最近、コメントをどんどん書き込んでくれて、わたしをめちゃんこ幸せな気持ちにしてくれているハッピーくん。
コメント欄で、小説のことを聞かれたので、そのことについてここで少しお話しします。
幼稚園の頃から『本の虫』と大人からよく言われる、片付けも手伝いもせずに、時間があったら本を読んでいる愛想もクソも無い子でした。
家の中がグチャグチャになり、一家離散やらやくざに追い回されるやらで忙しかった頃は、さすがに本どころでは無かったし、
明るい農村の嫁時代も、それでなくてもピアノ教師なんてまともな仕事じゃない、なんて村中の大人から思われていたので、本なんてとてもとても。
けれども、今の旦那と暮らし始めて、極貧が並貧になったぐらいの頃から、読みたい病が再びムクムクと起き出してきました。
書くことは好きでした。読書感想文や作文なども得意で、よく賞なんかをいただいたりしたけれど、
その時の自分がとっても不純だったのを今でもよぉ~く覚えています。
どんなふうに書くと賞をもらいやすいかってのを知っていたというか、そのためにいろいろ頭の中で小細工している自分が嫌で嫌で、
でも、賞をもらうのは楽しくて、小学生なりに自分の心根が歪んでいるような気がしていました。
なので、わたしには小説を書いたりするのは到底無理で、そんなことをしたいとも思ったことはありませんでした。
わたしの周りにいる人達は、わたしに次々と起こる奇妙でとんでもなくて想像もできない出来事を、実際に目の当たりにしたり聞いたりするたびに、
「なあ、自分のこと書いてみたら?現実は小説より奇なりの典型的一例ってことで売れるかもよ」なんて言いましたが、
それができりゃ苦労はせんわい、と心の中でブツブツ反論しているわたしでした。
アメリカに引っ越し、2001年の同時テロを目撃してしまいました。
無料のセラピーにも行けず、日本語でさえも言葉がどんどん消えていき、無意識のうちに涙がハラハラと流れ、考えること自体が苦しくなっていきました。
夢遊病者のようにフラフラと買い物に出かけ、気がついたら知らない男が助手席に乗り込んでいて、カージャックに遭ったりもしました。
このままじゃヤバいなと、警察署で事情聴取を受けながら警官の大きな声を聞いているうちに、少しだけ自分が戻ってくるような感じがしました。
家に戻り、自分の机の前に座っていると、急にあるアイディアが浮かびました。
そうや、息子達に置き手紙を書いておこう。
あんなふうに、ある日突然命を奪われる可能性なんて、今の世の中にはゴロゴロ転がっているんやから。
その時になって、ああしといたらよかった、ああしときたかった、なんて思いながら死んでいくのはいやや。
思い立ったが吉日です。早速家にあった超お年寄りのMacに書き込み始めました。
『T、K、あんたらのおかあさんさせてもらえて楽しかった。ありがとう。
これからいったいどんな世の中になっていくのか、あんた達がどんなふうに大きくなってどんなふうに生きていくのか、そんなこと誰にも分からへんことやけど、
あんた達ほど、わたしの30才からの人生を幸せにしてくれた人間はおらんかった。生まれてくれてほんまにありがとう。
今から話すのは、あんた達に逢う前のおかあさんの人生のこと。
いつの日か、これを読んで、あの人はこんな風に生きてたんかって知ってもらいたいから。
ちょっと押し売りっぽいけど、これもまあ息子の定やと思てあきらめて読んでね』
書き始めると止まらなくなってしまいました。
まるで何かに取り憑かれたかのように、朝から晩までカタカタカタカタ、ものすごい勢いでキーを叩き続けていました。
2ヶ月も経つと、原稿用紙600枚ほどの量になってしまい、自分でもどうしたものか分からなくなってしまいました。
丁度その頃、家に遊びに来た日本人の友人が、パソコンの画面に出ていたページを読み、
「これ、小説?めちゃ面白いじゃん。続き読んでもいい?」と目をキラキラさせて聞いてきました。
「え、まさか、小説なんかとちゃうちゃう。自分のこと書いて子供に残しとこって思て」
「そんな~、もったいないよ。小説にしちゃいなよ。そいで、コンクールとかに応募したらいいよ。うん、絶対にいいよ。そうしな、ね、ね!」
わたしはすぐにその気になる方で、しかも調子ノリでイチビリときています。
息子達への手紙が、すっかり小説っぽく手直しされ、いつの間にか1000枚を越えてしまっていたのをコンクールの規定量600枚に校正し、応募してしまいました。
コンクールでは最終選考の一歩手前で脱落。けれども、書き始めてから書き終わるまでのあの興奮と熱中の現実離れした強さは、深くわたしの心に残りました。
読んでもいいよと言ってくれる友達に、書いては送り、意見や批判をもらい、校正や訂正をしてはまた送り、また意見をもらい、
それぞれの厳しい、その人なりの批判は、わたしにとってはなによりの励ましであり、ムチであり、支えでもありました。
あんまりコツコツ毎日書き続けるわたしを見て、旦那がMacのノート型を買ってくれました。
そのMacで、それから5つの話を書きました。
今の新しいデスクトップのMacになってから、まだひとつも話を書いていません。
これがわたしの、小説を書くようになったお話です。
コメント欄で、小説のことを聞かれたので、そのことについてここで少しお話しします。
幼稚園の頃から『本の虫』と大人からよく言われる、片付けも手伝いもせずに、時間があったら本を読んでいる愛想もクソも無い子でした。
家の中がグチャグチャになり、一家離散やらやくざに追い回されるやらで忙しかった頃は、さすがに本どころでは無かったし、
明るい農村の嫁時代も、それでなくてもピアノ教師なんてまともな仕事じゃない、なんて村中の大人から思われていたので、本なんてとてもとても。
けれども、今の旦那と暮らし始めて、極貧が並貧になったぐらいの頃から、読みたい病が再びムクムクと起き出してきました。
書くことは好きでした。読書感想文や作文なども得意で、よく賞なんかをいただいたりしたけれど、
その時の自分がとっても不純だったのを今でもよぉ~く覚えています。
どんなふうに書くと賞をもらいやすいかってのを知っていたというか、そのためにいろいろ頭の中で小細工している自分が嫌で嫌で、
でも、賞をもらうのは楽しくて、小学生なりに自分の心根が歪んでいるような気がしていました。
なので、わたしには小説を書いたりするのは到底無理で、そんなことをしたいとも思ったことはありませんでした。
わたしの周りにいる人達は、わたしに次々と起こる奇妙でとんでもなくて想像もできない出来事を、実際に目の当たりにしたり聞いたりするたびに、
「なあ、自分のこと書いてみたら?現実は小説より奇なりの典型的一例ってことで売れるかもよ」なんて言いましたが、
それができりゃ苦労はせんわい、と心の中でブツブツ反論しているわたしでした。
アメリカに引っ越し、2001年の同時テロを目撃してしまいました。
無料のセラピーにも行けず、日本語でさえも言葉がどんどん消えていき、無意識のうちに涙がハラハラと流れ、考えること自体が苦しくなっていきました。
夢遊病者のようにフラフラと買い物に出かけ、気がついたら知らない男が助手席に乗り込んでいて、カージャックに遭ったりもしました。
このままじゃヤバいなと、警察署で事情聴取を受けながら警官の大きな声を聞いているうちに、少しだけ自分が戻ってくるような感じがしました。
家に戻り、自分の机の前に座っていると、急にあるアイディアが浮かびました。
そうや、息子達に置き手紙を書いておこう。
あんなふうに、ある日突然命を奪われる可能性なんて、今の世の中にはゴロゴロ転がっているんやから。
その時になって、ああしといたらよかった、ああしときたかった、なんて思いながら死んでいくのはいやや。
思い立ったが吉日です。早速家にあった超お年寄りのMacに書き込み始めました。
『T、K、あんたらのおかあさんさせてもらえて楽しかった。ありがとう。
これからいったいどんな世の中になっていくのか、あんた達がどんなふうに大きくなってどんなふうに生きていくのか、そんなこと誰にも分からへんことやけど、
あんた達ほど、わたしの30才からの人生を幸せにしてくれた人間はおらんかった。生まれてくれてほんまにありがとう。
今から話すのは、あんた達に逢う前のおかあさんの人生のこと。
いつの日か、これを読んで、あの人はこんな風に生きてたんかって知ってもらいたいから。
ちょっと押し売りっぽいけど、これもまあ息子の定やと思てあきらめて読んでね』
書き始めると止まらなくなってしまいました。
まるで何かに取り憑かれたかのように、朝から晩までカタカタカタカタ、ものすごい勢いでキーを叩き続けていました。
2ヶ月も経つと、原稿用紙600枚ほどの量になってしまい、自分でもどうしたものか分からなくなってしまいました。
丁度その頃、家に遊びに来た日本人の友人が、パソコンの画面に出ていたページを読み、
「これ、小説?めちゃ面白いじゃん。続き読んでもいい?」と目をキラキラさせて聞いてきました。
「え、まさか、小説なんかとちゃうちゃう。自分のこと書いて子供に残しとこって思て」
「そんな~、もったいないよ。小説にしちゃいなよ。そいで、コンクールとかに応募したらいいよ。うん、絶対にいいよ。そうしな、ね、ね!」
わたしはすぐにその気になる方で、しかも調子ノリでイチビリときています。
息子達への手紙が、すっかり小説っぽく手直しされ、いつの間にか1000枚を越えてしまっていたのをコンクールの規定量600枚に校正し、応募してしまいました。
コンクールでは最終選考の一歩手前で脱落。けれども、書き始めてから書き終わるまでのあの興奮と熱中の現実離れした強さは、深くわたしの心に残りました。
読んでもいいよと言ってくれる友達に、書いては送り、意見や批判をもらい、校正や訂正をしてはまた送り、また意見をもらい、
それぞれの厳しい、その人なりの批判は、わたしにとってはなによりの励ましであり、ムチであり、支えでもありました。
あんまりコツコツ毎日書き続けるわたしを見て、旦那がMacのノート型を買ってくれました。
そのMacで、それから5つの話を書きました。
今の新しいデスクトップのMacになってから、まだひとつも話を書いていません。
これがわたしの、小説を書くようになったお話です。