19日、枚方警察に免許の更新に行きました。
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1709年梅毒の水銀治療
「1840年5⽉27⽇ニコロ・パガニーニの魂は、この家を後にして永遠の調和の源へと繋がり、魅⼒的な⾳⾊の⼒強い弦は横たわるが、ニースの⼼地よい⾵の中でその⾄⾼の優しさは今もなお⽣きている。」と石板に書かれています。
アルブレヒト・デュラーの「梅毒の男」
優良ドライバーだったのに、駐禁で一般ドライバーになりました。
後日講習にいかなくてはなりません…残念です。
自業自得です。気を付けましょう。
久しぶりの枚方市駅前。
カリヨンというオブジェが建っています。1997年市政50周年の時、平和のシンボルとして建てられたそうです。
あまり気にしてませんが、時報にいろいろな曲が鳴ります。テレビで取り上げられたこともあります。音が狂っていて何の曲かわからないとか。
どうなったのか?
残念ながら、聴かずに帰りました。
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寄らずに帰りましたが…時間があれば行ってみたかった。
煩悩と欲のかたまりです。
ニコロ パガニーニ(1782-1840年)
ジェノヴァ共和国ジェノヴァ生まれ、サルデーニャ王国ニース没
と言えば、ヴァイオリンの名手。あまりにもうますぎて、「悪魔に魂を売り渡した。」などと囁かれました。
5歳でヴァイオリンを初めて13歳で学ぶべきものが無くなったと言われています。
彼のテクニックはほとんど父親が教えましたが、少しでも練習をサボると暴力をふるわれたり、食事も与えないという過酷なものでした。
1820年に入ると慢性の咳など体調不良をがあり、『毒素を抜くため』に下剤を飲み始めます。
1823年には梅毒と診断されて水銀療法とアヘンの投与が開始されました。
さらに1828年頃には結核と診断され、甘汞(塩化第一水銀)を飲み続け、さらに下剤を飲み続けました。
その後、水銀中毒が進行して次第にヴァイオリンを弾くことができなくなり、1834年頃についに引退します。
1709年梅毒の水銀治療
そして1840年に水銀中毒による上気管支炎、ネフローゼ症候群、慢性腎不全によりニースで死去。
「1840年5⽉27⽇ニコロ・パガニーニの魂は、この家を後にして永遠の調和の源へと繋がり、魅⼒的な⾳⾊の⼒強い弦は横たわるが、ニースの⼼地よい⾵の中でその⾄⾼の優しさは今もなお⽣きている。」と石板に書かれています。
一般に死因は喉頭結核もしくは喉頭癌といわれていますが、主治医の診断から結核ではなかったことがはっきりとしています。記録に残る症状(歯肉炎、振戦、視野狭窄など)から、水銀中毒だったことは明らかになっています。
アルブレヒト・デュラーの「梅毒の男」
Albrecht Dürer 1496
Etching of a Person with Syphilis
悪魔と取引したという噂が原因で埋葬を拒否され、遺体は防腐処理を施されて各地を転々とし、改葬を繰り返した末に1876年にパルマの共同墓地にようやく安置されました。
「ヴァイオリン協奏曲第2番」について、パガニーニは1826年12月12付の手紙に「クリスマスの後にサン・カルロ劇場で演奏会を行ない、ナポリではまだ弾いたことがないヴァイオリン協奏曲第1番と、鐘のオブリガートがつく第2番を演奏するつもりです」と書いています。
第3楽章が「鐘のロンド」でラ・カンパネッラと呼ばれています。
また、リストはこの曲の終楽章を後に、変奏曲形式によるピアノ曲に編曲し、後の「パガニーニによる大練習曲」と呼ばれるものを1838年に作り上げ(1851年に大改訂)、その第3番が有名な「ラ・カンパネッラ」で、広く親しまれています。
佐賀県の海苔漁師が一念発起してピアノでラ ンナパネラを弾きたい、と思うようになりました。フジコ ヘミングのピアノを聞いたのがきっかけでした。かなり上達したら、テレビ局から取材がくるようになりました。そして、その男のことが映画化されることになりました。今、その映画のロケ期間です。
↓
https://la-campanella.net/
https://www.pref.saga.lg.jp/kiji003100322/index.html
人の持つ夢の力を体現差れていますね!
私も非常に希望をもらいました。
映画化されるとのこと、楽しみです💖