まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

松阪町歩き・松阪城、本居宣長

2016年05月03日 | 旅行記D・東海北陸
松阪の町を歩いて松阪城に着く。今の市役所の辺りが大手門の跡ということで、ここからゆるやかな坂が続く。天守閣や櫓は残っていないが、石垣は蒲生氏郷が築いた当時のものが残っているという。ただ蒲生氏郷はその後加増されて会津に移り、江戸の初期は古田家が治めていたが、古田家が石見に国替えとなった後は紀州藩の領地となった。紀州藩は和歌山が本拠地だから、松阪には城代を置いて治めさせた。先の記事に書いた松阪の商人たちも、蒲生氏郷が地元の近江日野から連れてきたのがルーツで、いわば近江商人の流れを汲むと言えるだろう。

城内にあるのは歴史民俗資料館。元々は明治時代に図書館として建てられたものだが、1978年の図書館の新築移転にともない、歴史民俗資料館として観光客にも公開されるようになった。

まず目に入るのは昔の薬屋の店先を復元した一角。伊勢参りの旅人にも重宝されたという。

訪れた時は企画展で「昭和の絵葉書コレクション」をやっていた。伊勢観光のものに始まり、東京や大阪、京都、果ては海外のものもある。時代が昭和ということだが、現存するものもあれば今は見られなくなった建物や風景もあり、当時の様子がわかる。大阪の通天閣も現在のものではなく初代の建物だったり、大阪駅や大阪府庁の昔の姿も見られる。絵葉書は観光の記念、土産ではあるが、こうした史料的な要素もあるようだ。

また資料館には、松阪出身の元横綱・三重ノ海が締めていた綱とか、松阪木綿に関する展示がある。

資料館の後は天守台に上がる。地元の人たちの散歩、憩いの場である。確か前に来た時には桜が見ごろで、天守台の桜の下では花見の宴会を楽しむ人たちもいた。ここから市街地、そして遠くには伊勢湾を見ることができる。

天守台から反対側に下りる。市内にあった本居宣長の旧居・鈴屋がこちらに移築されており、記念館もある。鈴屋を見るには記念館と共通の入場券が必要ということで、まずは記念館に入る。この夏にリニューアルのため休館に入るとかで、今は「もう一度、のりなが」として、本居宣長の人生を総括するように各種史料を豊富に展示している。

本居宣長は松阪の商家に生まれたが、商人というのは肌に合わなかったようで学問を志し、後に医師を生業としつつも、古典や和歌に興味を持ち研究に取り組んだ。その中で最も長い年月を費やし、後の世に影響を及ぼしたのは「古事記伝」に代表される古事記の研究である。古事記を文献として研究し、注釈をほどこす中で、古代の人たちの生き方や考え方の中に日本人の心の原点を見い出し、大きく評価した。これまでは記紀の中でも日本書紀が重要視されていたのだが、宣長の研究により古事記が祭り上げられるようになった。これが後に国学と呼ばれ、やがては尊王攘夷の思想にもつながっていく。それがトチ狂った「文化大革命」の廃仏毀釈の愚策やら神国日本とか・・・いや、これは言い過ぎか。

宣長の直筆の文献も多数残されているが、言葉の一つ一つに対する見方が繊細で、緻密であるように感じられる。几帳面、記録魔のようにもうかがえる。研究者としては素晴らしいのは間違いないが、実際に会ってみると神経質で近寄りがたいのかな・・・とも想像する。いや、後に名を残す人物はそのくらいでなければ。

記念館を出て鈴屋に向かう。旧居の2階の4畳半が書斎で、当時あった町人街からの2階だと、ちょうどいい角度で城の石垣を見上げることができただろう。ここに鈴をぶら下げ、それを鳴らすことで一息ついたという。床には「縣居大人之霊位」という掛け軸がある。「縣居大人(あがたいうし)」とは師と仰ぐ賀茂真淵のことで、宣長は真淵が伊勢参りで松阪に泊まっていた時に訪れた。直接二人が対面したのはこの一夜だけで、後は書簡でのやり取りだけだったのだがさまざまな教えを受けた。宣長は真淵の命日にはこの掛け軸を掛けたという。

鈴屋を出ると城の警護にあたった紀州藩士の屋敷が並ぶ。槙の垣根と石垣が整然と並んでいる。棟続きの長屋のような建物で、今でも住んでいる家があるが、そのうちの1軒が観光客にも公開されている。藩士といっても下級クラスということもあり、素朴な感じの造りである。

ここまで歩くと松阪市内の主な見どころは一通り回ることになり、駅に戻る。まだ早い時間なのだが、駅前のエースイン松阪にチェックイン。しばらく休憩して、この後は「松阪に来たからには食べたい」というものに・・・。
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