伯耆溝口から長昌寺、枡水高原を経て大山寺に向かう。中国観音霊場めぐりで訪れ、その時は大山寺にほど近いリゾートホテルで1泊した。季節は3月中旬。下界は春の様相だったが大山寺近辺は日陰にはまだまだ雪が積もっていた。
中国四十九薬師霊場めぐりとは言いつつも、それ以外の寺社でもぜひこの機に訪ねてみたいところがあるもので、大山寺も正にその一つである。
ナショナルパークセンター近くの大駐車場に軽自動車を停める。ナショナルパークセンターは大山寺のバス停でもあり、登山客向けの情報提供や休憩室・シャワー室を持つ。登山客らしい人、大山一帯を自転車で回ろうという人の姿も見える。大山寺方面からもぞろぞろと下山する姿も目立つ。早朝から上り、昼過ぎはちょうど戻って来る時間帯なのかな。この日は稜線の姿をはっきり捉えることができる。
山門に到着する。中国観音霊場めぐりで訪ねた時は、3月ということで納経所が閉まっており、山門のところに書き置きの朱印が収められたケースが置かれていた。中国観音霊場めぐりの時は墨書式の納経帳で回っており、住職不在で墨書ができないと言われ、後日改めて出直した札所もあった。しかしコロナ禍以降、ちょうど島根県から鳥取県に差し掛かる中で、コロナを理由に頑として納経帳を預かろうとしなかった札所に遭遇し、その時点で書き置きもやむなしとなった。そこに来て、大山寺は冬季休業・・。
そんなことも思いつつ、春の装いの境内を歩く。中国観音霊場の本尊である下山観音堂に立ち寄り、その後に本堂に向かう。寺としての本尊は地蔵菩薩だ。
薬師霊場めぐりとか、このお堂の本尊は何々だと言っているが、大山そのものが古くから山岳信仰の対象であり、さまざまな言い伝えも残されている。大山寺が開かれたのは奈良時代、金蓮という人物によるとされる。元々は出雲の玉造の人だったが、ある日、金色の狼を追って山に入り、矢を射かけるとその前方に地蔵菩薩が現れ、信心の心が起こり矢を捨てた。そして出家して大山に入ったという。
また別の言い伝えでは、天空のかなたから兜率天の角が地上に落ちてきて、3つに割れたという。その一つが熊野山、もう一つが金峯山、そして最後の一つが大山になったと言われている。
平安時代に神仏習合の考えが広まると、大山地蔵権現を大智明菩薩とする勅命が出て、本尊は大神山神社に祀られ、現在の大山寺はその別当の役割を果たしていた。しかし明治の神仏分離により地蔵菩薩は大山寺に戻り、そして現在に至る。
・・まあ、長々書いたが、大山寺まで来たならその先の大神山神社奥宮まではお参りしようということだ。本堂の横から奥宮への参道に出る。江戸時代に整備されたという自然石の道である。こうした参道の脇にも石仏があるし、岩に彫られた地蔵菩薩もある。こうしたところも神仏習合の名残である。
銅の鳥居を抜けたところに御神水がある。先ほどまで奥大山の天然水が入っていたサントリーのペットボトルに入れさせていただく。これぞまさに大山のめぐみ・・。
奥宮の境内に入る。石段の向こうに立派な建物が見えるが、足場材で覆われている。昨年から社殿の修復工事を行っているとのことだ。そして御祭神は隣接する下山神社にいったん遷宮して祀られているとのことで、改めてそちらにて手を合わせる。
ここで折り返し、帰りは「賽の河原」がある金門に向かう。前回来た時は途中の雪道に阻まれてたどり着くことができなかったところ。ちょうど大山の北壁を仰ぐポイントである。
その北壁からくずれた石が無数に堆積している。いつの頃からか、河原のあちこちで石が積まれているのを、「賽の河原」として地獄の責め苦の一つとされているが、明るい青空の下で見る限りでは心霊スポットとも、おどろおどろしいスポットとも感じない。
いつしか、こういう怪獣を思わせるような形に積まれた石もある。そこに私も一つ置いてみよう。
順序が逆になったが、大神山神社の鳥居に着く。右に山門、左に鳥居というのも神仏習合の名残である。中国四十九薬師めぐり(直接薬師如来は祀っていないが)にも一つアクセントがついた。