まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第19番「鞍馬寺」~新西国三十三所めぐり・9(白龍園見学)

2016年05月10日 | 新西国三十三所
そもそも「鞍馬寺に行きました」という記事なのだが、鞍馬寺に行くまでが主目的になったかのような今回の札所めぐりである。朝の5時半に自宅を出て、8時前に出町柳に着いて、駅で1時間以上待って観覧券を購入して、叡山電車に揺られて・・・9時45分に二ノ瀬駅に到着。ここまでですでに4時間が経過している。

それはさておき、静かな山里の駅である二ノ瀬で下車し、静かな集落を5分ほど歩くと白龍園の入口に着く。開門は10時からということで、やってきた10人あまりの人たちとしばらく待つ。

開門まで少し時間があるので少し歩くと、叡山電車の鉄橋に出る。先ほど、「青もみじのトンネル」として抜けてきたところだ。ならばということで、そのトンネルを行く列車を下から見上げたところをカメラに収める。まあ、撮り鉄は専攻分野ではないのでこの程度の図であるが。これも紅葉の時季なら実に見事な景色となるのだろう。

10時に「お待たせしました」とゲートが開けられる。待っていた人は粛々と入場すると、次の瞬間からこれでもかというくらいカメラでいろんなものを撮影する。

まず観覧者を出迎えるのは大きな石灯籠。元々江戸時代に上野の寛永寺に寄進されていたものを後に譲り受けたものだという。ここにも苔ができており、風格を感じさせる。

そして庭園へ。一面青もみじが映えており、石段を含めて苔むしている。

園内には五つの東屋がある。中に入るとちょうど外枠が額縁の枠の役目となり、その間から飛び込む緑が何とも言えない。今の青もみじでこうだから、紅葉の時はもっと見事に映るだろう。一般に公開されているところなら、この東屋の中も人でごった返すことだろう。

電車の音が聞こえる。先ほどの「青もみじのトンネル」のすぐ横が白龍園である。木々の間に電車が通る様子も見える。

この白龍園の「白龍」だが、山の祭神である「白髭大神(商売繁盛)」と「八大龍王(不老長寿)」からそれぞれ一字をいただいた。庭園の奥には神社があり、参拝することができる(祠は撮影禁止)。山々に神仏が宿るとされている鞍馬の風情によく合っている。その参道の奥に入ることはできないが、苔むした石段や灯籠が神秘的な風情を醸し出している。

元々は何もないただの山だったそうである。ここをおよそ50年前に譲り受けた青野株式会社の創業者は、山を整地し、石を配置したり東屋を建てたりして、庭園の整備を自らと従業員の手で行った。そして当初は限られたゲストだけに公開していたそうだ。それはそうと、そもそもここに庭園を造ろうという発想に至ったのはどういうことからか。また庭を造るのならプロの庭師に依頼するところを、社長自ら、そして従業員の手で一から造ったのはなぜか。案内には書かれていないが、何か社是を反映しているとか、社員教育の一環といったものが背景にあるのかもしれない。ただ、この庭園を造った青野株式会社のホームページなどを見ても、その手がかりはわからなかった。

後の列車でやって来た人もいるが、朝の時間帯では30人もいない数の観覧者で、混雑することもなくゆっくりと散策することができた。朝から並んだだけのことはある。こうなると今度は紅葉の時季にどのような風景になるのかが気になるが、もし訪れることができればまた来たい。もっとも、秋は早くから出町柳駅に行列ができるそうだから、無事100人の中に入れるかどうか。

1時間ほどの観覧を終え、お腹いっぱいになった感じもしつつ二ノ瀬駅に戻る。そうそう、本日の第一の目的地である鞍馬寺に向かうのである。ここからが札所めぐりの本題ということで・・・・。
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第19番「鞍馬寺」~新西国三十三所めぐり・9(1日100人限定の庭園へ)

2016年05月09日 | 新西国三十三所
客番を入れて38の札所がある新西国三十三所。今年の1月から始めてここまでそのうち8つを回っている。前回の金剛寺・観心寺という河内長野の南北朝・楠木正成に続いては、源義経ゆかりの鞍馬寺である。いずれも日本人好みのヒーロー像。

行くなら5月の連休を使うことにしよう。まだ先日の名松線の旅行記も出来上がっていないが、連休中日の4日に出かけることにする。天気予報では前日夕方から雨だが、4日は回復に向かうとか。鞍馬寺は山のコースになるので、雨は避けたいところだ。行くとすれば、鞍馬寺の後は奥の院を経由して貴船神社へ抜けるというのが定番コースである。だいぶ昔にこのルートを通ったことがあるが、久しぶりのお出かけとなる。連休で混雑するだろうが仕方ないだろう。

ただせっかくなので、これまでの巡礼と同じように札所以外に何か「もう一品」をつけ加えたい。京都の市街地に行くか、下鴨神社や上賀茂神社という神社路線に行くか。ただ、今回鞍馬へは叡山電車で行くのだから、1日乗車券を購入して途中下車するのがいいだろう。

沿線の観光案内ということで叡山電車のホームページを見ていると、「沿線行事」のページで「白龍園 春の特別観覧」というのを見つけた。3月26日から5月31日まで限定で公開されているとのこと。初めて聞く名前なのと、「期間中は1日100人限定で公開される」というのが気になる。そこでネットで調べてみると「レアスポット」「誰も知らない京都の紅葉穴場」などという見出しが並ぶ。

この白龍園というのは、子供服を扱う青野株式会社が所有する庭園で、長年従業員の人たちが手入れをしていたもの。2012年の秋の紅葉時期に初めて限定で公開したところ評判となり、秋だけではもったいないという声に応える形で翌年の春にも限定公開した。以後、毎年春と秋に公開しているのだが、1日100人限定だという。どこぞの物置なら100人乗っても大丈夫だが、白龍園には100人しか入れない。ゆっくりと鑑賞してほしいということもあるが、人数を限っているのは園内の植物、中でも地面にある苔の保護のためだという。なお、この100枚の観覧券は現地で買うことはできない。叡山電車の出町柳駅でしか買えないし、それも事前予約はできない。当日朝の9時から13時までの限定販売である。観覧券のみは1300円、叡山電車の1日乗車券つきで2000円。現地に駐車場がなく、アクセスは叡山電車の二ノ瀬駅から徒歩のみということでこういう仕組みになっている。1300円を高いと見るか安いと見るかはそれぞれだと思うが、営利目的での公開ではなさそうとは言え、1年間の庭の保護にかかる費用を考えればこのくらいは取るのかな。

3月の末から公開というのは桜の時期を意識してのことで、5月は桜はないが新緑が期待できそうだ。ということで、「もう一品」は白龍園に行くことにする。

ただ気になるのはやはり「100人限定」である。100人を多いと見るか少ないと見るかだが、他の人のブログ記事、旅行記を見ると、紅葉シーズンの公開だと、早朝から行列ができ、発売開始の9時にはすぐに完売になるという。叡山電車も「購入は1人1枚(お連れの人の分は購入できない)」、「お連れの人が先に並んでいるところへの割り込み禁止」などの注意事項を出すとともに、行列が長ければ整理券を配ることもあるそうだ。まあ、紅葉でも桜でもない時期なのでそこまでの混雑はないだろうが、何せ連休中である。洛北にも多くの観光客が訪れることだろうから早めには行ったほうがいいだろう。

・・・ということで、朝から京阪電車にて出町柳に到着。時刻は7時45分。雨雲は早い時間に抜けており、雲一つない快晴である。出町柳にも多くの観光客の姿が見えるが、この時間は電車よりも大原方面、あるいは比叡山方面に向かう人が多そうだ。

駅構内の柱に、白龍園の観覧券の購入列の先頭を示す札があった。前にはカップル1組がいるだけで、これなら楽勝で購入することができる。まさか9時の時点で100人来て完売になるとは思わないので、1時間以上の待ち時間でどこか散歩でもすればいいのだが、初めてのことなので余計なことはしないほうがいいだろう。結局、そこに座り込んで読書の時間に充てる。8時を回り観光客の姿も増えてきたが、行列はほとんど伸びない。

結局9時の時点で並んでいたのは20人ほど。係員が行列をそのまま有人改札に誘導し、ここで観覧券単独か1日乗車券つきかを一人ずつ購入し、そのままホームに通される。私が手にしたのは1日乗車券つきで、二ノ瀬で下車、次は終点鞍馬まで行き、帰りは貴船口から乗ることでトントンというところである。ちょうど9時発の展望車両「きらら」号が出たばかりで、ホームでしばらく次の列車を待つ。

やってきたのは普通の2両編成の列車。立ち客も出る混雑だったので、先頭の運転台の後ろに陣取る。二軒茶屋までは複線区間で、そこから先は単線。洛北の山々が周りに迫ってくる。

市原を過ぎると、「これから青もみじのトンネルを抜けます」との案内放送があり、しばらく徐行運転となる。叡山電車の一番の見どころの車窓で、乗客も一斉に外を見やる。叡山電車といえばどうしても紅葉で注目されるが、こうした新緑の時期というのもよろしいものだ。

青もみじのトンネルを抜けると二ノ瀬に到着。鞍馬まであと2駅のところだが、白龍園の最寄駅ということでまずは下車する。

二ノ瀬は行き違い設備があり、ここで対向列車の待ち合わせ。15分前に出た展望車両「きらら」が鞍馬からの折り返しでやって来た。うーん、できればあれに乗りたかったのだが・・・。
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名松線沿いを歩く

2016年05月08日 | 旅行記D・東海北陸
無料の臨時バスで伊勢奥津駅に戻る。次の列車が出るまで少し時間があるので、駅前を散策する。ここもかつての伊勢本街道の宿場町で、地区の人たちがおもてなしと町起こしのために、玄関にのれんを掲げる家が多い。たかがのれんかもしれないが、これがあることで町に彩りや生活感が醸し出されるようだ。

駅前を見るだけなら列車に間に合うのだが、ここでふと、この先線路に沿って歩いてみようという気になった。美杉のパンフレット地図を見ると、名松線には県道15号線が並行していて、駅も県道に沿って設けられている。次の列車までの時間、2つ先の伊勢八知までなら歩けるだろう。時刻表の営業キロは6.9キロで、地図で見てもそのくらいの距離はある。ここまでなら行けるだろう。さすがに次の伊勢鎌倉(名松線の中で最も秘境駅らしいところ)までとなるとしんどいかな・・・。

ということでそのまま伊勢奥津の宿場を抜ける。このまま進めば伊勢本街道で多気に行くのだが、途中で道を折れて雲出川にかかる橋へ。ちょうど列車が伊勢奥津を出たところで、川沿いに走る車両をカメラに収める。

相変わらずの晴天で、暑くもなく歩くにはちょうどよい。どうせなら多気から伊勢奥津まで伊勢本街道を歩くのがウォーキングとして面白いのだろうが、線路沿いというのも、列車からとはまた違った角度で景色を見ることができていいだろう。列車が再び走るようになって1ヶ月が過ぎたが、下手をすれば「廃線跡歩き」になるところだった。

伊勢奥津の駅から1時間ほどで次の比津に到着。県道から少し高台にある駅だ。上り下りとも列車の時間はまだまだあるが、ここで撮り鉄2名に遭遇。ここからだといい角度で写真が撮れるのだろうか。

比津から伊勢八知までは、来る時には土砂災害の跡が見られた区間である。人家もほとんどなくなり、雲出川沿いの道を歩く。修復された箇所も川の向こうに見ることができる。ただ今も石や木々が散乱しているし、爪跡が残っている。

鉄道で土砂災害といえば、4月に発生した熊本地震の被害を思い浮かべる。16日の本震で、南阿蘇村で国道の橋が崩落した映像が繰り返しテレビで流れていたが、その中で線路も土砂に埋まっていた。JRの豊肥線である。また、南阿蘇鉄道も地震で大きな被害を受けた。復旧にはどのくらいの期間がかかるのか、いやそもそも復旧できるのかというところである。JRは熊本と大分を結ぶ路線ということもあっていずれは復旧されるだろうが、南阿蘇鉄道はどうなるのか。

近年、災害のために廃止を余儀なくされる鉄道路線が相次いでる。東日本大震災での津波被害を受けたJRの気仙沼線、大船渡線(気仙沼~盛)は鉄道での復旧を断念し、BRTでの本復旧ということになった。同じ東北では土砂災害で岩泉線、また九州では高千穂鉄道も廃線となった。この流れだと名松線の家城~伊勢奥津もそうなる運命かと思われたところ、無事に残された。今は復旧後のフィーバーのようなものだから乗客も多いが、せっかく残った路線、これからも安定した利用が望まれる。また季節を変えて乗りに来たいところである。

森を抜けて集落が見えてくると伊勢八知駅が近い。今度は伊勢奥津行き列車がやってくる。ちょうど鉄橋を渡る車両をカメラに収める。あの列車が伊勢奥津まで行き、折り返して来る列車に今度は乗ることになる。伊勢奥津から1時間40分ほどで到着した。

駅前のコンビニで昼食を買い求め、駅のベンチで食事とする。美杉の木を利用した、地元のコミュニティセンターを併設した建物である。

伊勢奥津から列車がやって来た。行きに乗ったのと同じキハ25である。座席は満席で立ち客もいる。先の列車でそのまま折り返した人や、1本前の列車で来て無料の送迎バスで北畠神社を訪れた人、それぞれ楽しんだ様子である。

家城で列車の行き違い。名松線は全国でも珍しい「通票」を使っており、同線で唯一の行き違い設備のある家城でやり取りする。

松阪に到着。名松線の旅はこれで終了となり、まだ明るい時間だが近鉄で帰路に着く。行きはしまかぜとビスタカーの乗り継ぎだったが、帰りは伊勢志摩のもう一つの看板列車である伊勢志摩ライナーだ。こちらもデラックスシートに陣取る。同じような連休帰りの乗客で満席だった。

5月には伊勢志摩サミットが行われることもあり、三重県が注目されているようだ。今回は松阪、名松線というところだったが、三重県は南北に長い。また今度はエリアを変えて訪れたいものである・・・。
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伊勢奥津から北畠神社、伊勢本街道

2016年05月07日 | 旅行記D・東海北陸
名松線の終着駅・伊勢奥津。3月に運転再開した区間の乗車を楽しんだ後、せっかくだからと、駅前に停まっていた津市が運行する臨時無料バスに乗る。終着駅のさらに先に行けるとは旅の思わぬ面白さである。

ただ実は、このバスがあることについては、当日の朝にホテルで朝刊を読んでいた時に、地方面に載っていたのをちらりと目にしていた。津市のホームページでは数日前から告知していたようだが、そうした情報に触れることはなかったし、北畠神社とか多気(たげ)の集落の存在自体これまで知らなかった。

2台合わせて7~8人の乗客で伊勢奥津から出たマイクロバスは、10分ほどで道の駅美杉に到着する。ここでしばらく停車した後、北畠神社に向かう。途中、大和の長谷寺から伊勢神宮に向かう伊勢本街道の宿場町と交差する。この多気は、伊勢奥津の次の宿場である。

北畠神社に到着。折り返しのバスは1時間20分ほど後だが、この辺りを散策しながら道の駅まで戻り、そこでバスに乗るのが効率的だろう。パンフレットでは神社の奥の山上に霧山城跡というのがあり、歩いて往復1時間半のコースだという。バスは列車ダイヤに合わせておよそ2時間おきに運行されているので、もう一本後に乗るつもりなら山城に登るのもいいだろう。でもまあ、町を歩いて折り返しのバスに乗るのがちょうどよさそうだ。

神社の鳥居の写真を撮っていると、「お話しよろしいですか?」と声をかけられる。先ほど伊勢奥津の駅にいたカメラマンと記者らしき二人組である。「三重テレビなんですが、バスの感想などお聞きしたいので」と言われる。私でいいのかなとも思うが、せっかくなのでお受けした。テレビのインタビューを求められるのは、人生2回目のことである。鳥居をバックに撮りましょうと言われ、その前に立つ。

訊かれた内容は、「どこから来たのか」からはじまり、「津市がこのバスを走らせるのは知っていたか」「こうした試みについてどう思うか」「また乗ってみたいか」というもの。バスの存在を知ったのはつい先ほどのことだが、バスがあったから多気や北畠神社の存在を知り、訪ねることができた。こういうバスにはまた機会があれば乗りたい・・・ということを少しお話しした。取材の内容からすれば三重テレビのローカルニュースとか、津市の広報番組というところだろう。ただ大阪では三重テレビは見られないので確かめようがないが。

さて参拝である。神社が建つのはかつて北畠氏の館があった場所である。霧山城は合戦時の拠点で、平時は館にいたのだろう。南北朝時代にこの地に拠点を置いたのは北畠顕能という人。南北朝の戦いで名前が出る北畠親房の子であり、北畠顕家の弟である。親房は「神皇正統記」を著すなど南朝のブレーンだったし、顕家は足利尊氏らと何度も激戦を繰り広げた末に討ち死にし、北畠といえばガチの南朝方である。その中で顕能も伊勢を拠点に南北朝時代の後半は南朝方の中心として北朝に対抗していた。ただ、彼の死により軍事的中心を失った南朝方は強硬路線から和平路線に転換せざるを得なくなり、その9年後に南北朝統一ということになった。

室町時代といえば北朝方の守護大名が全国に勢力を伸ばしたが、その中にあって伊勢は南朝方の顕能の家系が長く治めていた。ゲームの「信長の野望」では、伊勢を領有している大名として北畠具教というのが出てくるが、彼は顕能の末裔である。最後は織田信長により倒される。

北畠神社は顕能を祀る神社であるが、その境内にある像は顕家のもの。まあ、こちらのほうが有名だし、顕能という人の名前は、私も当日ここに来て初めて目にしたくらいである。祭神としては顕能をメインとして、サブに親房・顕家を祀るように置かれている。

拝殿にて参拝。拝殿そのものは小ぢんまりとしたものだが、地元の人たちには広く親しまれているような感じである。

拝殿の脇に「建武中興十五社」の立札がある。建武中興に力を尽くした人物を祀る十五の神社である。いくつか並べると、吉野神宮(後醍醐天皇)、八代宮(懐良親王)、湊川神社(楠木正成)、藤島神社(新田義貞)、阿倍野神社(北畠親房・顕家)、四条畷神社(楠木正行)といったところが並ぶ。十五社そのものはいずれも現在では由緒があり広く親しまれているところなのだが、この旅行記を書く中でネット記事をいろいろ見ると、十五社のほとんどは明治以降に神社として創建されたものだとわかる。中には寺の一角にあったお宮が、例の神仏分離・廃仏毀釈の施策により神社化・神格化されたものもある。その中にあってここ北畠神社は、江戸時代の初期・寛永年間の創建ということで最も古い。元々地元ゆかりの人を祀っていたのが、明治になってさらに祭り上げられたといったところだろう。

北畠神社の一角には北畠氏館跡庭園がある。顕能から時代は下って室町後期に、北畠晴具の義父・細川高国によって築かれたという。ここは有料エリアで、社務所で見学券を購入して、木戸を押して入る。時期として新緑に向かうところで、緑が鮮やかである。紅葉の時期はもっと美しいだろうと思う。自然の地形を武士らしく素朴に活かした造りとされているが、石の配置や川の流れも、伊勢の山奥(失礼!!)にいるとは思えない。この神社と庭園を見に来ただけでも、時間をつくって臨時バスに乗っただけの価値はあった。

帰りはひとまず道の駅まで歩くことにする。来る途中の道にあった美杉ふるさと資料館を見学する。資料館は二重の円周ゾーンになっていて、外周では美杉の自然や、現在の美杉に直接つながる民俗史料が並ぶ。民俗史料そのものはあちこちにあるもので、農業、川での漁業、そして林業で使われたさまざまな道具が並ぶ。個人的に目を引いたのは、昭和20年代か30年代だかの相撲の巡業のポスター。横綱・東富士を中心に朝汐や松登といった名前が並ぶから、高砂一門の巡業である(当時は今と違って一門別で巡業を行っていた)。

内側のゾーンでは顕能に始まる伊勢北畠氏の歴史紹介で、霧山城下の絵図なども展示されている。伊勢の中心といえば現在の県庁のある津や、ここから近い松阪といった平野部のイメージがあるが、中世の頃は守りのことも考えてこうした山の中というのがあったのだろうか。まあ、吉野や京都に出ることを考えれば、なるべくそちらにも近いほうが有利だったのかもしれない。

この多気は伊勢本街道の宿場町である。奈良から長谷寺を経て伊勢神宮に向かうものだが、地図によれば長谷寺からはほぼ真東に山の中を突き抜ける感じである。現在のルートでいえば国道369号線、368号線などの道路があるが、難所ルートと言われている。そのせいか鉄道はこのルートを避けて北側の街道に沿うように造られた。多気には昔の宿場町風情を残す町並みや常夜燈が残されている。

ちょうど5月、川を挟んで鯉のぼりが青空を泳いでいる。1時間あまりの散策だったが、なかなか良いところだった。臨時の送迎バスは連休期間の5月8日までの運転とのこと。エリアは違うが、運転再開直後は桜の時期ということもあって、「三多気の桜」を見る臨時バスも出ていた。今度は先ほどの北畠氏館跡庭園の紅葉を目当てに・・・というのもあるかもしれない。ただ、行った先でバスが手持ち無沙汰なようにも見えたから、往復型もよいが美杉地区のスポットを巡回型で回るルート設定もいいかなと思う。

道の駅に到着し、簡単な食事と土産購入の後でやって来た帰りのバスに乗る。伊勢奥津駅に戻るとちょうど次の列車が到着したところで、駅前には先ほどよりはるかに多い観光客の姿があった。私たちと入れ替えでバスに乗り込むが、あっという間に2台とも満席になったようだ。一方ホームでは、今から気動車を出ようという人もいる。ワンマン運転で、伊勢奥津でも出口は運転手後ろの一ヶ所だけのため、処理に時間がかかっているようだ。キハ11の2両編成だが、すし詰め状態だったのではないだろうか。

これからの予定では、この列車に乗ってどこかの駅で途中下車する。それまでの間、伊勢奥津の駅前をしばらくぶらついたのだが・・・・。
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名松線に乗る

2016年05月05日 | 旅行記D・東海北陸
5月1日、ホテルでの朝食を済ませて名松線に乗車する。朝の松阪駅は雲もほとんどない晴天で、これからが楽しみである。雨なら雨で風情を感じるところだが、やはり出かけた時は晴れていたほうがうれしい。

日曜日の朝ということで駅にいる人もそれほどではないが、早くにホームに出る。名松線の松阪からの始発は7時32分とのんびりしたものである。この列車は途中の家城行きで、家城で終点の伊勢奥津行きに接続している。そのまま折り返してもいいのだが、せっかくなのでどこかで途中下車するとかしてみたい。帰りの近鉄特急の時間もあるが、折り返し列車から2本までは落とせるようにしている。

待つ間、ホームには参宮線の伊勢市行きが到着する。その姿を見てありゃりゃと思う。JR東海型の気動車・キハ25だが、東海道線などを走る電車を含めて、外観がどれも同じ、無個性・無表情に見えるあのタイプである。そして中を見るとオールロングシート。今年3月のダイヤ改正でJR東海から国鉄型の気動車は全て引退したのだが、次に来たのがこの車両とは、地元の人たちもびっくりだろう。まあ、きれいな都会風の「電車」はある意味サービス向上と言えるが、ただこれが紀勢線や高山線の長距離列車として使われているのかと思うと、今後青春18きっぷなどで鈍行の旅をするのもしんどいなと思う。下手したら、新宮から西の区間と合わせて紀伊半島一周も大半がロングシート車両での移動となるわけで・・・。

さて名松線、家城からの列車がやってきた。こちらはJR東海型でもキハ11の第二次タイプ。これはボックス席とロングシートが並ぶ車両。意外にも2両での運転である。運転再開後、連日多くの乗客が利用しているということもあるのかな。発車時にはボックスに1~2人が埋まるくらいの乗車率だったが、私と同じように「乗りに来た」様子の人が多い。

並走する近鉄、紀勢線と分かれ、平野を行く。周りではちょうど田植えの時季。水を張った田んぼに周りの景色が映し出される。一志に到着すると部活動の高校生の他にハイキング姿の人も見え、2両の座席も8割ほどが埋まる。この旅の初めの記事でも書いたが、一志は近鉄の川合高岡駅からすぐの場所にあり、近鉄の始発の特急に乗れば大阪からでもこの列車に乗ることができる。高校生が多いのも家城にある白山高校の生徒たちで、普段もこの時間は通学でで利用しているのだろう。だとすると、やはり2両はいるか。

一志から雲出川が近づいてきて、周囲も少しずつ森が増えてきた。遠くに風力発電の風車が回るのを見ることもできる。

8時11分、家城に到着。高校生はここで下車し、乗り鉄やハイキング客は反対側のホームに移る。そこで目にしたものは・・・先ほど松阪駅で見た伊勢市行きと同じキハ25。まさかこんなところで初めてこの車両に乗ることになるとは思わなかった。でも新しい車両だし、開放的な感じで路線のイメージもがらっと変わるのではないだろうか。

鉄道の旅ではロングシートは否定されがちだが、名松線は全線でも1時間半ほどの行程なのでまだ耐えられる。空いていれば座るだけで反対側の窓に映る景色を広く見ることもできる。20人ほどが乗車して出発する。ここからが3月に運転再開となった区間である。

気動車は急ぐわけでもなく、運転再開区間を慎重な感じで走る。雲出川もずっと寄り添うようになり、ちょっとした渓谷美も広がる。また山の斜面、川沿いに広がるのは茶畑。伊勢茶の中でも美杉茶として知られている。5月はちょうど茶の収穫時期で、車窓も鮮やかな緑で彩られている。

こうした車窓が続くと、乗客たちも立ち上がって窓に貼りつくようになる。こうしたことができるのもロングシートならではだろう。

名松線の中でも「秘境駅」として位置づけられている伊勢鎌倉を過ぎ、伊勢八知が近づくと周囲には廃墟のような建物。ウォータースライダーのあるプールと、少し離れてホテルがある。この辺りは美杉リゾートというのがあり、確か「魚九」だったかな、大阪でも広告を見たことがある。ただ後で見たところでは「魚九」は倒産、ホテルも閉鎖となっていた。それでも「美杉リゾート」の名前はあり、名松線の反対側のホテルは日帰り入浴も含めて営業はしているようで、今回途中下車して入浴というのも考えていた。ただ、こうした景色を見ると途中下車の気持ちが削がれる。

ここから先が、2009年10月の台風で大きな被害を受けた区間である。途中には今でも倒木の跡が残るし、法面を補修した跡も見られる。路盤も一部新しいものに造りかえられている。台風被害の後で、JR東海は今後も同様の被害が発生する恐れがあるとして廃止~バス転換の方針を打ち出したが、地元の運動もあって存続させることとなった。ただし復旧には雲出川の治水対策も必須であるとして、JR東海が4.6億円負担したのに加えて、三重県と津市とがそれぞれ5億円を負担したという。このそれぞれ5億円の費用を高いと見るか安いと見るかは人それぞれだろう。この区間を走る列車は1日7.5往復。

小さな集落が開けて終点の伊勢奥津に到着。到着した列車にはテレビカメラが向けられ、改札口では地元の人たちがパンフレットとクリアファイルを配っていた。折り返しならおよそ30分後に出るが、さてどうしようか。

駅前にはマイクロバスが2台停まっている。地元の人が呼びかけているのが、駅からおよそ5キロほど離れたところにある北畠神社まで往復する臨時の無料バスという。この連休期間中の運転だそうで、名松線の列車の発着に合わせたダイヤとなっている。名松線はこれまで2回乗車したことがあるが、いずれも折り返しの列車ですぐに伊勢奥津を後にしていた。今回は折り返しを含めると2本列車を落としながら松阪に戻ればいいので、せっかくなら行ったことのないところ、という以前にそういう場所があることも初めて聞いたところに行くのも面白いだろう。ここまで名松線に乗ってきた20人ほどの乗客の半数はそのまま折り返し列車に乗り、後はレンタサイクルを利用する人もいたが、残った数人がバスに乗り込む。数人で2台というのもぜいたくだと思うが、バスは走りだし、峠をトンネルで越えて北畠神社のある多気(たげ)という集落に向かう・・・。
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松阪牛ホルモン

2016年05月04日 | 旅行記D・東海北陸
話はまだ前月の30日のこと。

夕方早い時間にホテルにチェックインした後に向かったのは、「一升びん 平生町店」。近鉄の沿線や松阪駅構内にも看板広告が出ているのでよく知られた店である。

松阪の名物と聞いて多くの方が真っ先に思い浮かべるのが松阪牛であろう。市内にも多くの有名店があるが、もっとも高級な食べ方となると霜降りのところのすき焼きだろう(写真はすき焼きで有名な市内の牛銀本店・・・あくまで「資料画像」)。次いでしゃぶしゃぶ、ステーキといったところか。ただこれらはいずれも値段が高いところである。

これらより少し庶民に近づけるならば焼肉である(それでもぜいたくだが)。「一升びん」は普通の和牛に加えて松阪牛もメニューに加えられており、本場の味を楽しむことができる。市内に何店舗かあるが、私が行くのは本店ではなく、駅にも近い平生町店である。店の外観は古びた感じもするが、一升びんの発祥の地であるし、第一大衆的な雰囲気があってよろしい。

さらにお目当てなのは、松阪牛のホルモン焼きである。せっかく松阪に来たのだからサーロインなんぞ張り込めばいいのだが、こうしたものは大阪でもひょっとしたら口にできる店があるかもしれない。ただ、ホルモンとなると鮮度の関係もあってそう遠方に出荷できるものではない。自ずと、地元を中心に消費される食材となる。以前に来た時に美味しかったので、今回再訪ということにした。

夜の部の早い時間だったのでカウンターに座る。この店はカウンターだと七輪を使った炭火焼方式となる。テーブルだとガスコンロとなるので、グループよりは1人もしくは2人で来るのがよい。平日だと仕事帰りの人たちがホルモンと梅割りで一杯やって帰るのが似合いそうな店である。こうした大衆的な雰囲気が観光客にも好評のようで、私が入店してそれほど時間が経たないうちにカウンターは満席となった。

ホルモンを中心とする中、ただ松阪牛の普通の部分もいただくことにして、その中ではもっともお手軽な赤身の切り落としを味わう。これに加えて内臓の盛り合わせ。ホルモン(シロ)、テッチャン、センマイ、レバ、ハツが入る。ホルモン焼きだと網の上で念入りに焼くイメージがあるが、こちらのは下ごしらえがされているのか、結構早くに焼き上がる。これを味噌ベースのたれでいただく。レタスに巻いてもよい。

お目当ての味を楽しみ、これで旅の初日は終了である。ホテルに戻るとチェックインの客も目立つ。その一方で朝食会場ともなるラウンジが賑やかである。このエースイン松阪では、18時から20時までがウェルカムドリンクタイムということで、和洋さまざまなドリンクをサービス(一人一杯)いただける。文字通りウェルカムということでここで一口飲んでから「どの店に行こうか」と相談している旅行者もいれば、コンビニで買った食材をここで広げる人もいる。外国人の観光客もいて賑やかだ。松阪は伊勢志摩の玄関口であり、伊勢神宮や鳥羽方面も比較的近い。そちらにビジネスホテルが少ない分、宿泊は松阪で・・という志向もあるのだろう。

夕食が早い時間だったので、後は部屋でくつろぐ。ちょうど地元の三重テレビで、伊勢神宮から熊野詣で向かう熊野古道を取り上げた旅番組をやっていて(どうやら何回かに分けての番組のようだ)、その道中でちょうど松阪が出ていた。先ほど私も見学した松阪商人の館や本居宣長記念館も登場して、思わずおおっとうなる。出演していたのは俳優の米倉斉加年さんで、伊勢神宮の宇治橋のたもとで「実はこれまで芝居で伊勢には来たことがあるんですが、いつも時間がなくて伊勢神宮にはお参りしたことがなくてね」てなことを言っていたが、あれ?米倉さんは確かお亡くなりになったのでは・・・?

後で検索したところによれば、この日流れていたのは、ちょうど伊勢神宮の遷宮が行われて半年後に当たる一昨年春に放送されたものの再放送。オリジナルの放送は4月だったが、米倉さんが急死したのはこの年の8月のこと。遺作ではないにしても最晩年の出演だったのだなということがわかり、「亡くなる前に伊勢参りができてよかったですね」と、思わぬところでの感想が出た。

さて話がこれまで長くなったが、翌日は月が替わって5月。いよいよ、今回の目的である名松線の乗車である・・・。
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松阪町歩き・松阪城、本居宣長

2016年05月03日 | 旅行記D・東海北陸
松阪の町を歩いて松阪城に着く。今の市役所の辺りが大手門の跡ということで、ここからゆるやかな坂が続く。天守閣や櫓は残っていないが、石垣は蒲生氏郷が築いた当時のものが残っているという。ただ蒲生氏郷はその後加増されて会津に移り、江戸の初期は古田家が治めていたが、古田家が石見に国替えとなった後は紀州藩の領地となった。紀州藩は和歌山が本拠地だから、松阪には城代を置いて治めさせた。先の記事に書いた松阪の商人たちも、蒲生氏郷が地元の近江日野から連れてきたのがルーツで、いわば近江商人の流れを汲むと言えるだろう。

城内にあるのは歴史民俗資料館。元々は明治時代に図書館として建てられたものだが、1978年の図書館の新築移転にともない、歴史民俗資料館として観光客にも公開されるようになった。

まず目に入るのは昔の薬屋の店先を復元した一角。伊勢参りの旅人にも重宝されたという。

訪れた時は企画展で「昭和の絵葉書コレクション」をやっていた。伊勢観光のものに始まり、東京や大阪、京都、果ては海外のものもある。時代が昭和ということだが、現存するものもあれば今は見られなくなった建物や風景もあり、当時の様子がわかる。大阪の通天閣も現在のものではなく初代の建物だったり、大阪駅や大阪府庁の昔の姿も見られる。絵葉書は観光の記念、土産ではあるが、こうした史料的な要素もあるようだ。

また資料館には、松阪出身の元横綱・三重ノ海が締めていた綱とか、松阪木綿に関する展示がある。

資料館の後は天守台に上がる。地元の人たちの散歩、憩いの場である。確か前に来た時には桜が見ごろで、天守台の桜の下では花見の宴会を楽しむ人たちもいた。ここから市街地、そして遠くには伊勢湾を見ることができる。

天守台から反対側に下りる。市内にあった本居宣長の旧居・鈴屋がこちらに移築されており、記念館もある。鈴屋を見るには記念館と共通の入場券が必要ということで、まずは記念館に入る。この夏にリニューアルのため休館に入るとかで、今は「もう一度、のりなが」として、本居宣長の人生を総括するように各種史料を豊富に展示している。

本居宣長は松阪の商家に生まれたが、商人というのは肌に合わなかったようで学問を志し、後に医師を生業としつつも、古典や和歌に興味を持ち研究に取り組んだ。その中で最も長い年月を費やし、後の世に影響を及ぼしたのは「古事記伝」に代表される古事記の研究である。古事記を文献として研究し、注釈をほどこす中で、古代の人たちの生き方や考え方の中に日本人の心の原点を見い出し、大きく評価した。これまでは記紀の中でも日本書紀が重要視されていたのだが、宣長の研究により古事記が祭り上げられるようになった。これが後に国学と呼ばれ、やがては尊王攘夷の思想にもつながっていく。それがトチ狂った「文化大革命」の廃仏毀釈の愚策やら神国日本とか・・・いや、これは言い過ぎか。

宣長の直筆の文献も多数残されているが、言葉の一つ一つに対する見方が繊細で、緻密であるように感じられる。几帳面、記録魔のようにもうかがえる。研究者としては素晴らしいのは間違いないが、実際に会ってみると神経質で近寄りがたいのかな・・・とも想像する。いや、後に名を残す人物はそのくらいでなければ。

記念館を出て鈴屋に向かう。旧居の2階の4畳半が書斎で、当時あった町人街からの2階だと、ちょうどいい角度で城の石垣を見上げることができただろう。ここに鈴をぶら下げ、それを鳴らすことで一息ついたという。床には「縣居大人之霊位」という掛け軸がある。「縣居大人(あがたいうし)」とは師と仰ぐ賀茂真淵のことで、宣長は真淵が伊勢参りで松阪に泊まっていた時に訪れた。直接二人が対面したのはこの一夜だけで、後は書簡でのやり取りだけだったのだがさまざまな教えを受けた。宣長は真淵の命日にはこの掛け軸を掛けたという。

鈴屋を出ると城の警護にあたった紀州藩士の屋敷が並ぶ。槙の垣根と石垣が整然と並んでいる。棟続きの長屋のような建物で、今でも住んでいる家があるが、そのうちの1軒が観光客にも公開されている。藩士といっても下級クラスということもあり、素朴な感じの造りである。

ここまで歩くと松阪市内の主な見どころは一通り回ることになり、駅に戻る。まだ早い時間なのだが、駅前のエースイン松阪にチェックイン。しばらく休憩して、この後は「松阪に来たからには食べたい」というものに・・・。
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松阪町歩き・寺院と商人

2016年05月02日 | 旅行記D・東海北陸
30日の昼間は松阪の町を歩く。松阪市は市町村合併で広い面積を持つが、これから回るのは駅から徒歩で行ける範囲だ。蒲生氏郷が開いた城下町である。また松阪ゆかりの三大歴史上人物として、氏郷の他に三井高利、本居宣長が挙げられている。

駅内の立ち食いうどんで昼食として出発。松阪城は徒歩で15分のところで、観光案内所で市内の地図をもらい、城を目指しながらの見物である。

城下の町割りも武家屋敷、商人、職人などで分かれているのだが、駅前の商店街から右に曲がると、寺院の一帯に出る。浄土宗や曹洞宗、真言宗などさまざまな宗派が並ぶ。計画的にそういう一帯を設けたのであろう。まず立派な佇まいにひかれて入ったのが浄土宗の清光寺。蒲生氏が松阪にいた時には菩提寺にもなったそうである。阿弥陀如来を本尊として、如意輪観音や勢至菩薩などが祀られている。

本堂の向かいにも阿弥陀如来像があり、ここで参宮線の列車事故に遭難した修学旅行生を慰霊する小さな碑を見つける。この列車事故は昭和31(1956)年に参宮線の六軒駅(今は紀勢線の駅だが、当時はまだ紀勢線の多気から南が開通しておらず、この区間は参宮線だった)構内で列車の多重衝突が起き、死者42人、負傷者96人という大惨事となった。

当時は近鉄も今のような特急ネットワークがなく、伊勢方面の修学旅行も国鉄利用が多かったそうだが、犠牲者の多くがこの修学旅行生たちだったそうである。六軒駅には事故後に建てられた慰霊碑があるという。事故当日は伊勢神宮の大祭で列車の客が多いこともあり、亀山~伊勢間の列車に遅れが出ていた。本来なら亀山からの列車と伊勢からの列車は松阪で行き違うダイヤなのだが、亀山からの列車が遅れるため、松阪からひとつ亀山寄りの六軒で行き違うことにした。しかしこの指示が、津を出発した亀山発の列車の機関士に伝わっておらず、通常ダイヤなら六軒は通過なのでそのまま通過しようとしたところ、停止信号が出ていたのであわててブレーキをかけた。しかし間に合わず、列車は駅を過ぎたところで脱線転覆した。そこに松阪からの列車が入ってきて、これも停まることができずに衝突し、大惨事となった。

現在なら行き違い駅の変更といった緊急対応の指示はリアルタイムで運転手に伝わるだろうし、万が一通過してしまいそうになったとしても、その前にATSなどの装置が作動するだろう。こうした事故が起こったのは痛ましいが、これも安全に対する技術革新につながる契機になったのがせめてもの慰めであろう。

最近の列車事故といえば尼崎の福知山線脱線事故の記憶が生々しいのだが、11年前のこの事故から学んだことは何だろうか。原因が技術的、ハード面だけで結論づけられるものではなく、もっと根が深い問題だと思う。

話が脱線・・・は文脈上良くないな・・・話が少し広がったところで、町歩きを続ける。次に入ったのは継松寺。このところ西国三十三所、新西国三十三所の観音札所を回っているが、山門を入って境内を見渡して、おおっとうなる。先ほどの清光寺も風情があったが、継松寺はそれ以上。

歴史は、奈良時代に聖武天皇の勅願で行基の創建という。以後、本尊如意輪観音を中心に、日本最古の厄除け観音(の一つ)として信仰を集めている。これはここに来て初めて知った。西国、新西国の札所寺院にも引けを取らない立派な造りである。もっとも、観光寺院というのではなく、納経所にも人はいなかったのだが・・・。

寺と職人の一画を過ぎ、今度は商人のエリアに入る。やって来たのは松阪商人の館。

松阪商人で最も名を馳せたのは三井高利だろう。ただ、ここで取り上げられているのは呉服屋の三井高利ではなく、紙や松阪木綿で名を馳せた小津家。この館は当時の様子を伝える役割も果たしている。客間、店先、奉公人の部屋で少しずつ段差があるので足元に注意するよう言われて中に入る。

小津家も伊勢商人として結構活躍しており、江戸時代の番付では三役こそならなかったものの、番付の最上段、相撲なら幕内で頑張っていたことがうかがえる。史料の展示室になっている土蔵に入ると明治の頃の番付がある。この時代になると、三井、三菱、住友、安田、大倉、浅野などの財閥系が上位を占めているが、その中でも小津、長谷川といった松阪商人は番付の二段目、相撲なら十両か幕下というところに踏みとどまっている。もっともこれらも一時期のことで、今は地元で慎ましく商いをしているそうで・・・。

町人街の一画には三井家発祥の跡地もある。その向かいには、三越百貨店の前にあるのと同じライオンの像がある。前に来た時はこの像もなかったはずだと思い検索すると、今年に完成したものだという。三井のほうで、改めて三井高利の産まれの地を顕彰しようというものである。

三井と小津、これに長谷川が加わるのが松阪商人の主力となるのだろうが、三井と小津・長谷川の間には何か見えない線が走っているようにも感じられる。全国的には三井かもしれないが、地元の意識とか愛着は、あくまで松阪を拠点に商売した小津・長谷川にあるのかもしれない。別に松阪商人と会話したわけではないので検証できないのだが、「三井発祥の町」という感じで松阪を押し出しているようにも感じられない。

ただこれは乗り鉄の感想でしかないので、もし実情をご存じの方がいれば、何なりとご教示いただければ幸いです。

・・・松阪町歩きも、寺と商人で結構ダラダラ書いたので、続きは次の記事で・・・・。
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近鉄の新旧エースリレー

2016年05月01日 | 旅行記D・東海北陸
今年の5月の連休は前半、中盤、後半(これは通常の土日)という組み合わせである。テレビでは「5月2日と6日に休みを取れれば最大10連休」という言い方をしているが、さすがにそれを実践している方はなかなかいないだろう。

私の場合は後半は出勤に当たっていて、前半と中盤が公休ということになる。そのうちの前半の初日に大正ドームに行ってがっくり来る試合を観戦したのは、前の記事のとおり。

そこで気を取り直して「オリ達デー」を観戦・・・ということもなく、4月30日、朝の10時半に近鉄の大阪難波駅のホームに立っていた。これから向かうのは松阪である。なぜまた松阪に行くのか。

話は3月の下旬まで遡るが、2009年の台風による被害で運休していたJRの名松線が全線で運転を再開した。松阪から途中の家城までは動いていたが、その先終点の伊勢奥津まではバス代行での運転だった。それが6年半の年月を経て運転再開。この「○年ぶり再開」というのは、これまでの最長間隔だという。

私も名松線には過去2回乗ったことがあるが、ローカル線が次々に廃止される中、そうした経緯で復活した路線は珍しい。これは乗りに行かなければと思っていた。ただ、復活フィーバーというのか、ローカル線とすればありがたい話なのだが、特に土日は沿線の外から乗りに来る客で満員状態が続いているそうである。鉄道旅のブログの中には、「乗るのがやっと」というリポートも見かけられた。

そんな名松線、大阪からでも日帰りで往復乗車が可能である。ただどうせ行くなら松阪~伊勢奥津を単純に往復するだけでなく、プラスアルファがほしい。それなら沿線のどこかで途中下車するとか。そうすると、松阪を朝の7時32分に出る家城行き(家城で伊勢奥津行きに接続)に乗りたい。ただこれだと、大阪から始発の近鉄特急でも間に合わない。もっともこれについては、この記事を書くにあたって改めて乗換検索をしたのだが、始発の近鉄特急を榊原温泉口で下車し、各駅停車で川合高岡に出て、そこからすぐのところにある名松線の一志駅に行けばこの家城行きを捕まえることができるということが判明した。あらあら。まあ、「どうせ久しぶりの名松線なのだから、そこは始発の松阪から乗りたい」ということにしておこう。

名松線に行こうと決めた時は上に書いた乗り継ぎダイヤには気付いておらず、松阪を朝の7時半の始発に乗るなら、松阪に前泊しなければならないなという発想になる。ただこれは私としては悪い話ではないと思う。松阪となれば行きたい店もあるし、ならばその前に松阪市内の散策もくっつけよう。1年前に西国三十三所の参詣で那智山の青岸渡寺に行ったが、その前泊と、旧国鉄型の気動車に乗りたいという理由で松阪には泊まったが、今度も似たような理由である。

そして伊勢に行くのだからと、近鉄の特急、それも「しまかぜ」に乗れないかと考える。「しまかぜ」自体は松阪には停まらない。伊勢市まで行って折り返そうかと思うが、発売開始早々に×印が出る。そこで考えて、伊勢市まで行かずにその前の停車駅である大和八木までならどうか。こちらは○印であった。松阪までは後続の特急に乗り継ぎとする。後からやって来る鳥羽行きはビスタカーで、だとすれば「新旧近鉄のエースによるリレー」も面白そうとして、2階席を購入する。「しまかぜ」のデラックス席の割増料金は別途発生するが、特急料金は通しで計算してくれるのはありがたい。

いつものように前置きが長くなったが、大阪難波駅のホーム。名古屋行きの特急や奈良行きの急行も出ていくが、ホームに大勢いるのは「しまかぜ」がお目当て。私も以前に「関西私鉄駅名サイコロしりとりの旅シリーズ」で一度だけ難波から大和八木まで乗ったことがあるが、あのシートの乗り心地は断然いい。今回も伊勢志摩まで乗るわけではなく、前回と同じ大和八木までだが、それでも十分である。

桜川方面からゆっくりと入線。列車に向けてカメラを構える人が多い。

そして指定車両に入る。1-2列シートの1人席に腰かける。車内は家族連れ、グループ客が目立つ。「しまかぜ」に乗れたことで早速記念撮影する人もいて、賑やかなまま出発。

短時間の乗車ということもあり、展望車両やビュッフェに行くこともなく席に座っているが、シート備え付けの車内案内では、「しまかぜ」車内限定のWi-Fi接続で、スマホやパソコンでさまざまな情報を見ることができるという。早速接続してみると、沿線の観光案内を動画で見ることができる。ただそれより面白かったのが、先頭車両からの展望を自分の座席で見ることができることだ。実際の外の景色に比べれば、映し出される風景は多少遅いが気になるほどでもない。これには驚きである。

ゆっくりくつろいだり、乗車証明書をいただいたりしたが、大和八木まではわずか30分ほどの道のり。これから伊勢志摩という手前で降ろされる形になる。それでも、乗り心地を大いに楽しめて満足である。

続いてやって来るのは2階建てのビスタカー。これは私が小学生時代には近鉄の、いや日本の私鉄の看板列車のようなもので、階下でも階上でも、2階建て車両に乗るというのが、ちびっ子鉄道ファンたちの憧れの一つだったところである。今となってはJR東日本の通勤電車のグリーン車にもあるように、2階建ては珍しくとも何ともないのだが、それでも一般車両とは違った高さの車窓を味わうことができる。

天気も良く、特急らしく大和から伊賀を快走し、伊勢平野に出ると松阪は近い。青空の下、松阪駅のホームに降り立つ・・・・。
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