月曜日は渡辺橋近くのサロン ド プリンシパルでフルートアンサンブルでした。
ルーダル カルテです。
イギリスのジョージ ルーダル(1781〜1871年)が1820年頃軍隊を辞め、フルートを教え始めました。
1815年アン・デア・ウィーン劇場
で上演しました。しかし、劇は翌日上演されただけで打ち切られてしまいました。
榎田先生が木管フルートを持って来られました。
ルーダル カルテです。
オープンG♯
試奏しましたが、頭がややこしくなりました。でも、G♯、小指を押えて吹くと楽器が安定していていい感じです。
鳴るポイントが狭いですが、当たるとふくよかないい音がしました。
イギリスのジョージ ルーダル(1781〜1871年)が1820年頃軍隊を辞め、フルートを教え始めました。
その頃、自分の名前のついた楽器を弟子たちに与え始めました。
しかしこれはクレメンツ インに住んでいたフルート制作者ウィリスによるものでした。
1821年エディンバラのジョン ミッチェル ローズとパートナーシップを組み、1850年代にはリチャード カルテが加わります。
テオパルド ベームの協力を得て、英国特許を取り、彼のアイデアやデザインを取り入れました。
統廃合を繰り返し1955年Boosey & Hawkes Ltd に買収されました。
11月5日フルートアンサンブル エスカル発表会
練習した曲は「ウィーンの森の物語」、「ロザムンデ」他にも数曲。
練習した「ロザムンデ」とは、
フランツ シューベルト(1797〜1828年)神聖ローマ帝国オーストリア大公国リヒテンタール生まれ、オーストリア帝ベルリン生まれ、国ウィーン没
が、1823年作曲した劇付随音楽「キプロスの女王ロザムンデ」op26 D797の「第3幕の間奏曲」ことです。
「ロザムンデ」はヘルミーネ フォン シェジー(1783ー1856年)ベルリン生まれ、スイス ジュネーブ没
が、台本を書いたウェーバーの歌劇「オイリアンテ」が、10月25日に行われた初演されました。
この上演が不評だったため、急遽名誉挽回のため「ロザムンデ」を書きあげ、音楽を依頼されたのが、シューベルトです。
12月20日の初演までの2ヶ月で10曲からなる劇付随音楽を完成させました。
ウィーンのアン デア ウィーン劇場
1815年アン・デア・ウィーン劇場
で上演しました。しかし、劇は翌日上演されただけで打ち切られてしまいました。
主役の女優が下手だったことや。ウェーバーとシューベルトが「オイリアンテ」のことで仲違いをしたために、ウェーバーの支持者たちが可能な限り上演を妨害したからだと言われています。
序曲は間に合わず、前年に作曲された歌劇「アルフォンソとエストレッタ」D 732の序曲を転用しました。
この曲はシューベルトの自信作で上演機会を与えるために転用されたと言われています。
後には1820年に作曲された劇付随音楽「魔法の竪琴」D 644の序曲が「ロザムンデ」の序曲として転用されました。
こちらの表紙には「ロザムンデ」と書かれていて混乱のもととなっています。
第3幕の間奏曲アンダンティーノ変ロ長調はシューベルトの作曲した中でも名高いものの一つで
弦楽四重奏曲第11番ロザムンデD 804
即興曲変ロ長調D 935ー3
にも流用されています。
台本は散逸してしまったと考えられてきましたが、最近になって初演後に改訂された5幕版が発見され、1996年に出版されました。後に初版の断片も発見されています。
「ロザムンデ」あらすじ
キプロスの王の娘ロザムンデ。
2歳の時に父が死に、遺言により貧しい船乗りの未亡人アクサに預けられ、18歳になるまで養育されました。
ロザムンデの18歳の誕生日。
それを知る市長アルバヌスがロサンムンデが生きていて、キプロスの唯一の正当な統治者であることを布告します。
しかし、代理の統治者だったフルゲンティアスが支配者という地位を失なわないように、ロザムンデを自らの妻に迎えようとします。
しかし、その計画は失敗します。すると今度は暗殺しようとします。
暗殺を防いだのはマンフレートという青年で、彼は幼少の頃から定められていた婚約者のカンディア王子アルフォンスでした。
フルゲンティアスはロサンムンデが暗殺のために用意した毒の罠に自らはまってしまい自滅します。
ロザムンデとアルフォンスは結ばれで終わります。
序曲
間奏曲
バレエ音楽第1番
第2幕の後の間奏曲
ロマンツェ
幽霊の合唱
第3幕間奏曲、アンダンディーノ
羊飼いの合唱
狩人の合唱
バレエ音楽第2番
第3幕の間奏曲
何だかパリの風景みたいって行ったこと無いけど・・
東京の風景なのですか?
パリのセーヌ川を真似た橋がかかっているところはあります。…バトームッシュを真似た船までありますか、
日本の大阪市筑前橋から撮った大川で、あの先には大阪湾があります。