音楽の喜び フルートとともに

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朝から停電の余波

2024-08-16 21:00:00 | 古典
木曜日は京都の富久田晴彦先生のレッスンてした。
ところか
朝から「停電で京阪京橋から淀屋橋不通。」のニュース。
「京橋から向こうだから大丈夫。」
と、樟葉まで送ってもらってホームにのぼったら…。
「特急は運休、準急のみ運行します。」
「えっ!」
それもいつ来るかわかりません。
5分待ってこれはいけないと富久田先生に電話。
「電車がいつ来るかわからないので、先生この後、ご用事があったらキャンセルさせていただいたほうがいいかと思って、いかがでしょうか?」
すると「今日は何も無いから待っていますよ。」
「すみません〜!」というわけで、樟葉で電車が来るのを待っていると

大阪方面から樟葉止まりの電車が来てホームがいっぱいに…。


ようやく来た電車、名前は準急ですが樟葉からは各駅。人もいっぱい。
やっと京都市バスに乗り

出町柳大橋。

11:30 約束の時間より30分遅れで着きました。

京阪電車のせいではなく、関西電力の守口、大阪方面の停電のせいでした。24万戸が停電したとか…。

モーツァルトの頃は、電気と言えば雷位でした。電車もなく、停電もありません。

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

は、1787年12月7日、念願の宮廷作曲家になることができました。

グルック(1714-87)の死で空席となった宮廷作曲家のポストが回ってきたのでした。  

宮廷内に反対する者たちの工作があった中でヨーゼフ2世


一人の推薦を受け、待望の職にありつけたのでした。が、前任者の給料は2,000フロリンだったのに対して、半分以下の800フロリンに過ぎませんでした。

さらに、後任者となるボヘミア生まれのコゼルフ(Leopold Anton Kozeluch 1752-1818)のときには、再び2,000フロリンとなりました。

モーツァルトの場合、宮廷作曲家とはいっても、その仕事は毎年冬期間の舞踏会でのダンス音楽を作ることでした。

「音楽の分野での稀なる天才が外国で勤め口や給料を求める必要が起らないような」称号に過ぎなかったのです。(ヴェンツェル)

ちょうどその頃、プラハからオペラ作曲の依頼を受けたハイドンがその申し出を断り、依頼すべき相手として

「ドン・ジョヴァンニ」を書き上げたモーツァルトこそがふさわしいと推薦しました。

「プラハはこの貴重な人物をしっかりつかまえておくべきです。 それだけの報酬を払うべきです。 それがないとこの偉大な天才の運命はあわれなものになります。 後世に対しても努力を奨励することになりません。 あのかけがえのないモーツァルトがまだどこの帝室、王室にも雇われずにいるとは私には腹立たしいことです。」
[ドイッチュ&アイブル] p.211

しかし、モーツァルトが手にいれた定職はこのようなものでした。

また、ウィーンの聴衆がモーツァルトから離れ、彼の個人演奏会は開かれなくなり、やがてモーツァルトはフリーメーソンの同志プフベルクに借金を重ねるようになっていきます。

モーツァルトはこのコントルダンス K.534 を一連の舞曲の第一作として、書きました。

その後、その職のために5つのメヌエット、10のコントルダンス、9つのドイツ舞曲を作ることになります。

自作目録に日付とともに標題「雷雨 Das Donnerwetter」と書かれました。
その自筆譜は行方不明となっています。 また、ピアノ編曲版も2種類残されていますが、その自筆譜もありませんでした。
が、近年総譜が発見されました。

この曲の初版はモーツァルトの死後1798年にアルタリアから出版されました。それはピアノ譜でした

コントルダンスKV.534 「雷雨 Das Donnerwetter」