風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

63回ピースボート・地球一周の船旅31・ラバウル/パプアニューギニア編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
ピースボート・地球一周の船旅31
ラバウル/パプアニューギニア編
[2009/1/4]



ラバウル港着岸は8時であった。
甲板に出て島を見ると、山の頂上が灰色で、私はすごい雲だなと思った。
甲板は真っ白で、周りの人に聞くと、それは実は、火山の噴煙であった。

私は『旧日本軍戦跡を巡る』ツアーに参加した。
バージトンネル[大型発動機船を隠した洞窟]

大型発動機船と言うが小さなボートだった。今にも朽ち倒れそうであった。

子ども達と島の人たちは物珍しそうに我々を見ていた。


ココポ戦争博物館

二人乗りくらいの小さな戦車であった。

ココナツがなっていた。                雨水をためるタンク。

資料館の内部・二棟あった。麻雀のパイが陳列されていておもしろかった。

敷地内に第二次世界大戦当時の高射砲、戦車、魚雷、戦闘機などが野ざらしまま展示されてた。
いずれも驚くほど小さく、建物の内部には日本軍の生活用具なども展示されていた。

昼食は、この戦争博物館に隣接するゴルフ場のクラブハウス内のレストランだった。
肉や芋、バナナなどを蒸し焼きにしたもので、バナナとスイートポテトがおいしかった。
ビールがキンキンに冷えていておいしかった。
その場でココナツ椰子に穴を開けてくれ、汁を飲んだが、量が多過ぎ飲みきれなかった。
味は淡泊で、甘さは薄く、私には美味とはいえなかった。
現地の人は、30度を超える暑さの中ゴルフをしていた。

日本政府とラバウル政府とが共同で作った旧日本軍記念碑・南太平洋戦没者の碑は、
ラバウル港を見下ろす高台にあった。

ここから、ラバウル港が一望できた。

周囲は黒い火山灰が厚く覆い、人が生活できる場ではもはやない。

山本五十六博物館、右は山本長官が寝起きしたことのある地下室、という。

こんな狭い地下が、長官が隠れたところなのって感じ、狭く水浸しであった。
この周辺は火山灰が4mほど積もっているという。

車の轍の辺りは昔、日本軍の滑走路だったという。

旧日本軍爆撃機とゼロ戦闘機の残骸が半分灰に埋まって残っている。

旧滑走路の左側の山肌はすっかり枯れ果てていた。


ここから、港は歩いて20分ほど、治安は良いというので、ツアーを離脱して歩いて帰ることにした。
中国人と思われる人の経営するスーパーマーケット、商品はいずれも灰まみれであった。


メインストリート、昼下がりだが、ほとんど人の姿が見えない。


週何回か開かれる市場、この日は日曜で開いていない。


夕暮れではあったがまだまだ暑い。
人々は木陰に座って、涼を取り、私に会うと“ハロー”と呼びかけ、握手する人もいた。
私が See You と声をかけると、にこっとして See You と返って来た。
時々、ありがとう、さよならと日本語が返って来た。
日本人観光客が来るのであろうか。
1994年タヴァルヴァル山を初めとする三つの火山が噴火した。
ラバウルの町は、1937年の噴火に続き、壊滅的なダメージを受けたという。
官庁や商店などの多くがココポに移転した。
今日徐々に復興が進んでいるという。
ラバウル港敷地を出るとそこはすぐ町の中心であった。
道路は広いのだが、人影はまばらであった。
日曜日で店は休みであった。そもそも店の数も多くは無かった。
道路は火山灰が覆い、車が走ると土埃がすごかった。
車にはクーラーが付いていないので、埃を避けるため窓を閉めるとすごい暑さだった。
日曜、多くの人が教会に行くという。
ラバウルはものすごい高温多湿で、汗がじっとしていても流れでてくる。
私はわずかな時間で疲れてしまった。
島には大型バスはなく、ミニバスで移動した。
人々はとても親しげで、私たちのミニバスに出会うと必ず手を振ってくれた。

バナナ、ココナツ、マンゴーなどは自生しているのだろうか。道路脇にたくさん見かける。
ラバウルは太平洋戦争の末期、激しい戦闘にはならなかった。
9万の兵士がいて、戦闘になると連合国軍の被害が大きすぎると判断し、
連合国軍は最後まで先頭を仕掛けなかった、という。
ラバウル島には9万余の日本兵がいた。日本からの補給は無かったと言われる。
日本兵は飢えることがなかったそうだ。自活出来るほど自然の恵みは豊かだったのかとうなずける。

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