守男性の票が結果を左右しかねない情勢なのは「現実」である。そういう問題を表立って語れなくなってしまい、ハリス本人も「女性初の大統領」を封印した選挙戦になった。 

(アメリカの物価上昇率)

 結果的に民主党は20年ぶりに「総得票数」でも共和党に負けることになった。ここまで民主党が惨敗するとは予測されてなかった。それはなぜかと考えれば、まず「国際経済的要因」を挙げないといけない。つまり、激しいインフレ、物価上昇による生活難である。今年選挙が行われたG7の日本、イギリス、フランス、アメリカではすべて与党が敗北した。米大統領選の結果が判明した6日にはドイツのショルツ連立政権でもFDP(自由民主党)が離脱し、来年早々の繰り上げ総選挙が避けられない情勢。選挙では社会民主党の敗北が確実視されている。カナダのトルドー政権も弱体化していて、近々総選挙がありそうな情勢である。

 日本で行われた総選挙では、立憲民主党が議席を大幅に増やしたが、先に見たように比例票はほぼ同じだった。自民党が大きく票を減らしたことで、野党議席が増えたのである。ではイギリスの事情も見てみたい。2021年の総選挙では、保守党がおよそ1400万票、労働党が1027万票だった。それが2024年の総選挙では、保守党が半分以下の680万票に激減、労働党も970万票だった。実は労働党も票を減らしていたのに、保守党が減りすぎたために労働党政権が成立したのである。

(アメリカ大統領選の情勢)

 じゃあ、アメリカ大統領選ではどうだっただろうか。周知のようにアメリカ大統領選は「選挙人」の争奪で行われる。しかし、ここでは全米規模の総得票数を見てみたい。(なお米国選挙は州ごとに独自の決まりがあり、確定までに時間が掛かる。選挙当日消印の郵便投票を有効にしている州もあり、また外国駐留米兵など在外米国人の郵送投票が遅れて到着する場合もある。)

 2016年 共和党(ドナルド・トランプ) 約6300万票 民主党(ヒラリー・クリントン) 約6600万票

 2020年 共和党(ドナルド・トランプ) 約7422万票 民主党(ジョー・バイデン) 約8130万票

 2024年 共和党(ドナルド・トランプ) 約7400万票 民主党(カマラ・ハリス) 約7025万票 

 これを見れば判るように、結果はまだ未確定(アリゾナ州分があるので、まだ両者とも増える)だが、ドナルド・トランプの票は前回に比べて大幅に増えたわけではない。(7500万票には達しそうだが。)一方、民主党は1千万票を減らしている。ニューヨーク州やカリフォルニア州は圧倒的に民主党が有利だが、今回はある程度共和党が迫っている。優勢な時は6割を越えるのに今回は50%台なのである。どうせ勝つんだからと「消極的民主党支持者」が離れたということが考えられる。

 日本、イギリスで与党が敗北したのは、その国特有の事情がある、同じようにアメリカにはアメリカの事情があり、「カマラ・ハリス要因」や「民主党要因」がある。しかし、現職モディ首相が圧勝と言われたインドでも、思いがけぬモディ政権与党が単独過半数割れするという意外な(日本と同じような)結果となった。それぞれ固有の事情がありながらも、今年の選挙ではどの国も与党が苦戦という共通点がある。それは同じような原因が存在すると考えるべきではないか。

 ロシアやベネズエラみたいにインチキ選挙をするなら別だが、2024年に自由な選挙を行えた国では、皆与党が苦戦し政権交代が起こった国も多かった。それはこの数年間にコロナ禍、ウクライナ戦争、中東情勢悪化による激しい世界的インフレーション、物価高が起こったからだと思う。しかも現代の経済構造ではインフレになると、従来以上に「格差拡大」が起きる。生活難を実感する人々は与党に入れたいとは思わないだろう。これが基調として存在し、世界的な政権党苦戦が起こったと思われる。

 もちろんトランプ政権になったとしても、経済は一挙に好転しない。独特な言い回しでデータを恣意的に利用するかもしれないが、トランプ政権も同じように経済に苦しむはずだ。その結果、2026年の「中間選挙」では民主党が健闘し、2028年大統領選へ向けた動きも始まるだろう。取りあえず国際的要因を書いたが、もちろんアメリカ独自の要因の方が大きいだろう。

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こまつ座『太鼓たたいて笛ふいて』、林芙美子と井上ひさし

2024年11月07日 22時17分23秒 | 演劇

 こまつ座公演『太鼓たたいて笛ふいて』を見た。30日まで。紀伊國屋サザンシアター。こまつ座は井上ひさし(1934~2010)の戯曲を上演する劇団だから、もちろん井上ひさし作である。演出は栗山民也。井上ひさしは遅筆で有名で、初日の公演が中止になることがしばしばあった。しかし、もう故人の旧作だから遅れる心配はないので早めに見たわけである。2002年が初演で、その年の読売演劇大賞最優秀作品賞を受賞した。また作者の井上ひさしが毎日芸術賞、鶴屋南北賞、主演の大竹しのぶが紀伊國屋演劇賞個人賞、読売演劇大賞最優秀女優賞などを受賞した。非常に高く評価された作品だったが、20年以上経つとどうだろうか?

 ところで僕は初演の舞台を見たんだろうか? 当時はこまつ座から案内が送られていて、井上ひさしの新作はほぼ見ていた。見なかったとは思えないんだけど、記憶がないのである。見忘れたのか? 初日近くにチケットを取っていて公演が中止になったとか? 見てないと思って出掛けた映画が、実は見てたということが最近は時々あるから、要するに忘れただけか。井上ひさしは全部じゃないが、25~30作ぐらいは見ているから、はっきり記憶してない作品が多いのも事実だ。この作品は林芙美子の戦時中を描くミュージカル風評伝劇。その頃は林芙美子に関心がほとんどなく、あえてスルーしたのかもしれない。

 こまつ座を見るのは、2013年の『イーハトーボの劇列車』以来。今春に林芙美子を集中的に読んだので、この際(高いんだけど)久しぶりにこまつ座を見ようかなと思ったのである。安定した劇作の面白さ、懐かしい朴勝哲のピアノ演奏によるミュージカル風進行。サザンシアターは見やすいから、観劇的には満足した。大竹しのぶもしばらく見てなかったから、とても良かった。2014年の再演でも主演し、再々演でもやって、もう林芙美子にしか見えない熱演。林芙美子と言えば、『放浪記』の森光子ではあるけれど、大竹しのぶの存在感も森光子に匹敵するだろう。間違いなく代表作の一つだ。

 人物はたった6人。母と住む下落合の家でほとんどが進行する。そこに現れる4人の人々。歌詞を書いてくれと言う三木は、その後NHKに転じ、さらに内閣情報局と移りゆく。また行商をしていた母を慕って二人の男が現れる。さらにカンパを募りに来たのが島崎こま子。島崎藤村『新生』のモデルとなった実在人物で、無産運動に加わったところは事実。困窮が新聞に報じられ、養育園に収容されたこま子を林芙美子が訪ねて記事を書いた。しかし、その後も林家に何度も世話になるなどの事実はないらしい。林芙美子をいっぱい読んだので、これは作品の登場人物を使ってるなとか、事実じゃない創作的設定だなとかなり判る。

 そのことの善し悪しがあって、要するにこれは林芙美子じゃなくて、というか林芙美子を借りて井上ひさしが語っている。南京に、漢口にと日中戦争に報道班員として積極的に関わった芙美子。「私は兵隊が好きだ」と書き、ラジオでも述べる。しかし、米英との戦争に拡大し、南方を視察して以来ふさぎ込む。そして自分の戦争責任を痛感し、「日本はきれいに負けることだ」と思う。「滅びるにはこの日本、あまりにもすばらしすぎる」と歌い上げる芙美子。しかし、これは井上ひさしによって創作された「こうあるべき林芙美子像」だと思う。もちろん、フィクションなんだからそれはそれで構わない。

(林芙美子記念館)

 井上ひさしが生涯にたくさん作った「評伝劇」。それは歴史そのままではなく、もちろん舞台向きにエッセンスだけ取り出し、作家によって解釈された「偉人伝」である。作者はこの前後に「東京裁判3部作」を書いている。『夢の裂け目』(2001)、『夢の泪』(2003)、『夢の痂(かさぶた)』(2006)の三つで、これは新国立劇場で行われた初演をすべて見ている。劇作家としても、メッセージ的にも、井上ひさしの最高の達成ではないか。ちょうどその間に『兄おとうと』(2003、吉野作造と吉野信次)、『円生と志ん生』(2005)が書かれているが、題材的に幅広いように見えるが、皆「戦争にどう向き合うか」がテーマだ。

 井上ひさし文学が一番「戦争責任」を深く追求していた時期に、林芙美子も書かれなければならなかった。それは「庶民はいかに戦争を生きたか」が作家にとって最も深刻な関心事だったからだろう。その結果、どうも都合良く「反省」して見せている芙美子像なんじゃないかと思った。いっぱい読んだ林芙美子文学の感触とは少し違う気がしたのである。それは違って良いんだけど、22年経つとこの芙美子像も少し昔風になったかもしれない。世界は全く変わってしまい、「責任」とか深く考えることも少なくなった。作者死後に起こった東日本大震災やコロナ禍の衝撃が大きかったのである。

 ということで、この劇は非常によく出来ていて、いろいろと感じ考えさせる優れた劇で、作者の劇作の楽しさ、素晴らしさを十分に味わえる。また大竹しのぶの演技も見ておくべきだろう。だが林芙美子をドラマ化したという意味では、少し昔っぽいかなとも思った次第。1万円を超えるので、なかなかこまつ座を毎回見るのも大変だ。まあ、大竹しのぶは1年に1回は見たいけど。

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高階秀爾、楳図かずお、中川李枝子、大谷恭子他ー2024年10月の訃報②

2024年11月06日 22時04分23秒 | 追悼

 2024年10月の訃報2回目。2回目は著作がある人を中心に、その他の人、海外の訃報を合わせて。まず、美術評論家の高階秀爾(たかしな・しゅうじ)が10月17日死去、92歳。東大名誉教授、国立西洋美術館館長(92~2000)、大原美術館長(2002~23)など、数多くの役職を務めた。文化勲章受章。というエラい人で著作もいっぱいあるんんだけど、読んだことがない。そもそも美術評論は読まないけど、朝日新聞に時々掲載されていた「美の季想」というエッセイも難しくてよく理解出来なかった。1967年に江藤淳と遠山一行と創刊した「季刊芸術」も、ちょっと自分と違うなと思わせたかも。岩波新書の『名画を見る眼』が昨年カラー化されてベストセラーになってるから、これはいずれ読みたいと思ってる。69年に出て、合計82万部出たという。

(高階秀爾)

 漫画家の楳図(うめず)かずおが10月28日死去、88歳。死因は胃がんだった。この人も書くことがなくて困ってしまう。一つも読んだことがないのである。そもそも漫画をそんなに読まないが、ある程度読んでる人もいる。僕が大人になってから活躍した人ならともかく、名前だけは子どもの頃から知っていた。でも読んでないのは「恐怖マンガ」だったからだと思う。実は僕は映画でも小説でもホラー系はほとんど知らないのである。(ものすごく怖がりなんじゃなくて、何が怖いのか感じないことが多いので。)紹介によれば、代表作は『漂流教室』『まことちゃん』『わたしは真悟』などで、ギャグ漫画『まことちゃん』は「グワシ」「なのら」などの流行語を生んだ。そう言われると思い出すような。2007年に吉祥寺の自宅を改装し赤白ボーダーラインを入れた時に、近隣住民から景観を乱すと訴えられた。(訴えは棄却。)2018年にフランス・アングレーム国際漫画賞遺産賞受賞。

(楳図かずお)

 児童文学作家の中川李枝子が10月14日死去、89歳。『ぐりとぐら』(1963)の著者である。これは僕も持っている。もともと都内の保育園の保育士で、仕事の傍ら創作を開始、1962年に『いやいやえん』でデビューした。絵は妹の大村百合子(後、山脇姓)が担当し、『ぐりとぐら』シリーズは現在までに250刷、571万部のベストセラーになっているという。また『となりのトトロ』の主題歌「さんぽ」の歌詞も手掛けている。2013年に姉妹で菊池寛賞受賞。

(中川李枝子)

 弁護士の大谷恭子が10月11日死去、74歳。多分社会的に重要、あるいは大きく報じられた人を先に書いたけど、一番思い出にあって驚いたのはこの人の訃報だった。78年に弁護士登録して、多くの難事件を弁護した。連合赤軍事件永田洋子(ひろこ)や、「連続射殺魔事件」の永山則夫などである。永山則夫の弁護人を務めるのは本当に大変だったと思う。1999年に『死刑事件弁護人ー永山則夫とともに』という本を出していて、97年の死刑執行後に書かれた必読本。永山に関しては『それでも彼を死刑にしますかー網走からペルーへ永山則夫の遙かなる旅』も書いている。永山子ども基金の代表を長く務めて、ペルーの働く子どもたちへの支援を行った。2016年には虐待や性暴力で苦しむ若い女性を支援する『若草プロジェクト』を発足させ代表理事を務めた。他の著書に『共生の法律学』『共生社会のリーガルベース:差別と闘う現場から』などがある。

(大谷恭子)

 自然地理学者で、三重大学名誉教授の目崎茂和が10月15日死去、78歳。大谷弁護士を知っていても、この目崎教授は知らない人が多いと思う。サンゴ礁研究の第一人者で、世界自然保護基金ジャパン評議員を務めるなど、自然保護運動に関わった。特に沖縄県石垣島の新空港建設で白保地区のサンゴ礁保護運動で重要な役割を果たした。88年の『石垣島・白保サンゴの海』でJCJ奨励賞を受けた。80年代に白保サンゴ礁保護の集会に参加した人は、目崎氏の明快な講演に目を開かれたと思う。辺野古への基地移転問題でも現地調査をした。なお目崎氏は浅草出身で、都立白鴎高校卒業。同窓だったと初めて知った。

(目崎茂和)

・体操女子メキシコ五輪代表で、体操指導者の塚原千恵子が9月1日死去、77歳。夫は金メダル5個の塚原光男、アテネ五輪団体優勝の塚原直也は息子。多くの選手を育成したが、18年には塚原夫妻のパワハラが問題となった(認められないという結論が出た)。社会思想史学者で、国立歴史民俗博物館名誉教授の安田常雄が9月12日死去、78歳。『日本ファシズムと民衆運動』など。

・再審無罪となった免田栄さんの妻、免田玉枝が18日死去、88歳。東宝映画で着ぐるみなどの造形を担当した美術造形家、村瀬継蔵が14日死去、89歳。『モスラ』『キングコング対ゴジラ』などの造形助手として制作に関わった。大映の『大怪獣ガメラ』『大魔神』シリーズなども手掛け、東宝から独立して会社を作って東アジアでも活躍。「仮面ライダー」なども手掛けた。2024年日本アカデミー賞特別賞受賞。絵本作家のせなけいこが23日死去、92歳。『ねないこ だれだ』(1969)で知られた。

東京電力元会長勝俣恒久が21日死去、84歳。2002年に東電社長、08年に会長を務めた。原発不祥事で退任した前任者から社長を引き継ぎ、柏崎刈羽原発の不祥事で社長を退き会長となった。そして会長時代に福島第一原発事故が起きたのである。16年に業務上過失致死傷で強制起訴されたが、23年1月に東京高裁で無罪判決を受け、指定弁護士による上告中だった。また株主代表訴訟では旧経営陣4人に13兆円の支払いを命じる判決が東京地裁で22年に出て控訴中。

 中国の元全人代常務委員長、呉邦国が8日死去、83歳。2003年から13年に全人代常務委員長を務め、共産党内で胡錦濤政権で序列2位だった。またインドの大手財閥タタ・グループの持ち株会社タタ・サンズの名誉会長、ラタン・タタが9日死去、86歳。拡大路線を取り、タタ・グループをインドだけでない世界的企業に押し上げた。元スコットランド自治政府首相のアレックス・サモンドが12日死去、69歳。2007年に首相となり、14年の独立をめぐる住民投票を実現したが、否決の結果辞任した。トルコの宗教家フェトフッラー・ギュレンが20日死去、83歳。イスラム教道徳を基礎にして「寛容」を説く「ギュレン運動」の指導者。かつてはエルドアン大統領の支持母体だったが、エルドアンの強権化にともない関係が悪化した。2016年のクーデタ未遂では背後にギュレン運動があるとして激しく対立した。事件当時病気治療を目的にアメリカに滞在中で、アメリカに引き渡しを求めたがアメリカで死去。

(呉邦国)(ラタン・タタ)(ギュレン師)

・映画監督のポール・モリセイが28日死去、90歳。『悪魔のはらわた』『処女の生血』の監督である。

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西田敏行、大山のぶ代、旭國、白井佳夫他ー2024年10月の訃報①

2024年11月05日 21時46分30秒 | 追悼

 2024年10月の訃報特集1回目。何とか一回で思ったけど、挙げていくと案外多くの人が亡くなっていた。まず芸能関係やテレビで見聞きした人を取り上げたい。俳優の西田敏行が10月17日に亡くなった。76歳。死因は「虚血性心疾患」と発表された。当日も仕事が入っていたので、本人にも全く予期せぬ死だった。この日は新潟県の栃尾又温泉に出掛けていた日で、多分テレビで大きく報道されたんだろうけど、全く見てない。もとは舞台出身で、1968年に青年座俳優養成所に入り、71年の『写楽考』で早くも主役を務めた。その当時は中高生で、もちろん全然知らない。では、いつ名前と顔を覚えたのか、全く記憶にないのである。

(西田敏行)

 テレビでは『池中玄大80キロ』や数多くの大河ドラマ、舞台では森繁久彌を継ぎ『屋根の上のバイオリン弾き』、映画では『釣りバカ日誌』シリーズなど数多くの出演歴があって、誰もが何かを見た記憶があるだろう。僕にとっては山田洋次監督『学校』の夜間中学の黒井先生役が一番思い出にある。製作スタッフはよほど念入りに取材したんだろうが、職員室のムードが実に本当らしかった。西田敏行もホンモノの教員っぽかった。とても良く出来た映画なので、僕は定時制高校に勤務していたとき、毎年のようにビデオを見せていたものだ。夜間中学と定時制高校は違うけれども、共通点も多い。生徒も食い入るように見ていた。だから西田敏行と言えば、まずはこの映画を思い出すのである。養護学校を舞台にした『学校Ⅱ』でも主演しているが、やはり第1作。

(映画『学校』)

 西田敏行は1947年に福島県郡山市に生まれた。そのことを強く意識したのは2011年のことだ。福島第一原発の事故に強く怒り、風評被害に抗議し、福島のために多くのテレビに出て発言した。紅白歌合戦にも21年ぶりに出演し、「あの街に生まれて」という曲を歌ったが涙なくして聴けぬ熱唱。大ヒットした「もしもピアノが弾けたなら」も、それまでは不器用な男のラブソングだと思っていたけど、今は大津波や原発事故で苦難の境遇にある人の叫びに聞こえてしまうのである。

 声優の大山のぶ代が9月29日に死去した(10月5日公表)。90歳。1979年から2005年まで『ドラえもん』のドラえもんの声を担当したことで知られる。俳優座養成所7期生で、当初は俳優を目指していたが、次第に声の特質を買われて初期テレビ放送の声優に採用されることが多くなった。それが『名犬ラッシー』とか人形劇『ブーフーウー』って言うんだから、僕は幼い頃に聞いていたはずである。夫は初代「たいそうのおにいさん」の砂川啓介。晩年はアルツハイマー病を公表していた。

(大山のぶ代)

 大相撲の元大関旭國、引退後は大島親方として部屋を起こした太田武雄が10月22日死去、77歳。芸能人じゃないけど、テレビで見ていたという意味で、ここで。174㎝、118㎏の小兵力士ながら、多彩な技を繰り出し、技能賞6回、敢闘賞1回受賞。「ピラニア」と呼ばれ、食いついたら離さない取り口で知られた。当時最高齢の28歳で大関に昇進し、21場所務めた。しかし、優勝が一度もないのは、当時の横綱輪島、北の湖に弱かったのである。1977年9月場所など、14勝1敗の好成績を挙げたが、全勝した横綱北の湖にただ1敗して準優勝に留まった。僕はこの技巧派大関が好きで応援していたんだけど、残念。親方としては、モンゴル人力士を受け入れたことで知られ、最初に来た中の一人旭天鵬が太田姓を名乗って日本国籍を取得し、大島部屋を継いでいる。

(旭國=前大島親方)

 映画評論家の白井佳夫が10月5日死去、92歳。この人は12チャンネル(テレ東)にあった「日本映画名作劇場」の解説を担当して「日本映画の本当の面白さをご存じですか?」という決めぜりふで知られていた。その前にキネマ旬報編集長を1968年から務めていて、高校時代からキネ旬を読んでいたのでよく知っていた。その時代のキネ旬は様々な筆者が登場して非常に面白かった。(前月書いた渡辺武信の日活アクション論も長期連載されていた。)ところが総会屋のオーナーが竹中労の連載などを問題視して、1977年に白井佳夫編集長解任事件が起こった。抗議の支援運動が起こり、北の丸公園のサイエンスホールで行われた集会に僕も参加した思い出がある。そんなこともあったなと思いだした訃報だった。

(白井佳夫)

 ファッション評論家で知られた「ピーコ」(杉浦克昭)が9月3日に死去していた。双子の弟「おすぎ」とともに、同性愛を公表した「おすぎとピーコ」としてテレビで幅広く活躍した。70年代、80年代には多くのテレビ番組に出演し、辛口ファッション批評などをしていたので、多くの人の思い出にあると思う。晩年には認知症などの報道があり、なかなか大変だったようだ。

(ピーコ)

 料理研究家の服部幸應が4日死去、78歳。服部栄養専門学校の校長を親から引き継ぎ、1981年服部学園理事長にも就任。「料理の鉄人」など多くのテレビ番組に出演、料理界のご意見番的存在だった。「食育」の重要性も説き、2005年の食育基本法制定に尽力した。フランスのレジオンドヌール勲章の他内外の受賞多数。

(服部幸應)

・俳優の稲垣美穂子が8月6日に死去していた。86歳。50年代日活映画を見ると、主役じゃないけど2番手みたいな格で出ている若い女優がいて、誰だろうと思ったことがある。それが稲垣美穂子という人だとやがて知ったけど、その後を知らなかった。61年に俳優座に移って本格的な舞台女優を目指し、その後1977年には「劇団目覚時計」を主宰して、親子の絆などをテーマにした家族向けミュージカルを全国で公演したという。60年代から90年代に掛けて多くのテレビも出演していた。

・ジャズドラマーの猪俣猛が4日死去、88歳。日本を代表するドラマーとして活躍し、若手育成にも尽力した。

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築地本願寺をめぐるー築地散歩②

2024年11月04日 21時46分31秒 | 東京関東散歩

 築地という地名は読んで字の如く「土地を築く」という意味で、まあ埋め立て地のことである。時代は江戸初期、明暦の大火で焼失した浅草の本願寺の再建場所として、幕府から与えられた代替地だった。佃島の門徒が造成を担当したという。その後寺町として発展し、また大名屋敷も多かった。ということで、築地と言えば成り立ちからしても本願寺なのである。なお、今も浅草(地下鉄田原町近く)に本願寺があって、浅草浄苑という霊園のCMで知られる。あっちは東本願寺で、築地は西本願寺。 

   (歩道橋の上から)

 地下鉄築地駅を出れば、もう目の前に築地本願寺の偉容が広がる。なかなか写真では魅力が伝えられない。そのぐらい独特で、忘れがたい姿をしている。何枚写真を撮ってもよく撮れたという満足感がない。今は外国人客が多く、人が入らないように撮るのが難しいということもある。階段を登って中を見ることが可能。無料のお寺では珍しいが、写真を撮ることは憚られる雰囲気。いつも法会を行っていて、その日に申し込むことも出来る。お坊さんに様々なことを相談出来る「僧談」申し込みコーナーもある。ネットで写真を探すと、以下のような感じ。椅子席である。ニコライ堂の内部見学は有料だから、ここは貴重。

  

 東京の建造物は大体関東大震災で焼失したところが多い。築地本願寺もその一つで、現在の本堂は1931年に竣工して、1934年に完成した。まだ100年は経っていないが、2014年に重要文化財に指定されている。日本の寺院と言えば、どうしても中国風を思い浮かべて、それが通念になっている。でも築地本願寺だけが違うのである。これは「古代インド風」なのである。設計したのは伊東忠太で、当時は東京帝大名誉教授だった。本願寺派法主で探検家としても有名な大谷光瑞と知り合いで依頼された。

   (重要文化財指定)

 伊東忠太(1867~1954)は建築界で初めて文化勲章を受けた人で、現時点で重要文化財に5つが指定されている。他は橿原神宮平安神宮本願寺伝道院(建築当時は真宗信徒生命保険本館)、伊賀上野にある芭蕉記念の「俳聖殿」。明治神宮の共同設計者でもあり、武田神社、弥彦神社、上杉神社、靖国神社遊就館などの設計もしていて、近代神社建築の第一人者だった。現存しない台湾神宮、朝鮮神宮、樺太神社なども設計していて、まさに「帝国の建築家」というべき存在である。

 築地本願寺は当時としては珍しい鉄筋コンクリート建築で、インドの仏塔(ストゥーパ)風の塔屋を持っている。仏教は本来インド発祥だから、外観は古代インド風を取り入れたわけである。当初は異様だったと思うが、今となってはなじんでいる。歴史的な観光寺院を別にすれば、見ていて一番見ごたえがある寺じゃないか。しかも、この寺は今も多くの人を受け入れている。2017年にはインフォメーションセンターと合同墓が作られた。前者にはカフェが併設され、いつも賑わっている。あんまり並んでるので、まだ入ってないけど、実は本堂右手奥にある「伝道会館」でも食事が出来る。オシャレ度では劣るが、こっちで十分。

(カフェ)(第一伝道会館)

 境内にはいろんな碑があるが、あまり知られてない。下の写真で順番に、都旧跡の「土生玄碩」(はぶ・げんせき)の墓で、19世紀前半の眼科医。国禁を侵して開瞳術を施した西洋眼科の始祖だという。次が「酒井抱一」(1761~1829)の墓。姫路藩酒井家の次男に生まれ、画家・俳人として知られた人である。江戸琳派の祖とされる。次は九条武子の碑。大谷家に生まれ、九条侯爵家に嫁いだ。歌人として知られ、また「大正三美人」とうたわれた。慈善活動でも知られ、仏教婦人会を組織した。震災孤児の支援や築地本願寺再建に尽力したが、完成を見ずに1928年に亡くなった。最後が親鸞聖人の像。

   

 碑はもっと多いんだけど、余り載せても大変だから省略する。つまり史蹟指定などはない碑である。築地本願寺はプロがじっくり写真を撮れば、とても面白いところだと思う。今回何度か行ったけど(見つからない碑があって、探し回ったため)、一番最初に行った晴れた日の夕方の本堂を最後に数枚載せておく。

   

 荘厳な感じがうかがえる。ものすごくたくさん来ている外国人観光客は何を感じるんだろうか。ここは「日本美」じゃないんだけど、理解出来ているんかな。築地場外市場の方も行ったけど、時間もなくてちゃんと見なかった。人が多すぎるのもあるし、マーケットなら「アメ横」の方が近くていいなと思った。それにしても、聖路加周辺の碑を探し歩き、本願寺でお茶して場外市場へ回るというのは、東京の半日散歩としては充実したコースなんじゃないかと思った。

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築地小劇場跡や聖路加病院周辺、碑がいっぱいの町ー築地散歩①

2024年11月03日 20時41分11秒 | 東京関東散歩

 暑さが和らぎ、まだ寒くもない。そんな季節は今や日本にごく少ない。じゃ町を散歩しよう。まず「築地」(つきじ)である。銀座の隣で、自分の家からは地下鉄で一本。でも今まで一度もちゃんと行ったことがない。この前「出川・一茂・ホラン フシギの会」というテレビ番組で築地場外市場を取り上げていた。東京の有名地らしいから、東京人はよく行ってると思われるかも知れないが、一度も行ったことがない。地下鉄は築地、東銀座、銀座、日比谷と続く。そっちは若い頃から何千回と下りてるはずだ。

 築地に行った理由は、実は「築地小劇場」である。1924年に開設された「新劇」用の劇場である。今年がちょうど100周年になり、その意義を振り返る企画が幾つもある。1945年に空襲で焼けて、その跡地には記念の碑が作られている。ところがその碑が危ないと2月に東京新聞が報じた。碑がある土地が再開発され築地駅に直結する商業ビルが建設予定だという。その後碑がどうなるかは未定だという話だった。(その後、保存されることが決まったが、いったん無くなる。)

    

 ちょうど100年だし、今のうちに見ておきたいと思ったわけである。場所は築地本願寺があるのと反対側で、信号を曲がったところに見えている。信号は幾つかあるが、住居表示地図にも出てるし、割とわかりやすいと思う。小山内薫土方与志らが創立メンバーで、広島原爆で亡くなった丸山定夫や戦後に『夕鶴』で知られる山本安英らが活躍した。単に演劇史というだけでなく、近代の社会運動史、文化史全般に大きな影響を与えた。左翼演劇のメッカとも言える劇場で、築地署で虐殺された小林多喜二の労農葬はここで行われた。ところで、「旧劇」の中心地、歌舞伎座や新橋演舞場に徒歩5分ほどと非常に近かったのに驚いた。

 築地ほど碑が多い町は珍しい。築地小劇場ばかりではなく、ものすごくたくさんの碑が立っている。その多くは「聖路加病院」の周囲に集まっている。有名な病院で、つい「せーろか」と読んでる人が多いと思うが、読み方は正式には「せいルカ」である。築地駅から病院方向へ行く道は「聖ルカ通り」になっている。以前大病院に直接行っても医療費が変わらなかった時代に、母親がよく聖路加病院まで行ってた。1993年に新館が出来、94年に出来たレストランなども入った聖路加ガーデンがお気に入りだった。

  (1933年再建の旧館)

 幕末以来、居留地だった築地にはキリスト教系の医療施設が作られた。「聖路加」は聖公会系で、立教大学創設者として知られるウィリアムズらが来日し、教育や医療を実践したのである。きちんと聖路加病院が開設されたのは、1901年のことで、ウィリアムズの後任マキム主教の要請によって、来日したルドルフ・トイスラーが開設したのである。トイスラーが1934年に亡くなるまで暮らした家は「トイスラー記念館」(中央区の区民有形文化財指定)として現存・公開されている。最初の建物は関東大震災で壊滅し、1933年に再建され建物が旧館として今も使われている。チャペルとともに東京都選定歴史的建造物に指定されている。

   (トイスラー記念館)

 築地駅から聖路加病院方面に行き、築地川公園を過ぎると、聖路加国際大学が見えてくる。その向こうが旧館病院、トイスラー記念館がある。大学周辺にいろんな大学の創設碑が並んでいる。1869年(明治2年)から1899年まで、築地は外国人居留地になっていた。つまり外国人は築地以外には住めなかった。そのため外国人が日本人に教育するには、築地に学校を作るしかなかった。そのためキリスト教系の立教学院立教女学院を初め、青山学院明治学院女子学院雙葉学園などの創設の地となっている。

(立教学院)(青山学院)(立教女学院)(女子学院)

 それらの学校の前に福沢諭吉の慶應義塾がこの近くに創設された。1858年の安政年間のことで、まだ慶応義塾とは言わないが。中津藩中屋敷が聖路加のあたりだったらしい。またその中津藩屋敷で1771年に前野良沢がオランダの解剖書を初めて読んだという。そこで聖路加国際大学の敷地の前に「慶応義塾大学発祥地」と「蘭学事始」を合わせた「日本近代文化事始の地」が立っているのである。僕は立教大卒だが、築地の創設碑は初めて見た。慶応や青学の卒業生も見ている人は少ないと思う。

   (日本近代文化事始の地)

 碑は他にもいっぱいあって、聖路加国際大学前に「浅野内匠頭屋敷跡」の碑がある。何とまあ、ここにあったのか。そこから左に進んで「居留地通り」には「芥川龍之介生誕の地」の碑が車道側に立っている。そこから少し行って明石小前に「居留地跡」という碑がある。もちろん築地全域が居留地だったんだろうから、単に碑があったところだけが居留地じゃない。これらの碑は小さな地域に集中しているけど、あちこち点在している。ただブラブラ歩いているだけでは見つからない。ネットで調べる他、中央区観光協会の作っている地図が非常に役立つ。Webでダウンロードも可能。案内所もあちこちにあって配布している。

(浅野内匠頭屋敷跡)(芥川龍之介生誕の地)(居留地跡の碑)

 明石小からすぐのところに「カトリック築地教会」がある。地名的には「明石」になるが、1874年に建てられた日本初のカトリック教会だった。煉瓦作りの本格建築だったというが、関東大震災で倒壊。すぐに復興に取り組み、1927年に完成したのが今の建物。「東京都選定歴史的建造物」になっている。築地の宗教施設と言えば、もちろんキリスト教会ではなく、築地本願寺だが次回に。

 (カトリック築地教会)

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文学座公演『摂』を見るー朝倉摂の生涯、自由を求めた一生

2024年11月02日 20時12分08秒 | 演劇

 文学座公演『』を見に行った。紀伊國屋ホール(6日まで)。瀬戸口郁作、西川信廣演出。摂というのは朝倉摂のことで、彫刻家朝倉文夫の長女として生まれた。舞台美術家として活躍し、僕もその素晴らしい舞台美術に驚嘆したことが何度もある。しかし、前半生は日本画家として活動していて、その様子は2022年に行われた『「生誕100年朝倉摂」展を見るー日本画から舞台美術ま』』に書いた。この朝倉摂という人に関心があって、どう演劇化されるのか是非見てみたいと思ったのである。

 父の朝倉文夫は早稲田大学にある大隈重信像などの作者で、本当に有名な彫刻家だった。台東区谷中に居を構え、その家は今「朝倉彫塑館」として公開されている。昔行ったことがあるが、よくぞ空襲で焼けずに残ったものだ。その庭園も2008年に国の名勝に指定されている。娘が二人いて、長女の朝倉摂(1923~2014)は舞台美術家、次女の朝倉響子(1925~2016)は父を継いで彫刻家となった。この芸術家姉妹のことは生前から有名だったが、朝倉摂の人生はほとんど知られてこなかった。

 舞台は2幕で、前半で戦時中、後半で戦後を描いている。上演時間は休憩を入れて3時間ほど。舞台上には2階建ての部屋が広がり、それは大体朝倉家という設定。戦後になると、摂が自立するので摂の部屋や旅先の常磐炭鉱などの設定にもなるが、朝倉家で進行する場面が多い。最初から最後まで、自由を求める摂(荘田由紀)のエネルギーに圧倒される舞台だった。実は2年前の展覧会まで、前半生の日本画家時代はほとんど知られなかった。(本人も封印していた。)父の朝倉文夫は「トンデモ親父」で、学校教育を否定して二人の娘を学校に行かせず家庭教師を付けた。「偉大な父」を持つ苦労が朝倉姉妹には付きまとったのである

(朝倉摂)

 子ども時代の摂は冒頭から自由奔放に生きていて、妹の響子が取りなす日々。朝倉家には彫刻を学びに来る若者たちが常にいて、大所帯だった。そんな中で摂だけは父の後を追わずに、美人画で有名な伊東深水に師事して日本画に進んだ。時は戦時中で、何より自由を求める摂には納得出来ないことが多い。戦争が激しくなると、金属の供出が始まり彫刻も出来なくなってしまう。摂の日本画も戦時を生きる女性像を描いていた。(舞台上部で当時の摂の絵が映し出される。)時に父と議論するが、山の頂上を目指す時に道はいくつもあり、登り方は自分が決めると宣言する。ほとんどケンカ腰で、自分のことを「ボク」と語る摂の姿がスゴイ。

(朝倉文夫)

 やがて摂は日本画の世界の窮屈さ、旧弊に抗うようになる。戦後はシベリア帰りの彫刻家佐藤忠良(俳優の佐藤オリエの父)の影響もあり、共産党員になる。日本画の技法で労働者を描くが、新聞では酷評される。常磐炭鉱を訪ねて炭坑にも入るが、現実の労働者からは羨まれる存在だった。「50年代」は忘れられているが、この舞台は「インターナショナル」が響き渡り、反戦に燃える摂の戦後史を丁寧に描いている。だがそんな摂たちが全力を挙げた60年安保闘争後に、党とのあつれきが大きくなって除名されるに至った。そんな頃に舞台美術に取り組むようになった。折しも高齢になった父に呼び出され、芸術を語り合うが…。

(荘田由紀=摂役)

 僕は知らなかったのだが、摂の娘が文学座の女優富沢亜古で、この舞台では摂の母、つまり実祖母を演じている。最後は本人役にもなる。摂役に荘田由紀、朝倉文夫役に原康義、摂の叔母役に新橋耐子といった配役。朝倉文夫役の原康義が迫力ある演技で娘たちと渡り合うが、何と言っても主演の荘田由紀が素晴らしかった。この公演は「築地小劇場開場100周年」をうたっている。文学座は社会的な演劇よりも芸術的な演劇という趣旨で結成されたが、この舞台では珍しく戦争反対や女性解放の意義を高く語っている。それもこれも朝倉摂の生き方が時代を突き抜けていたのである。摂、響子姉妹の話は朝ドラに格好な題材なんじゃないだろうか。

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