ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

小説を書く

2009年01月08日 | ひとりごと
最近、コメントをどんどん書き込んでくれて、わたしをめちゃんこ幸せな気持ちにしてくれているハッピーくん。
コメント欄で、小説のことを聞かれたので、そのことについてここで少しお話しします。

幼稚園の頃から『本の虫』と大人からよく言われる、片付けも手伝いもせずに、時間があったら本を読んでいる愛想もクソも無い子でした。
家の中がグチャグチャになり、一家離散やらやくざに追い回されるやらで忙しかった頃は、さすがに本どころでは無かったし、
明るい農村の嫁時代も、それでなくてもピアノ教師なんてまともな仕事じゃない、なんて村中の大人から思われていたので、本なんてとてもとても。
けれども、今の旦那と暮らし始めて、極貧が並貧になったぐらいの頃から、読みたい病が再びムクムクと起き出してきました。

書くことは好きでした。読書感想文や作文なども得意で、よく賞なんかをいただいたりしたけれど、
その時の自分がとっても不純だったのを今でもよぉ~く覚えています。
どんなふうに書くと賞をもらいやすいかってのを知っていたというか、そのためにいろいろ頭の中で小細工している自分が嫌で嫌で、
でも、賞をもらうのは楽しくて、小学生なりに自分の心根が歪んでいるような気がしていました。
なので、わたしには小説を書いたりするのは到底無理で、そんなことをしたいとも思ったことはありませんでした。

わたしの周りにいる人達は、わたしに次々と起こる奇妙でとんでもなくて想像もできない出来事を、実際に目の当たりにしたり聞いたりするたびに、
「なあ、自分のこと書いてみたら?現実は小説より奇なりの典型的一例ってことで売れるかもよ」なんて言いましたが、
それができりゃ苦労はせんわい、と心の中でブツブツ反論しているわたしでした。

アメリカに引っ越し、2001年の同時テロを目撃してしまいました。
無料のセラピーにも行けず、日本語でさえも言葉がどんどん消えていき、無意識のうちに涙がハラハラと流れ、考えること自体が苦しくなっていきました。
夢遊病者のようにフラフラと買い物に出かけ、気がついたら知らない男が助手席に乗り込んでいて、カージャックに遭ったりもしました。
このままじゃヤバいなと、警察署で事情聴取を受けながら警官の大きな声を聞いているうちに、少しだけ自分が戻ってくるような感じがしました。

家に戻り、自分の机の前に座っていると、急にあるアイディアが浮かびました。
そうや、息子達に置き手紙を書いておこう。

あんなふうに、ある日突然命を奪われる可能性なんて、今の世の中にはゴロゴロ転がっているんやから。
その時になって、ああしといたらよかった、ああしときたかった、なんて思いながら死んでいくのはいやや。

思い立ったが吉日です。早速家にあった超お年寄りのMacに書き込み始めました。

『T、K、あんたらのおかあさんさせてもらえて楽しかった。ありがとう。
これからいったいどんな世の中になっていくのか、あんた達がどんなふうに大きくなってどんなふうに生きていくのか、そんなこと誰にも分からへんことやけど、
あんた達ほど、わたしの30才からの人生を幸せにしてくれた人間はおらんかった。生まれてくれてほんまにありがとう。
今から話すのは、あんた達に逢う前のおかあさんの人生のこと。
いつの日か、これを読んで、あの人はこんな風に生きてたんかって知ってもらいたいから。
ちょっと押し売りっぽいけど、これもまあ息子の定やと思てあきらめて読んでね』

書き始めると止まらなくなってしまいました。
まるで何かに取り憑かれたかのように、朝から晩までカタカタカタカタ、ものすごい勢いでキーを叩き続けていました。
2ヶ月も経つと、原稿用紙600枚ほどの量になってしまい、自分でもどうしたものか分からなくなってしまいました。
丁度その頃、家に遊びに来た日本人の友人が、パソコンの画面に出ていたページを読み、
「これ、小説?めちゃ面白いじゃん。続き読んでもいい?」と目をキラキラさせて聞いてきました。
「え、まさか、小説なんかとちゃうちゃう。自分のこと書いて子供に残しとこって思て」
「そんな~、もったいないよ。小説にしちゃいなよ。そいで、コンクールとかに応募したらいいよ。うん、絶対にいいよ。そうしな、ね、ね!」

わたしはすぐにその気になる方で、しかも調子ノリでイチビリときています。
息子達への手紙が、すっかり小説っぽく手直しされ、いつの間にか1000枚を越えてしまっていたのをコンクールの規定量600枚に校正し、応募してしまいました。

コンクールでは最終選考の一歩手前で脱落。けれども、書き始めてから書き終わるまでのあの興奮と熱中の現実離れした強さは、深くわたしの心に残りました。

読んでもいいよと言ってくれる友達に、書いては送り、意見や批判をもらい、校正や訂正をしてはまた送り、また意見をもらい、
それぞれの厳しい、その人なりの批判は、わたしにとってはなによりの励ましであり、ムチであり、支えでもありました。

あんまりコツコツ毎日書き続けるわたしを見て、旦那がMacのノート型を買ってくれました。
そのMacで、それから5つの話を書きました。
今の新しいデスクトップのMacになってから、まだひとつも話を書いていません。

これがわたしの、小説を書くようになったお話です。

コメント (14)
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川崎病

2009年01月08日 | 家族とわたし
ジョン・トラボルタの16才の長男が、心臓発作で亡くなったというニュースの見出しを読んで驚いて記事を検索してみました。
すると、もしかしたら川崎病が死因に関連しているかもしれないと書かれてありました。

川崎病?!



1992年のクリスマス直前の、旦那と一緒に暮らすようになって初めてのアメリカ里帰り旅行でした。
旦那の実家に着いたのが23日。初めての長距離飛行機に乗ったKは4才4ヶ月、Tは6才になったばかり。
どちらも時間を持て余し、まだぁ~まだぁ~と乗っている間中グズグズしっ放し。
特にKは全く眠れず、もうぐだぐだになりながらどうしたらいいのか分からなくなって、しまいには客席の足下の床の上に寝てしまいました。
こちらも初めての長旅。そこにむずかりっ放しの幼児2人をあやしているうちにクタクタに疲れてしまい、
どこでもいいや、眠ってくれさえすればと、そのまま放っておいたのでした。

24日の朝、時差ボケで夜明け前の4時半頃から目がパッチリのK。お腹が減っただの、首の横っちょが痛いだの、しんどいだの、
ろくすっぽ寝かせてもらえなかったわたしは疲労の頂点に達していて、もうええ加減にしてよ~とばかりにあまり相手にしないまま午後になり、
首の後ろを手で押さえて、ヒリヒリする、痛いと訴えるKに、
「寝違えたんとちゃうの?それともベッドから落ちた?」なんて強い調子で聞いたりしてました。
そのうちに熱が出てきて、なんだか体全体がしんどそうになってきたので、ああ風邪だったのかと周りの大人も変に納得して、子供用の風邪薬を飲ませました。
次の日、クリスマスの朝が来て、遅い朝食をとり、プレゼントをもらって嬉しいはずのKの顔を見た瞬間、なぜだか「しまった!」と思いました。
もう目が開いているだけで光が無く、まるで幽霊みたいに影が薄かったのです。
思わず駆け寄って熱を調べてみると、かるく40℃を越えてしまっていました。

慌てて病院を調べましたが、クリスマスの日に開いている病院なんてどこを探してもありません。
旦那の父親の会社が建てた子供専門の総合病院に掛け合ってもらい、救急で診てもらうことになりました。
その頃には容態はどんどん悪化し、抱き上げてもまるで意志の無いゴム人形みたいに、頭も四肢もだらんとしているKを見て、わたしはあのブランコ事件の時の彼を思い出していました。

病院の救急センターに緊急で入り、まず大雑把な診察をし、その結果を受けて3人の医者が駆けつけてきました。
心臓外科医と耳鼻科医、そしてたまたま当直に当たっていた小児科医でした。
どの医者も、彼の全身の写真やデータを見ては、これは自分が担当すると言ってききません。
英語での医学用語など、なにも分からなかったわたしですが、小児科医が大声で叫んだ「Kawasaki Disease」という言葉だけは分かり、それを聞いた時、目の前が真っ暗になってしまいました。
川崎病やなんて……この子が川崎病にかかって、しかもこんな重体になっているやなんて……。
治療を誰が、いつから始めるのかということで3人の医者はかなりもめていましたが、
川崎病の権威者でもある小児科医が、「とにかく明日の朝まで待って。明日にはきっと、この子の全身に川崎病の症状が現れるから、それまで待って」と頑として他の2名の医者を撥ね付けるのに根負けした形に収まりました。

どうなるのか、治してもらえるのか、何も分からなくて心細くて、そして何よりKに申し訳なくて、目を閉じたままピクリとも動かない彼を見つめながら、心の中でずっと謝り続けていました。

旅行に行く際に、旅行会社を経営していた父の奥さんが旅行保険をつけてくれていたのを思い出し、とりあえず日本に連絡しました。
「おまえが離婚なんかして、子供を振り回したからや!おまえのせいや!おまえが勝手にアメリカなんかに連れていくからこんなことになるんや!」
電話の向こうで父が怒鳴っています。
悲しくて申し訳なくて辛くて、膝がガクガク震えて受話器を落としてしまいました。
たまたま近くにいた看護士さんが、わたしの腕をしっかりととり、背中をざあざあ撫でながら、何度も何度もこう言ってくれました。
「あのね、あなたが悪いんじゃない。あなたのせいなんかじゃない。これは彼の病気で、たまたま起きたこと。あなたはとってもいいお母さんだよ」
彼女は日本語が分かりません。電話の向こうの声も聞こえなかったはずです。わたしも一言も説明していません。
けれどもそう言って、わたしがしっかり自分の足で立てるようになるまで励ましてくれました。

翌日、アメリカ式の解熱(脇と後頭部、手足の間に氷の塊を置きまくる)で熱が下がった頃に、Dr.オストロフの予告通り、川崎病の症状が全身に現れました。
痛んでいた首の付け根が異様に膨らみ、唇が真っ赤なタラコ状になり、白目が赤目になり、手のひらと足の裏の皮がぺろりとめくれました。
オストロフ女史が、「じゃ、川崎病ってことで治療を開始しますが、薬のことで相談があります」と言って、わたし達の目の前に小さなカプセルを掲げました。
「これは免疫グロブレンといって、とても効果がある薬だけど高価なの。保険無しではこれ一本で35万するけれど、使ってもいいかしら?」
とても貧乏でした。払える金額では到底無かったけれど、何本でもいい、ちゃんと治るまで使って欲しいと言いました。
彼女は全米でも3本の指に入る川崎病の権威として、とても有効で速攻性のある治療をてきぱきと施してくれました。
病気にかかったことは大変だったけれど、たまたまそこしか行く所が無かった病院の、たまたま宿直に当たっていた小児科医が川崎病に詳しかった、だなんて、そんな幸運がいったい何分の一の確率で起こるでしょうか。
何度も何度も神様に感謝しました。
彼女は入院中、部屋に来ては30分以上かけて、病気そのものの説明、治療の方針、今現在のKの状態などを話してくれました。
わたしには、病院の計らいで、日本語が話せる専属のボランティア通訳を付けてくれ、いつでもなんでも聞きたいことを聞けるようにしてくれました。
その通訳さんは「辛い気持ちが募ってきたらいつでもセラピストを行かせるから、隠さず我慢せず、気持ちを正直に言って欲しい」と言ってくれました。

2日も経つと、まるでほんとに病気だったのかと疑いたくなるほど元気になり、個室のテレビに備え付けられてあったゲームで遊び出すK。
お見舞いに来てるのか、ゲームをしに来てるのかどっちやねん?状態のT。
その時の様子が上の写真です。
厳つい治療器具も、腕に刺さっていたいくつもの点滴チューブも外してもらい、ホッと一息ついているKの顔。よく辛抱したと思います。

発症から1~3週間後ぐらいに10~20%の頻度で冠動脈に動脈瘤が認められ、まれに心筋梗塞により突然死に至る、というのがこの病気の特徴なので、
とにかく血を薄くしなければならないからと、子供用のアスピリンを鬼のように飲ませに来る看護士さんがいました。
鼻血が止まらなくなったり、体が辛くなったりするので飲むのを嫌がるKに、なんとか飲まそうと薬を粉々に砕いて、プリンなどに混ぜたり。
それから毎日3回、血の検査をしに採血にやって来る看護士さん、
この看護士さんはとても嫌われちゃって、「ドラキュラがまた来た~」とメソメソ泣くKに、「ごめんなあ、痛いなあ、可哀想になあ」といつも優しく謝ってくれました。
でも、幼児だからと言って特別扱いせず、どうしてこういう痛いことが必要なのかをゆっくり、たとえ通じてなくても一所懸命に説明してから治療に当たる看護士さん達の姿を見て、わたしはしみじみと感動したりしていました。

病気そのものの原因は、当時のアメリカでも依然としてはっきりと分かっていませんでした。
Dr.オストロフは、「これはあくまでもこの国での推測に過ぎないのだけれど、カーペットの掃除に使う洗剤が埃と混ざり合う時に出る化学反応が、ある特別な遺伝因子を持っている子供(アレルギーの一種)にとって極端な症状を引き起こす、という説が出ています」と話してくれました。
Kは何時間も、機内の床で寝ていました。彼はうつぶせ寝をする子なので、その推測は状況的にかなり合っているように思えました。
そして……なぜそんな所に寝かせてしまっていたのか、バカな母親だったと、わたしはまた自分をギリギリと責めました。

初期治療がすべて終わり退院の日が来たのが5日目。それまでにかかった費用はまだ計算途中で、後日日本に請求書を送るからと言われました。
その中に、オストロフ医師に支払う10万円があったのですが、退院の日に部屋までお別れにやって来てくれた彼女、
「わたしはもう充分お金持ちなので、わたしに支払う分は無料にしておくように会計に言っておきますからね」と言ってくれました。涙が出そうでした。

子供病院で受けた治療のすべてが記録されてある書類と写真をもらい、日本での治療の際に読んでもらってくださいと言われました。
日赤にKを連れて行くと、どの医者からも、「この子は本当に川崎病にかかったの?」と聞かれました。
それぐらい、アメリカで受けた治療が、彼の体からしっかりと病気を消していたようです。
でも、川崎病は、最初に出る症状が治まってからが恐いということを散々聞かされていたので、中学を卒業するまでぐらいの間はずっと心配が続きました。
半年に1回、それが1年に1回になった心エコーの検査を欠かさず、ちょっとした拍子に胸の辺りが痛いなどと言い出した時などは、こっちの心臓が飛び出しそうになるほど心配しました。

とにかく中学を卒業するまで無事に生きて。そしたらもう大丈夫。
そう自分に言い聞かせて見守ってきたあの頃の毎日。

なのに、トラボルタ氏の息子さんは16才で突然死された……。

あの頃のことを思い出し、そして突然息子を失った親の気持ちを思い、とても悲しく、とても悔しく、どうしようもなくなってこれを書いてます。

コメント (14)
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