まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第18回中国観音霊場めぐり~第29番「大山寺」

2021年03月22日 | 中国観音霊場

朝8時半、バス停から大山寺へ続く参道を歩く。ちょうどこれから大山登山をしようという人、前夜宿泊したロッジや旅館から帰ろうというクルマが行き交う頃である。

参道の途中には地蔵像が目立つ。その中で「弘化の大地蔵」というのがある。弘化は西暦に置き換えれば1845年から1848年に当たる。

10分ほど歩いて山門に着く。中国観音霊場めぐりの中で最も高い場所に位置する札所である。

山門の下に断り書きがある。朱印の書き置きの用紙がケースに収められている。冬期は日中でも諸堂を閉鎖している場合があるとのことで、大山寺のホームページでも告知されている。これが出ているということはお堂にも人がいないのだろうなと、先に書き置きを受け取る(代金はケースの中へ)。すでに中国観音霊場でもいくつかが書き置きのものを朱印帳に貼っているから、別にこだわりはない。

中国観音霊場めぐりの本尊は、石段を上がったところの下山観音堂。白鳳時代の作という十一面観音像で、現在は宝物館にあたる霊賓閣に安置されている。こちらの霊賓閣も3月いっぱいまで閉館中。まあ、それも承知のうえでのこの時季に来ているのだが。まずはここでお勤めとする。

さらに石段を上がると大山寺の本堂に出る。こちらは1951年に再建された建物で、本尊は地蔵菩薩である。鐘があったので打ち鳴らして、ここでも手を合わせる。

大山寺は元々山岳信仰の場として開かれたところで、寺として開かれたのは奈良時代、金蓮上人によるとされる。金蓮は元々猟師で、ある日大山で鹿を弓で射たが、近づいてみると、鹿だと思っていたのが実は地蔵菩薩だった。殺生が罪深いことだと悟り、出家して金蓮と名乗り、お堂を建てて地蔵菩薩を祀ったのが大山寺の始まりという。

平安時代になると天台宗の寺となり、別格本山として西日本の天台宗の一大拠点となった。多くの塔頭寺院が周囲にはでき、多くの僧兵も抱えていた。鎌倉時代の末期、後醍醐天皇が倒幕に失敗して隠岐に流されたが、伯耆の武士である名和長年の手により脱出した。その長年の弟が大山寺別当の信濃坊源盛という人で、僧兵を引き連れて各地を転戦したという。

また、大山は古くから牛や馬の守り神としても信仰されていて、全国から牛や馬を売買する人が集まり、市もできた。そのため、牛や馬の霊を慰める石碑や、撫で牛も祀られている。現代とはまた違った町の様子だったことだろう。

戦国時代には尼子氏、毛利氏の保護により多くの造営がなされ、江戸時代も幕府から寺の領地を認められた。ところが、この後で明治の神仏分離、廃仏毀釈が起こる。

現在はこの本堂や先ほど手を合わせた観音堂などの一帯が大山寺であるが、元々はもっと広い境内を有していた。それが神仏分離で大神山神社と大山寺に分けられた。本尊の地蔵菩薩も元々はこの奥にある大神山神社にて祀られていたもの。大山にもこのような歴史があったのである。

ということで、この奥にある大神山神社奥宮に向かうことにする。大山寺の本堂の横からも道があるようだが、雪に閉ざされている。試しに一歩足を踏み入れたのだが、膝の下まではまってしまった。さすがに雪中行軍は無理で、いったん石段の下まで戻り、改めて鳥居をくぐる。

かつての神仏習合の名残かなと思うのは、鳥居から内側にも地蔵菩薩像があり、石畳の参道の途中にも奥宮までの距離を示す丁石として地蔵菩薩が立てられている。また、磨崖仏のように彫られた阿弥陀如来像もある。神仏分離とはいってもこちらでは廃仏毀釈はそれほど行われなかったようだ。

銅の鳥居があり、かつての本坊である西楽院跡を過ぎる。そして「後向き門」を通る。最初に見た感じでは「どこが後向き?」と思ったが、門の閂が奥宮の外側に来るように扉が取りつけられたことからその名がついたそうだ。なぜそのようにつけられたのかは諸説あるようだ。

そして到着した大神山神社奥宮。大山は修験者の修行の場であったが、大山寺はその遥拝所でもあった。神仏習合の考えとして、大山の山岳信仰の神である智明権現を祀り、その本地仏として地蔵菩薩があった。神仏分離において、地蔵菩薩が切り離されて現在の大山寺の本堂(かつては別の名前のお堂だったようだ)に移され、大神山神社の祭神は大己貴神(大国主神)となった。なお、ここは「奥宮」と呼ぶが、さすがに冬の大山は今よりも雪深く、お勤めが厳しいということで麓の尾高にもう一つ社を立てて「冬宮」と呼んだ。現在の「本社」はそちらにある。

奥宮の現在の社殿は江戸時代の再建で、権現造り。中には入れなかったが、天井画の花鳥風月が有名だという。大山寺は無人だったがこちらには係の人もおり、お守り、朱印その他も受け付けている。

大山寺で訪ねたいスポットがあった。金門と賽の河原。大山の北壁を望み、かつての僧兵たちの修行の場であり、現在もパワースポットとして人気という。神社や大山寺の本堂奥から標識が出ていて道は続いているようだが、根雪に阻まれている。これが冬の姿で、石畳の参道だけ参詣者のために除雪されているのかなと思う。仕方なく、大山寺の境内下からその河原の下流だけ眺める。

これで大山寺、大神山神社と回って今回の中国観音霊場めぐりの目的は達成。参道を下り、土産物を物色したり、大山自然歴史館を見学してバスの時間を迎える。

10時45分発の米子駅行きで大山寺を後にする。やはりこちらが大山観光の表玄関で、観光道路沿いにレジャー施設も点在する。駐車場にも多くのクルマが停まっていて、春の自然を楽しんでいるようだ。もっとも、バスの窓から振り返る大山はあるところから上は雲に覆われて、2日間通してその姿を仰ぎ見ることはできなかったのだが・・・。

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