中日新聞の日曜版「おじさん図鑑」に「友だちづきあい」というタイトルで、飛島圭介さんがエッセイを書かれていました。
鬼籍に入ってもう二度と会えない人は別として、おじさんは友だちが少ない。
若い頃は友だちは多い方が楽しいし、色々な人間を知る意味でも多くの人との交流は必要だった。
青年期、壮年期は仕事上の人間関係から大切な友人もできたりして、友達は増える一方だった。
それが年を経るごとに、いつの間にか友だちといえる人が周囲からいなくなった。
意識的に選んだわけでもなく、けんかしたわけでもないのに、自然の成り行きでそうなったのだ。
今はやりの言い方でいえば、「友だち」を”卒業”して「知人」となった。
高校の同窓会の時、満面の笑みでおじさんの肩を抱き、「おまえとは親友だったからな」と言った男がいた。
顔はぼんやりと思い出せるが名前が出てこない。
何とか調子を合わせたが、こういう人は親友どころか友人や知人とも言えないような気がする。
友だちづきあいは何にしても一定の時間と体力が必要だ。
場合によってはお金も必要だ。
それが楽しいと思えるならまごうことない友だちだ。
面倒だな、と思えるのなら「友だち卒業」した方が正解だろう。
老いては”個(孤)”に従え。
独りが楽だ。
以上です。
私は友だちがほとんどいません。
それでも寂しいと思った事がありません。
ひとりでいる事が好きなんでしょうね。
高校時代からの親友がいます。
ところがコロナ禍になってからご無沙汰しています。
コロナ禍になる前は、彼は私が住んでいる街に来たときに声をかけてくれて、お茶を飲んだり食事をしたりしていました。
彼はがんを患っていましたので、ひょっとして亡くなったかも知れません。
彼の携帯に電話すれば分かりますが、ちょっと怖くて出来ていません。
まぁ、このままの状態でいいと思っています。
彼の奥様も知っていますが、あまり仲が良くないですし、年賀状のやり取りもしていないので彼に何かあっても知らせてくれないと思います。
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徳永英明 まちぶせ