3月の、”春のぶらり東京”シリーズの最終日に、それこそ閉幕間近い”新印象派展”を覗いてきた。もう、10日以上も前になるので、展覧会の印象がうすくなりつつある。思い出しながら、要点だけでも、ここに残しておこう。
印象的だったのは(笑)、”光と色のドラマ”のシーン1から5までの物語プレートが節目節目に掲げられていたこと。各章の解説プレートより、よほど面白い。で、今回は、それに従って、本展を紹介したいと思う。新印象派の誕生からの約20年間の流れである。
光と色のドラマ
シーン1 1884年、パリ・グランドジャット島 セーヌ河に浮かぶ中州で、一心に絵筆を動かす画家、24歳のスーラ。描きためたおびただしい作品は、ある大作のための構想だった。同年、ポール・シニャックと出会い、翌年、ピサロが二人に出会う。来るべき日は近づいていた。
シーン2 1886年5月、パリ・ラフィット通り1番地 第8回印象派展が開催される。ひときわ目をひく巨大な作品、”グランド・ジャット島の日曜日の午後”。はじめてみる点描画に怪訝な目を向ける人が多い中、美術批評家フェリックス・フェネオンは、称賛の眼差しを向けた。同年9月、この新しい表現を”新印象主義”という言葉を用いて、評価した。
シーン3 1887年 ブリュッセル、ベルギー 前衛芸術家グループ20人会のレイセルベルヘは、満足な笑みを浮かべる。眼前にはグループ展への招待出展を承諾した、スーラの大作があった。スーラの点描画法は瞬く間に拡散していく。その3年後のスーラの死を誰が知っていただろうか。
シーン4 1892年3月、ブルターニュ・ベノベ港 吹き渡る海風を全身に受け、シニャックは自らのヨット”オランビア”を出航させた。目的地は南仏サン=トロペ。そこには、彼の仲間が集結することになる。スーラ、亡きあと、今や点描の未来はシニャックに引き継がれた。
シーン5 1904年7月、サン・トロペ シャニックの別荘 南仏の夏は輝いている。マティスは、シニャックの誘いで、彼の別荘に滞在していた。そして独自の点描法を実験しはじめる。何よりも色彩を美しくみせるために。新印象派の光と色が生んだ、新しいドラマの幕がきって落とされようとしていた。
なるほど、新印象派とは、こうゆう流れできて、その後、マティスらのフォーヴィスムへと繋がったのかということが、よく、分かった。
ちらしに載った絵ばかりだが、それらを前述の流れに沿って、付け加えておきたい。
シーン1
ジョルジュ・スーラ ”セーヌ川、クールブヴォワにて”
ポール・シニャック ”クリシーのガスタンク”
シーン2
ポール・シニャック ”
ジョルジュ・スーラ ””
シーン3
ヤン・トーロップ 《マロニエのある風景》
シーン4
ポール・シニャック《サン=トロペの松林
テオ・ファン・レイセルベルへ ”マリア・セート、後のアンリ・ヴァン・ド・ヴェルド夫人”
アンリ=エドモン・クロス ”地中海のほとり”
展示構成
プロローグ 1880年代の印象派
第1章 1886年:新印象派の誕生
第2章 科学との出会い―色彩理論と点描技法
第3章 1887年―1891年;新印象派の広がり
第4章 1892年―1894年:地中海との出会い―新たな展開
第5章 1895年―1905年:色彩の解放
エピローグ フォーヴィスムの誕生へ
プロローグではモネ、ピサロの作品が、エピローグでは、マティス、ドランの作品を楽しむことができる。
東京都美術館
楽しい展覧会であった。今回で、ぶらり春の東京シリーズは終了となります。ほっ!