臼杵の高野山・興山寺を参詣した後、せっかくなので臼杵の城下町に向かう。かなり以前に一度訪ねたことがあるように思う。臼杵といえばどうしても石仏が有名だが、地元では城下町エリアもPRしている。かつて、「水曜どうでしょう」の第1貝サイコロの旅で「謎のまち 臼杵」という選択肢が出て、愛媛からフェリーで臼杵に上陸というのがあったが、八幡浜~臼杵のフェリーは今も健在である。
中心部の駐車場にレンタカーを停め、向かったのは臼杵城跡。臼杵城が築かれたのは戦国時代、大友宗麟による。以前は大分の府内大友館を本拠地としていたが、毛利氏との戦いに敗れ、また府内大友館では既存勢力が鬱陶しかったこともあり、新たに臼杵湾に浮かぶ丹生島に城を築いた。海に囲まれた天然の要塞で、その後、島津氏との激戦も繰り広げられた。
大友氏は宗麟の次の義統の代に秀吉により改易となり、関ヶ原の戦いの後、臼杵には稲葉貞通が入り、海につながる堀も埋め立てて現在につながる城下町の整備を行った。以後、稲葉氏が藩政を担ったが、明治維新により城は一部を除いて取り壊しとなった。
まず、曲がりくねった登城路を行く。馬具の鐙に似ていることから鐙坂と呼ぶそうだ。何でも岩盤崩落の恐れがあるとかで、現在は補強が行われている。
大友宗麟のレリーフもある。西洋風の椅子に腰かけ、鉄砲を手にしている。背景には南蛮船や十字架も描かれており、キリシタン大名としての宗麟のキャラクターを表している。
臼杵城跡は現在は桜の名所である公園として整備されており、また中心には稲葉氏歴代藩主の霊や戦没者の霊を祀る護国神社が鎮座する。城跡に神社が鎮座するのも各地で見られる景色である。
さて、城下町に行ってみる。こちらにも「う」+ハートマークでの「うすき」の文字が見える。まずは昔ながらの商家が並ぶ「八町大路」を歩く。
その中に「カニ醤油」というのがある。「カニ」といっても「蟹」ではなく「可児」である。創業は関ヶ原の戦いがあった慶長5年(1600年)で、当時美濃の領主だった稲葉貞通が臼杵に移るにあたり、先に視察に出た家来の一人が、味噌、醤油の商いを始めたという。「可児」とは美濃の地名からである。以後、九州最古の味噌・醤油屋として、その流れには九州で名の通ったフンドーキン醤油などがある。
醤油を使ったソフトクリームが人気で、家族連れなどが店頭で手にしていたが、私としてはやはりこういうのを目にしたら、味噌、醤油は日常で口にするものだからと土産として購入する。生醤油のボトルのほか、冷奴用のミニボトル、そして、即席味噌汁。そこに、臼杵の福良八幡宮にて疫病退散の祈願を行った後の即席味噌もおまけでついてきた。味噌汁はその後2~3回いただいたが、結構味わい深い。
そのまま進むと「ニ王座歴史の道」に出る。阿蘇の火山灰が固まってできた凝灰岩の丘で、道を通すためにあちこちの岩を削り取った。ちょうど切り通しができており、近くの寺、武家屋敷などと合わせて風情のあるところだ。
そうかと思うと、キリシタン大名だった大友宗麟にちなんでか、教会風の建物も点在する。こうしたところも人々の交流スポットになっている。
九州西国霊場めぐりで臼杵に来た時には、どちらかといえば石仏に近い郊外の温泉宿に泊まったが、こちらの城下町エリアで1泊というのもよかったかもしれない。今回は札所が点在している分、大分からレンタカーを使い、臼杵より南の佐伯で泊まり、翌日の夕方に大分まで戻る。ただ、この辺りの鉄道に乗れないのが心残り・・。
そのまま駐車場に戻り、臼杵を後にする。臼杵駅に立ち寄ることもなく、国道217号線を行く。次に訪ねるのは津久見の第29番・海岸寺である・・・。