まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第7回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~黒田官兵衛、奥平氏ゆかりの中津城へ

2023年03月28日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐり、第19番の普門院、そして赤壁の合元寺に参詣した後、中津城に向かう。山国川に面したところに黒田官兵衛により築城され、現在の天守閣は1964年に再建された鉄筋コンクリート造りの模擬天守である。模擬天守といえども50年も経てばそれなりの風格が出るもので、往年の姿もイメージできる。合元寺の血染めの赤と、天守閣の黒が中津の象徴のように見える。

その天守閣の土台となる石垣だが、築城した黒田官兵衛が普請したものと、その後に入城した細川忠興が普請した石垣が混在しており、それを継いだ境目を見ることができる。画像でいえば、右側が黒田官兵衛、左側が細川忠興によるものだという。

中津城は黒田官兵衛・長政、その後は細川忠興・忠利が城主となり、大坂の陣の後に細川忠利が肥後に移った後には小笠原氏、そして江戸中期からは奥平氏が藩主となった。

黒田官兵衛関連の資料館がある。豊前の国を与えられた官兵衛の豊前平定(その中に、赤壁合元寺で抵抗した宇都宮鎮房との戦いもある)や、中津城の築城、そして関ヶ原の戦いに乗じた自らの九州での勢力拡大・・について触れられている。ここに築城したのは周防灘に面していることが大きく、周防灘~瀬戸内海を経由した早舟のネットワークが構築できるのが大きかったそうだ。官兵衛は豊臣、徳川の対立に乗じて自らの勢力を拡げるべく豊後にも進軍したが、関ヶ原の戦いがまさかの1日で決着がついたことで目論見が外れ、しぶしぶ軍を退き、後は筑前福岡にて隠居生活となる。

さて、天守閣であるが、手前にあるのは奥平神社。江戸中期から中津藩主となった奥平氏の神社である。天守閣の建物も現在は別法人により運営されているが、元々は事実上奥平氏の持ち物のようで、天守閣も「奥平家歴史資料館」という位置づけのようだ。

天守閣に入る。最初に目に入るのが、大分出身の横綱・双葉山の化粧まわし。あしらわれている軍配の絵柄は奥平氏の家紋だという。

その後は奥平氏に伝わる甲冑や、築城した黒田官兵衛関連の展示が続く。大河ドラマ「軍師官兵衛」の放映当時は城内の整備も行われ、先に訪ねた資料館もできたという。

天守閣内の一角に、長篠の戦いに関するコーナーが設けられている。合戦の屏風絵(模写?)も展示されている。中津城で長篠の戦いとは・・?というところだが、藩主の奥平氏の元をたどると、徳川家康の家臣(武田勝頼から寝返って)で、長篠の城主でもあった奥平信昌につながる。この信昌は武田勝頼による長篠城への攻撃に籠城し、織田・徳川の連合軍が駆け付けるまで持ちこたえ、そして三千丁の鉄砲で武田軍を壊滅させるのに貢献した。そのこともあり、家康の娘を正室に迎えた。その後奥平氏は宇都宮や宮津の藩主を経て、中津藩に入る。

別の階では、奥平氏が蘭学にも力を入れていたことが紹介されている。その中津藩が輩出した中に、「解体新書」にも携わった藩医の前野良沢もいる。

最上階に出る。外の通路に出て、中津の街並みを見下ろす。山国川の河口の先の周防灘も見ることができる。

・・さて、天守閣内の展示も一通り見たが、先ほど中津駅でいろいろ見かけた福沢諭吉についてはほとんどといっていいほど取り上げられていなかった。近くに旧宅跡を活用した資料館があるからと思うが(共通券も販売されている)、あえて一線を画しているようにも見える。

福沢諭吉自身は中津といっても大坂にあった中津藩の蔵屋敷勤めの下級藩士の家に生まれ、父親の死去にともない中津に移ったのだが、少年の時はその言動で周囲からは変わり者、厄介者扱いをされていたという。そして青年となり、勉学を志して長崎、大坂、江戸に向かうのだが、諭吉当人は中津に戻る気はさらさらなかったそうだ。旧態依然とした国を見限ったともいえる。中津に対する思い入れもほとんどなかったように思われる。

そして時代を経て、1万円札の肖像画にもなったことで中津は福沢諭吉ゆかりの地としてPRし、駅前にも巨大な像が建つ。諭吉本人がその様子を見たらどういう感想を持つだろうか。

その中で中津城があくまで藩主・奥平氏側、そして築城した黒田官兵衛の視点での展示だったことは、下級武士のくせに中津を見限った福沢諭吉への対抗心が出ているように思った。廃藩置県の際に城の建物をことごとく破却するよう進言したのが諭吉だったことも関係しているのかな・・。

別に、中津に思い入れがなかった福沢諭吉関連のスポットは見る必要もないなと思い、中津城を後にして次の札所を目指すことにする・・・。

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