軟弱な私でもできることはないかと、持ち続けていた気持ちをこれなら実行出来ると参加した東北応援ツアー。
陸中海岸を久慈から松島までの観光、と称して被災地を実際にこの目で見、話を聞く2泊3日の旅。
ツアー中、バスガイドさん、ボランティアガイドさん、施設の職員の方、ホテルの従業員の方、どなたもが発した印象的な言葉。
『津波てんでんこ』
「てんでんこ」 てんでんばらばらに各自めいめい。普通ならいい意味では用いない言葉。
それが、とても大事な意味を帯びている、と。
自分の命は自分で守りなさい。たとえ夫婦親子兄弟でもかまわずまず自分の命を守って逃げなさい。生きていれば必ず会えるんだから。って。
お話された方たちは、是非この言葉を伝えて欲しい、と皆さんおっしゃっていた。
(長くなりますが、分けて書く気力がないのでがーっといきます。我慢してお付き合いください)
このツアーは、北の久慈駅から普代駅まで三陸鉄道乗車、車窓見学から始まった。
4月1日開通だが、途中の島越(しまのこし)が土台から崩壊のため全線開通はしていない。
私たちが乗ったのは2両連結レトロ列車。いろいろな車両があるとの事。
鉄道は慢性赤字だが売り出した赤字せんべいは黒字、との話に皆で大笑い。
車窓から津波被害の爪あとが見え出し声をのんだが、南に行くにつれこんなものではなかった。
リアス海岸の特徴で、海に出たかと思うと山に入りまた下って海に出るという行程をバスは走り続け、そのたびに、何事もない日常を送っている集落もあれば、基礎部分のみ残っている集落もあるという光景を見ることになりつらかった。
1日目は景勝地*北山崎を雨の中震えながら見て終わり、岩泉泊。
2日目は 世界一の長さを誇った堤防の無残な姿がそのまま残っている田老町を通り、 浄土ヶ浜へ。
バスは陸中海岸を南下し続け、山田町、大槌町、釜石市、と進んで行って、大船渡へ。
ここで、ボランティアガイドさんがバスに乗車し当時の様子を話してくれた。
チリ津波のときは線路が境目だったが、3,11はその奥国道が分かれ目だったと。
その国道は逃げる車で身動きが取れなかったと。被害はその方たちに及んだと。
大船渡の次に陸前高田市へ。 ガイドは新沼さん。
新沼さんはまず、東洋のナポリだぞ、わざわざイタリアまで行かんでよろしいと市民の森になっている箱根山に案内してくれた。
新緑は鮮やか、半島に囲まれた広田湾はあくまでも穏やかで、こんないいところはないと。それが・・・
447メートルの箱根山を降りて市街地に入ると一転。何もない。残っていても外観だけ。
160年間分の瓦礫の山だけ。
地震後、市民は市役所や上の写真の建物、この付近の建物に避難したそうだ。2階建て。わずか3名を残して犠牲に。
4階建ての市役所は3階まで津波が押し寄せて、295人の犠牲者がでたそうだ。
右側の写真の建物はMAIYAというスーパー。
ほぼ同じ場所に立っているのにこちらの被害者は0。その差は何か。
「山に逃げろ!」
この館内指示が徹底していて一人の犠牲者も出さなかったという。
新沼さんは「ともかく地震が来たら、高いところに逃げなさい。遠くに逃げるんじゃない」
それまで、ユーモアたっぷりに説明してくれていた顔が怖くなるくらいに強調した。
高田松原を説明している新沼さん。後頭部横に針のような細い棒が一本松。
陸前高田でボランティアガイドさんたちとお別れし、2日目の終わりは気仙沼復興のシンボル 「昇り龍」見物で少しリフレッシュ。
3日目の朝。
2日目のお宿は震災後いち早く7月にオープンした、南三陸町のホテル。
2階の大浴場まで浸水したそうだが、フロントが5階にあったために比較的早く復旧できたそうだ。
さてと、バスは最終地 松島へ。
波は瑞巌寺の境内まで来ていたが、湾の島々が自然の防波堤になって見た目被害があったとは思われないほど。
3日間、700キロあまりのバスの旅。疲労困憊したの距離のせいだけではないと思う。
田中マー君と同じ年だというガイドさんは、実によく勉強していた。
「観光地の復旧はいろいろ条件はあるけれど、お客様が来て下さってこそ復旧できるのです。ぜひ、また東北に来て下さい」と何回も繰り返した。
まとまりのない文章で読み難かったと思います。
機会がありましたら旅行候補地に東北を、なんてにわか観光大使になったりして。