気ままに

大船での気ままな生活日誌

ソメイヨシノと八重桜の競艶 大船

2015-04-15 18:34:25 | Weblog

もう、何処でもソメイヨシノの時代は終わり、八重桜が幅をきかせてきている。大船でもそうだが、ぼくの散歩道の松竹女優桜(ソメイヨシノ)だけは、未だに若々しい。もうほとんど満開になって、妖艶さを増してきた八重桜に少しもひけをとらない。まさに妍を競っているのだ。こうゆうことは、めったにないので、ぼくのブログ記事にして、記録に残しておこうと思う。

4月15日(水)大船の松竹桜

妍を競う松竹女優桜と、お隣りの八重桜。

松竹女優桜


八重桜

ソメイヨシノと八重桜も競艶!いかがでしたか。まだまだ負けないでしょ!

そうそう、原節子桜もまだまだ花盛りでした!残り花最長記録をもつ原節子桜。今年も記録を更新しそう。がんばって!2014.5.6が残り花最長記録です。今年も、随時、経過報告の予定です!

今年もがんばるわ!

松竹大歌舞伎の、新・四代目中村鴈治郎はんもがんばっておりまっせ。今日、応援してきました!写真の人物はぼくと関係ありません(笑)。

 

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妙本寺 海棠と八重桜

2015-04-15 08:17:37 | Weblog

4月14日(火) 小雨 妙本寺 海棠と八重桜

小雨の午後、鎌倉駅近くの妙本寺で遊んできました。いつもゆっくり咲いて、ゆっくり散る、あの中也と秀雄の海棠は、今頃、満開ではないかと。それに、その海棠の向こうにある二本の八重桜が咲き始めているはずだと。

今年の鎌倉の観光ポスターは、たしか妙本寺の海棠と新緑の楓ではないかと、駅舎内のポスターをまず、確かめた。

これを頭においていたので、お寺に着いたとき、このアングルで中也と秀雄の海棠を観てみようと思った。そのアングルはすぐ見つかった。ほらね。

同じ位置で、少しひいて、撮ってみる。

垣根に囲まれている海棠が、小林秀雄が書いた”中原中也の思い出”の中に出てくる海棠。
鎌倉比企ヶ谷妙法寺境内に、海棠の名木があった。こちらに来て、その花盛りを見て以来、私は毎年のお花見を欠かしたことがなかったが、先年枯死した。枯れたと聞いても、無残な切り株を見に行くまで、何だか信じられなかった。それほど前の年の満開は例年になくみごとなものであった。名木の名に恥じぬ堂々とした複雑な枝ぶりの、網の目のように細かく別れて行く梢の末々まで、極度の注意力をもってとでも言いたげに、繊細な花をつけられるだけつけていた。(中原中也の思い出/小林秀雄)

その三代目だが、今、満開を迎えていた。

海棠の向こうにある二本の八重桜。

これも、もう五分咲きといってよいほどの花盛りだった。

中也と秀雄が座った石(たぶん)を入れて、海棠を撮ってみた。当時、手前の八重桜はなかったはず。

晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた、花びらは死んだような空気の中を、真っ直ぐ間断なく、落ちていた、樹影の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた・・・その時、黙って見ていた中原が、突然、もういいよ、帰ろうよ、と言った(中原中也の思い出)  

帰り際、大巧寺のむべの花をみてきた。大部分は蕾だが、開いているものがいくつかあった。海棠が散る頃、花盛りになる。



この花は、”むべなるかな”の語源だそうですよ。

滋賀県近江八幡市の北津田町の伝説で、狩りに出かけていた天智天皇が、長寿の老夫婦に出会い、健康の秘訣を聞いたところ、この果物を食べているからだと答えたのだそうです。天皇がこれを賞味して”むべなるかな”とおしゃったそうです。それ以来、秋に青いあけびのような実をつける、この植物を”むべ”と呼ぶようになったんだそうです。

では、また今日も遊びにでかけよう。今は遊びが仕事だもん。むべなるかな

 

 

 

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鎌倉まつり始まる ミス鎌倉お披露目&静の舞

2015-04-15 08:03:36 | Weblog

おはようございます。朝はこんなに晴れあがっているのに、これから天気は崩れるとの予報。ほんとかな。さて、今朝の話題は、この日曜日のこと。

京都桜旅から帰った翌日、鶴岡八幡宮の舞殿でミス鎌倉のお披露目と西川翠菜による”静の舞”を観に行った。その日が、鎌倉まつり(4月12日~19日)の初日で、華麗な式典が開催された。日曜日で、かつ好天に恵まれ、大変な人出だった。

主宰者の挨拶によると、鎌倉まつりは1959年(昭和34年)から続き、今年で第57回になるが、その発祥は鎌倉カーニバルだそうだ。鎌倉カーニバルというと、昭和9年(1934)年に、大佛次郎、久米正雄らの発案によって、鎌倉文士たちが中心となり、昭和37年まで続いたお祭りのこと。3年間ほどダブるが、カーニバルを受け継ぐ形で、現在の鎌倉まつりに発展したということだろう。

長谷の鎌倉文学館でも、鎌倉カーニバル関係の展示もあり、ミス鎌倉と鎌倉文士(たしか、堀口大学だったと思う)の並んだ写真もある。当時からミス鎌倉を選出していたようだ。

では、ご紹介しましょう、2015年ミス鎌倉のお披露目。大勢の人の視線を浴びる。三名、一人ひとりから、自己紹介のご挨拶があり、そのあと、表彰状と景品の授与式。

4月12日(日)午後1時 晴れ 鶴岡八幡宮の舞殿にて 2015年ミス鎌倉お披露目

神職による儀式

ミス鎌倉と静御前(西川翠菜さん)も同席。

そのあと、ミス鎌倉、お一人づつ、ご挨拶。

そして、証書、景品等の授与式があり、

新鎌倉ミス、三人お揃いでお披露目

場所を変えて。うしろは八幡さまの石段

これから、一年間、鎌倉市の観光PR役を担うことになります。がんばってくださいね。

そして、ぼくは午後3時の”静の舞”が始まるまで、1時間ほど、八幡さまの敷地内にある神奈川県立近代美術館で過ごす。感想文はのちほど。

そして、午後3時から静の舞

しづやしづ しづのをだまきくりかえし 昔を今になすよしもがな
静の舞は、1186年、頼朝の命で、ここ鎌倉に召し出された京の白拍子静御前が、吉野の山で別れてきた愛する人義経を、偲んで舞った。一級歴史資料の吾妻鏡に書かれているので、実際、この場所で静御前が舞ったのであろう。そう思って、西川翠菜さんの舞を観ていると、800年の月日を越えて、静御前の想いが伝わってきて、胸があつくなる。

舞いを終え、舞台のそでで、舞台姿を披露。

そして、しずしずと去ってゆく。大勢の観衆から大きな拍手。静御前が現代に戻ってきたような気がしたひとときだった。

そのあと、鎌倉別館で日本画コレクションを観る。

鎌倉まつりの最終日、19日、日曜日には流鏑馬がある。これも行かねば(汗)。

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