音楽の喜び フルートとともに

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トリコンタメロン

2023-08-11 21:00:00 | 近代
今日も暑いです。
また、台風が出現したそうです。
台風の影響か風が強いです。

実家に寄ると母が「メロンいただいた。食べていく?」
もちろん!

美味しかった〜!

レオノルド ゴドフスキー(1870-1938年)ロシア領ボーランドソシェリ村生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク没

幼いときからピアノを弾き、
7歳から作曲を始めました。
ベルリン音楽大学に入学し、4ヶ月間学び、その後逃亡しました。

1884年14歳でニューヨークに来た時にはすでに5年以上活動し、ピアニストとして名を成していました。
米国とカナダに演奏旅行に出ました。

1886年リストに師事するつもりでヨーロッパに戻りましたが、リストが亡くなり、パリにいきます。

パリではサン・サーンス

が彼を養子にしようと申出ましたが、断わりました。

1890年、ニューヨーク音楽大学の教授職を得ます。
フリーダ サックスと結婚し、アメリカ合衆国の市民権を得ます。

1894年フィラデルフィア ブロード音楽院、1895年シカゴ音楽院で教えます。
1909-1914年、ウィーン音楽院でマスタークラスを行いました。
1914年第一次世界大戦が起き、ニューヨークに戻ります。
終戦になると演奏活動を再開しますが、1930年脳卒中を起こし、公開演奏を終えました。

1932年息子が自殺。1933年妻が死去。作曲への意欲も無くなり、
1929年の暗黒の木曜日で負った損失を回復する術べも失います。

1933年胃がんで亡くなります。

「トリコンタメロン」(3拍子による30の雰囲気と光景)は1919-1920年に作曲された5曲ずつで全6巻からなるピアノ組曲てす。


全て4分の三拍子で作られています。

「トリコンタメロン」は、ジョバンニ ボッカチオの「デカメロン」

から着想を得たものです。
「デカメロン」は1348年ペストから逃れてフィレンツェで引きこもった男女10人が退屈しのぎに、それぞれ10話ずつ話しをするという物語で、内容は恋愛話しや失敗話しでユーモアのあるお話しです。

…フルーツのメロンとはなんの関係もありません。ごめんなさい。

第1曲
『タンジールの夜 Nocturnal Tangier』
第11曲
『なつかしいウィーン Alt Wien』
第12曲
『エチオピアのセレナーデ Ethiopian Serenade』
の3曲は有名でたびたび演奏されます。

全曲演奏です。


子だくさんの作曲家

2023-08-10 21:00:00 | バロック
子宝弁慶草 カランコエ属

葉っぱから増殖中。
先週行った月ヶ瀬やぶっちゃの湯の駐車場に生えていました。

なんだか可愛くて不思議な植物です。

子宝のたくさんいる作曲家といえばヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没

マリア バルバラとの間に7人。
マリアが亡くなった後に アンナマグダレーナと結婚し、さらに13人。
女の子9人、男の子11人の20人の子宝がいて、より実入りのいい仕事を探し、賃上げ要求も何度もしていました。
「バターを塗り過ぎるな!」と節約を子どもたちに強要したりしたそうです。

ゲオルグ フィリップ テレマン(1681-1767年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領マグデブルク
生まれ、神聖ローマ帝国自由ハンザ都市ハンブルク没

も結構子だくさん。
アマ-リア ルイーゼ ユリアーネと27歳で結婚し、娘を1人もうけますが、1年でアマ-リアは亡くなります。
1714年マリア カテリーナと再婚。
9人の子どもを得ます。

カテリーナはギャンブル好きで、1720年までにテレマンの年収を超える借金を作り、不倫の噂もあって、1736年にはテレマンの家を出ていて、1775年修道院で生涯を終えます。(テレマンより長生きしました。)

借金はハンブルクの商人たちが肩代わりしたそうです。

1755年長男のアンドレアスが亡くなります。
74歳のテレマンは、アンドレアスの7歳の息子で孫のゲオルグ ミヒャエル テレマン(1748-1831年)を引き取ります。
ゲオルグ ミヒャエルは音楽家で神学者になります。

1765年テレマンが亡くなると、ハンブルクの音楽監督後任にバッハの息子カール フィリップ エマヌエル バッハ(1714-1788年)

がなり、彼をが亡くなると、このゲオルグ ミヒャエルがその職を継ぎました。

ゲオルグ ミヒャエル テレマンのオルガン曲「私達の神は強力な要塞です」




ルイ ロット、フレンチフルート製作の創始者

2023-08-09 20:59:00 | 楽器
月曜日は渡辺橋サロン ド プリンシパルで2ヶ月ぷりのフルートアンサンブルレッスンでした。
榎田先生がお体を壊されて入院。
6月末からお休みでした。お元気な姿を見れて嬉しいです。
メンバーにも会えて弾んだ空気に…。

榎田先生からルイ・ロットのフルートを買った人がいてお試し。
高音のピアニッシモがきれいです。
しまった!写真忘れました。
また、次の回に撮らせてもらいますね。

ルイ・ロットを見てるメンバーと榎田先生は撮りました。

こっちはアルタス吹き。

曲はフルート4本のドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」とアルトフルート、バスフルートを入れたフルート五重奏で日本の童謡、榎田先生が編曲されたのを使いました。
「待ちぼうけ」「あわて床屋」「砂山」
ロットが響いていい感じ。
私はバスフルート。
バスフルートに時々旋律がくる編曲でおもしろい!
12月の演奏会では、田園のほか、ミヨーのブラジレイアと、日本の曲数曲演奏する予定です。
どのパートするかは、これから相談です。

ルイ・ロット工房は、1855年から1951年頃まで6代継続した世界最高峰のフルートメーカーです。

テオパルト ベームの製造ライセンスをフランスのゴットフロワとイギリスのルーダル&カルテが取得していました。
ルイ エスプリ ロット(1807-1896年)はフランス ラ クチュール生まれました。

ラ クチュール ブッセイは17世紀に始まった管楽器製作者が集まっている街でした。

ここにはホッテテール家、マーティン家、ゴッドフロイ家、ビュッフェ家、シブヴィル家、ルブラン家、そしてもちろんロット家の本拠地でした。

ルイは13人兄弟の12番目として生まれました。

父親から管楽器の制作を学び、1827年クレール ゴッドフロワ アイネの工房で働き始めます。

1833年会社Société Godfroy fils et Lotを設立、協同しました。
6日後、彼の娘のキャロライン ジョゼフィーヌ ゴッドフロワと結婚。

1836年クレール ゴッドフロワは引退します。

1837年、ベームフルートを正式に製作しました。
1847年、ベームはフランスとドイツで取得したシリンダーフルートの特許をロット&ゴッドフロワに売却します。
このことでフランス唯一のメーカーとしてこのモデルを製造することになりました。

1855年モンマルトル36番地の自宅兼工房でルイ・ロットは独立します。

1855年の価格表

1860年パリ音楽院の公式フルートに認定されます。
ベーム式フルートに反対していたトゥルーが引退し、ルイ ド リュスが跡を継いだからです。

1867年パリ万博でロットはより厚い壁とより大きな音孔をもった新しいモデル、改良されたオープンGシャープキーを備えたより安定したフルートを発表します。

1876年ロットは、パリに近いシャトウー村に大きな家を買ってそこに妻とともに移ります。

オノレ デジレ ヴィレットに財産と事業を引き継ぎます。
ロットの息子はおもちゃ事業で成功し、楽器は作りませんでした。

ロットはその後も楽器作りに携わり続け1896年に亡くなりました。

シリアルナンバーが偶数が金属管、奇数が木管フルートを製造しています。

6000番以前の金属管は、板状の金属を叩いて丸めて作ったシーム管と呼ばれる方法で作られています。
(以降のものはシームレス管、引抜き管)

歴代のルイロット工房の職人
Louis Esprit Lot (1855-75)
No.0-2,000
H. D. Villette (1876-1882) No.2,150-3,390
Debonneetbeau de Coutelier (1882-1889) No.3,392-4,750
M. E. Barat (1889-1904) No.4,752-7,350
Ernest Chambille (1904-1922) No.7,352-9,210
G. Chambille (1922-1951) No.9212-10,442

榎田雅祥先生は、ルイ ロット信奉者で演奏者です。
古いルイ ロットの音色を現代に蘇らせようと楽器会社と相談されているところに、コロナ禍で中断。
復活できることを祈っています。



弦楽五重奏の確立

2023-08-08 21:00:00 | 古典
大学のマンドリンオーケストラの先輩でギターの米谷俊子さんが合わせに来てくれました。

お美しい!
お仕事をされていて、今回昇格され、記念のパーティーでフルートとギターで演奏したいと声をかけてくださいました。
嬉しいです。

ホテルモントレ大阪でパーティー。
「ドレス着てくださいね。」
大切なお祝い。
心をこめて演奏したいです。

お祝いの曲で検索したら、ボッケリーニのメヌエットが入っています。
「弦楽五重奏」op11-5G.275
の第三楽章のメヌエットのことです。

ルイジ ボッケリーニ(1743-1805年)トスカーナ大公国ルッカ生まれ、スペイン王国マドリード没

チェロ奏者としても有名でした。
5人兄弟の3番目。
父は町楽士のチェロ、コントラバス奏者でした。
13歳でデビューし、20歳で宮廷楽士として高い評価を受けます。
1768年に演奏旅行に出掛け、1769年スペインの宮廷に招かれドン・ルイス皇子付き奏者兼作曲家となり、マドリードで後半生を送りました。

ドン・ルイス皇子の家族(1783)ゴヤ画(左脇の画家はゴヤ自身、右から3人目で立って腕組みしているのがボッケリーニと思われます)
1785年ドン ルイス皇子死後

ブランデンブルク=プロイセンに移りフリードリヒ ヴィルヘルム2世


に仕えます。
実際には王室音楽家のまま、作品だけを送っていたそうです。
晩年は失職し、貧困のうちに亡くなりました。

音楽史上、弦楽四重奏や五重奏のジャンルを確立し、ハイドンに似ていながら、より多くの質の良い作品を作り上げていて、ヴァイオリニストのジュゼッペ ブッポから「ハイドン夫人」と呼ばれています。

「弦楽五重奏曲」ホ短調op11-5G.275はヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ2の編成で第1楽章 緩 第2楽章 急で、第1楽章と第3楽章は弱音器をつけます。第4楽章はロンドです。
この中の第3楽章メヌエットは彼の曲の中で最も人気のある曲です。


デンマークの短い夏

2023-08-07 21:00:00 | ロマン派
堺のサンスクエアホールでモーツァルトのフルートカルテットk285 Ddur演奏してきました。
左から直子先生と久米と金重さんと。
向かって左から、着物ドレス、打掛けドレス、帯ドレスです。

任務を果たせてホッとしています。
発表会といえど直子先生の生徒さんレベルが高くて緊張しました。

久しぶりの大阪市内。
いいお天気でやっぱりすご~く暑かった。

ニルス ウィルヘルム ゲーゼ(1817-1890年)コペンハーゲン生没

1845年ヨハン ゲオルク ヴァインフォルト画ゲーゼ
はデンマークの作曲家、指揮者、ヴァイオリニスト、オルガン奏者、教師です。
コペンハーゲンの建具職人兼楽器製作者の息子として生まれました。
デンマーク王立管弦楽団のヴァイオリン奏者としてキャリアをスタートします。
1840年彼の演奏会用序曲「オシアンの思い出」がその楽団で初演されました。
コペンハーゲンで初めの交響曲を演奏するのを断られた後、その楽譜をフェリックス メンデルスゾーンに送りました。メンデルスゾーンは彼を後押しし、1843年ライプツィヒでこの曲をゲーゼ指揮により演奏。
観衆に熱狂的に迎えられます。

ゲーゼはデンマークの奨学金を受けて、ライプツィヒに移り住みます。
ライプツィヒ音楽院の教師として働き、ゲヴァントハウス管弦楽団

の副指揮者として働きます。
この頃正指揮者はメンデルスゾーン、他にもシューマンと親交を深めます。

1847年、メンデルスゾーンが亡くなると正指揮者に任命されます。
しかし、1848年にプロイセンとデンマークとの間に戦争が勃発し(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)、
レンズブルク要塞の占領
コペンハーゲンへの帰国を余儀なくされました。

コペンハーゲン音楽協会
1755 年からコペンハーゲンにある音楽協会
の理事となり、オーケストラや合奏団を設立し、デンマークでも最も有名な音楽家になりました。
またオルガニストとしても活躍し、コペンハーゲン音楽院
アンデルセン大通りの元の音楽院
を設立し、後進を指導しました。

8つの交響曲、ヴァイオリン協奏曲、室内楽、ピアノ曲を作曲し、大規模なカンタータも作曲しています。
その中にはデンマークの民間伝承に基づいたものも含まれています。

北欧に「夏」の標題のついた曲が多いのは、短い夏への憧れがあるような気がします。

田舎の夏の日op.55
Ⅰ.Early: Allegro vivo 朝早く
II. Stormy 嵐
III. Solitude of the Woods 木々の間
IV. Humoresque ユーモレスク
V. Evening: Merry folk life
夜、楽しい田舎生活




12歳のシンフォニア

2023-08-06 21:00:00 | ロマン派
土曜の朝は明日地域でする吊りしのぶならぬ、吊り観葉の講習会の準備でした。
観葉植物は売っても高いので実家に生えている折鶴蘭

これは前日にスコップで採取。
暑かった〜!

しのぶ替わりのアイビーはうちの旧宅に、生えているのをみんなで切りました。

小学校の理科室にセットして、準備完了!
帰ってきました。

明日は堺で本番なので講習会の方はごめんなさい。

サンスクエアホール 12:30開演
ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの発表会で
モーツァルトの「フルートカルテットDdurK.285」を
フルート久米素子、ヴァイオリン木村直子、ヴィオラ金重美代、チェロ木村政雄で演奏させていただきます。
先生方の門下の大人や子どもたちががんばっています。入場無料。
お近くの方、ぜひいらしてくださいね。

フェリックス メンデルスゾーン(1809-1847年)自由都市ハンブルク生まれ、ザクセン王国ライプツィヒ没

メンデルスゾーン13歳の肖像画
の弦楽のためのシンフォニアは12歳から14歳の間に書いた13曲をいいます。

富裕な銀行家の家に生まれ、
6歳から母に、ピアノを学びます。音楽だけに関わらず、家には画家、科学者が出入りし、祖父は有名な哲学者でした。
8歳で、カール ツェルターに作曲を学びます。

12歳、ツェルターの紹介でヴァイマルに住むゲーテの家を訪問し2週間滞在しています。

14歳で祖母にバッハの「マタイ受難曲」写譜を贈られています。

この頃のメンデルスゾーンは、毎日違う教科の家庭教師が来て学び、毎週日曜日は家で開かれる音楽会がありました。
多忙な中、この音楽会のために作曲もしていました。

弦楽だけで始めましたが、8番は後に管楽器を入れてオーケストレーションを試みています。

第10番は一楽章のみで失われたのか、初めから一楽章のみだったのかわかっていません。
第13番は未完成で交響的断章と呼ばれています。

メンデルスゾーンは天才と言われていますが、それは教育によるところも大きいと思われます。

ユダヤ人の家系では、しばしば音楽家や学者を輩出していますが、それは国を持たなかった彼らが、国を変えても生きていける道を子どもに与えようとした結果だと思われます。

実際にメンデルスゾーンが3歳の時に一家はハンブルクを侵略したナポレオンから逃れ、ハンブルクを離れベルリンに移っています。

シンフォニア第10番








庭園の秘事

2023-08-05 08:50:00 | ルネッサンス
出張から帰宅途中、

横浜の焼売弁当の写真を送ってきた夫に、「食べたい。」と書いたら、
京都で私と次男の分を買ってきてくれました。
パッケージは京都で薄味。
スーパーで買ったお弁当とはやっぱり違います。
美味しかった!
でも、実は大阪で作られたお弁当でした。
美味しかったから良し!

替わりに石清水八幡宮駅までお迎え頼むって、特急が止まるわけでもないし、「なんでその駅?」って聞いたら、「段差が少ない。」って、そうなのかな?
だいぶお疲れらしい。
出張お疲れさま。



京都八幡市には、石清水八幡宮があり、神仏習合でそこの中にあった男山四十八坊の阿闍梨にまでなった松花堂昭乗(1582-1639年)


が、1637年弟子にすべて譲り、「松花堂」と名付けた方丈を建て、そこに移り住みました。

松花堂昭乗が隠居後に住んだ草庵・松花堂=2020年7月28日、京都府八幡市八幡女郎花、小西良昭撮影

風雅を愛された人で書道では寛永の三筆(近衛信尹、本阿弥光悦と)と称され、人物画や花鳥風月

を描いた絵は高く評価され、茶会では広い交流があり、「八幡名物」
奈良文琳 写し
と言われるお道具が伝わっています。

昭乗は、農家の種入れに使っていた箱を十字に仕切った器にヒントを得て、茶会で使う煙草盆や、絵の具箱を十字に仕切って使っていました。

松花堂昭乗が好んだ四つ切り塗箱。松花堂弁当のヒントになった=松花堂美術館提供
昭和の初め、吉兆の創始者が松花堂を訪れ、昭乗の好んだ「四つ切箱」を見初め、煮物、焼き物、お造り、ご飯を入れて蓋を被せて茶会に出されたのが「松花堂弁当」の始まりです。
(松花堂庭園、美術館hpより)

ちなみにお庭(20000㎡)


も見れますし、吉兆が中にあってお食事もできます。「松花堂弁当」

も食べられます。
食べたこと無いけど…。前を通るばかり。一度くらい行きたいけど。

チプリアーノ・デ・ローレ(?ー1565年)


ネーデルランド出身
イタリアで活躍したフランドル楽派の作曲家です。
フランドルのロンセに生まれたと推察されます。
アントウェルペンで音楽教育を受けたと思われます。
パルマ公妃マルゲリータ

と繋がりがあり、1533年彼女のナボリ行きに随行し、そのままイタリアに住んだと言われています。

1536年マルゲリータがアレッサンドロ ド メディチ

と結婚します。
その頃までにローレはイタリアで音楽教育を受けています。
ヴィラールト

と近しい関係にあり1545年には彼の住むプレーシャに滞在しています。

ヴェネツィアの出版社スコットに支持され、マドリガーレ集を出版。
1544-45年には2巻のモテット集が出版され、2年後には重版されています。
1546年フェラーラのエル コレ デステ2世に宮廷楽長に任命されます。
ここで多くの曲を残しました。

1556年エル コレ デステ2世


により功労により聖職禄を賜っています。
1559年デステ2世が亡くなり、ローレはフェラーラを去ります。

1563年ブリュッセルでマルゲリーテ公妃に再び仕えます。その後パルマで彼女の夫に仕えます。
次には1563年、サン・マルコ寺院の楽長になります。
が、俸禄の低さからここも辞めパルマに戻ります。その1565年に亡くなりました。

マドリガーレ集から、「遠くの東の国から」Da le belle contrade d'oriente, madrigal
東洋の美しい王国から
清らかで楽しいバラのヴィーナスと明けの明星と私の神聖な愛する人の腕の中で楽しんで
その喜びは人間の頭では理解できません。
熱烈なため息をついた後、彼女が言うのを聞いた
「私の心の希望、甘い願い、あなたは行き​​なさい、ああ、あなたは私をここに一人にしておきます。さようなら!
ここで私はどうなるのでしょう、悲しくて孤独になるのですか?
ああ、残酷な愛よ、あなたの楽しみは確かに
不確実で短い、私はまだあなたを楽しんでいますが、最大の幸福は涙で終わる。」
それ以上何も言えずに、彼女は私を強く抱きしめ、
もっと絡み合う抱擁を繰り返して
これまで以上にツタやアカンサスにように。







バラよりも芳しく

2023-08-04 21:06:00 | バロック
うちの狭い庭でも、野菜が育っています。
きゅうりはそうでもないけれど、売ってるのも旬で安くなっているので、ピクルスにしました。
お多福のらっきょう酢、洗ったガラス瓶にきゅうりを洗って切っていれるだけ…(ピクルス酢があるらしいけど、店頭では見たこと無いです。)


きゅうりのヘタ

小さなうぶ毛はトライコーム。
虫が食べないようにトゲトゲで虫を阻んでいるそうです。

棘(トゲ)といえば薔薇。きゅうりも薔薇も棘の目的は同じ。

ヘンリー パーセル(1659-1695年)イングランド共和国ウェストミンスター生まれ、イングランド王国ウェストミンスター没

王室の少年聖歌隊で歌い、音楽を学びました。
1673年15歳で変声期をむかえ、聖歌隊をやめました。
王室の楽器管理の助手を努めたあと、1674年ウェストミンスター寺院のオルガンの調律師になります。

音楽を学ぶと同時に写譜係も務め、古楽に通じるようになります。
1677年、18歳でチャールズ2世

の弦楽合奏隊の作曲家兼指揮者に任命されます。
1679年ウェストミンスター寺院のオルガニストにも任命されます。

以降、33歳の若さで亡くなるまで、王室の儀式の曲を多数残してしています。

1695年リチャード ノートン(1666-1732年)
「祖国を裏切るパウサニアス」の劇付随音楽を作曲しました。

デュエットの「My dearest, my Fairest」とソロの「Sweeter than roses」(バラよりも芳し)。このソロ曲はパーセルの声楽曲のうちで最も人気のある曲になりました。

パウサニアスはスパルタの摂政で紀元前479年ギリシャ同盟の統合陸軍のリーダーとして大きな勝利を収めます。

ペルシャからの勝利を祈るパウサニアス
その後第二次べルシャ侵攻を終結させます。

しかし、1年後ペルシャのクセルクセス1世と組んでギリシャ人を裏切った疑いで紀元前470年頃、餓死により処刑されます。

「バラよりも芳しく」

バラや涼しい夜の風よりも甘い
暖かい花の咲く海岸に、親愛なるキスがあった
最初の震えは私を凍りつかせた
それからずっと火のように燃え上がった。
愛に勝利をもたらす魔法とは何でしょう!
あの愛しいキス以来、私が触れたり見たりするすべてのことは、
私にとってすべてが愛であることを毎時間証明しています。




もう一つの「四季」

2023-08-03 21:54:00 | ロマン派
実家に飾ってあったアンスリウム。

熱帯アメリカ原産。「暑いから、これは枯れなくていいのよ。」と、母。

確かに…。
いつもお花を飾っていますが、お花のように見えるのは、葉と苞という葉だそうです。
地味ですが涼しげです。

アレクサンダー グラズノフ(1835-1936年)ロシア サンクトペテルブルク生まれ、フランス ヌイイシュルセーヌ没

裕福な出版社の息子として生まれます。

グラズノフ家の紋章
9歳でピアノを初め、11歳で作曲を、始めました。
その後リムスキー・コルサコフは、

「何気なくバラキレフが、14、15歳の高校生、アレクサンダー・グラズノフの作品を私に持ってきてくれたことがある」とリムスキー=コルサコフは回想した。「それは子どもの方法で書かれたオーケストラの楽譜でした。少年の才能は疑いもなく明らかでした。」と書いています。
リムスキー・コルサコフ
はグラズノフを個人で教えます。
1884年ベリャエフが交響曲第1番を初演すると1886-1887年のロシア交響楽団のコンサートに発展しました。

ベリャエフ
ベリャエフは出版社も設立し、彼の楽譜を他の作曲家の楽譜とともに自費出版しました。

すぐに国際的評価に発展し、1890年代には次々と作曲しました。

「四季」は1899年振付師でロシア帝国バレエを率いたマリウス・プティパ(1818-1910年)フランス マルセイユ生まれ、ロシア帝国タウリダ県グルズフ没


に、依頼され、作曲しました。
1900年サンクトペテルブルクのエルミタージュ劇場で初演されました。

「四季」

1.前奏曲
2.冬
  1.情景 2.ヴァリアシオン 霜      
  3.ヴァリアシオン 氷 
  4.ヴァリアシオン 霰
  5.ヴァリアシオン 雪 6.終曲
3.春
  1.情景 2.バラの踊り 
  3.小鳥の踊り
4.夏 
  1.情景 2.矢車菊とケシのワルツ
  3.舟唄 
  4.ヴァリアシオン 
   トウモロコシの精の踊り 
  5.終曲
5.秋
  1.バッカナール
  2.小さなアダージョ
  3.バッカスの礼賛
6.アポテオーズ

4「夏」1.




8月取り入れの歌

2023-08-02 21:08:00 | ロマン派
午後から母がミシンを使いに来ました。
コロナ禍にミシンを使いたいというのでプレゼントしたのですが、とにかくミシンが売ってなかった。

みなさん、外に出ていけないので、家で出来ることを探されていたようで、結果ミシンが無く…(値段が高いものは売っていたけれど、リーズナブルなものは無かった。)

コンパクトなのが良いというので、ネットでようやく一台見つけて渡しました。

それは大変使いにくいミシンで、糸も小さな特別サイズの糸巻きの糸を使わなければならないのでした。
まあ、それでも何枚かカバンや服のリメイクをしたりして使っていましたが前日ついにうんともすんとも言わなくなりました。

で、私のミシンを使いたい。と

午後からやってきて、ミシン。
シンプルなミシンから、電子ミシンに変わったので、「糸巻きどうするの?」「糸が通らないよ。」
「送り金が変えられない。」
「糸調子はどうしたらいい?」
などなど、1から10まで質問責めで、ゆっくり練習もしてられない。
わたしも全部覚えてないので、途中からスマホで電子マニュアルを見せて、自分で考えてもらうことにしました。
で、全部終わらないうちにとっぷり日が暮れてしまいました。

ミシンを貸してあげることにして、仕事が終わって帰ってきた次男と、実家へ移動。

おととい「久しぶりに、虹を見た。」と書いたら、また出くわしました。

相変わらず暑いけれど、8月になって少し空気が変わったような気がします。

ピョートル・チャイコフスキー(18401893年)ロシア帝国ヴォトキングスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

1863年のチャイコフスキー
のピアノ曲集「四季」op.37a。

1875-1876年にかけての月刊音楽雑誌「ヌーヴェリスト(ゴシップ好き)」の企画で、ロシアの詩人と各月の風物を題材にしたピアノ曲を書いています。

詩は全て出版社のベルンハルトが選らんでいます、

8月は詩人アレクセイ コルツォフ(1809-1842年)

7月と同じ詩人です。
牛商人の息子として生まれ、2年ほど学校に学んだだけで。父に請われて商売の手伝いをしました。
詩は父に反対される中で作られました。それでも詩集が発刊され注目を集めましたが、父の抑圧からかうつ病を発症し、その後結核に感染し33歳で亡くなりました。
作風はロシアのバーン ジョーンズと呼ばれ、農民の生活を理想化し労働を賛美するようなものになっています。

8月は収穫の歌(取り入れの歌)

男も女もみな集い
さあ刈り取ろう収穫だ
茎(くき)までみんな刈り取ろう
束にした麦、 山のよに
村に運んで、ひと晩じゅう、
荷ぐるま、音楽、鳴り響く

ピアノソロにオーケストラ伴奏をつけるアレンジ版がありました。
より取り入れのカラーが出ているように思います。