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川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』その5

2018-11-04 06:42:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 人の気配がしてふりむくと、カレンがいた。マリーは反射的に腕時計に目をやった。集合時間までまだ四十分ほどあった。本当は来たくなかったんだけれど仕方なく、という表情をして、カレンはマリーのほうに少しずつ近寄ってきた。カレンはマリーの去年のルームメイトで、そして少しまえまで付きあっていた恋人だった。一ヶ月ほどまえに何時間も、何週間も、少しずつ時間をかけてふたりは念入りに別れ話をして別れたので、いまさらそこにつけ加えるものはなさそうだった。少なくともマリーのほうはそうだった。いまこうして久しぶりに、そしてあらためてこの距離からカレンを見てみると、付きあっていたときにはちらちらと顔を出す程度だったカレンの見かけの好きではないところが、まるでペンで囲って色を変えてわかりやすく示したみたいに、驚くほどくっきり見えるのだった。(中略)「みんな、あっちにいるよ」カレンは言った。「でも、森のほうに行ったのはあなただけ。いまごろアンナがあっちで心配してるかも」(中略)アンナは不幸で、そして辛抱強い看護係だった。ミア寮にやってきたのは四十歳になったばかりの春。その七年前に彼女は当時一歳になったばかりの娘を亡くしていた。アンナは何度も死のうとした。(中略)アンナは確かめようもない過去の可能性のなかをひたすら彷徨った。(中略)責めることも赦すこともできない相手との暮らしは、やがて彼女と彼女の夫をある種の昏睡ともいうべき状態に追い込んでいった。(中略)アンナは入退院をくりかえした。(中略)娘がいた世界といない世界。誰かによって何かによって、二度と消えることのない線が引かれたその裂け目に立ちつづけて七年が経ったある夜、ようやく彼女に夢を見ない眠りが訪れた。(中略)それから十年、アンナはミア寮で少女たちの世話をしている。はじめてマリーがミア寮に連れてこられてきたときのこと。そのときの荷物の少なさについて。(中略)そんなひとつの出来事にまつわるさらに細々としたことを、これまで幾度となくくりかえしてきたにもかかわらず、カレンはいつも、まるでいまはじめてあなたに話すんだけど、というような調子で話すのだ。(中略)マリーはぼんやりと湖を眺め、適当にあいづちを打ちながらカレンの話を聞き流していたけれど、はじめてマリーが作曲した歌について話題がさしかかると、やめてよ、と反射的にカレンを睨みつけた。「その話はしないでって、まえにも言ったでしょ」「でも、とてもいい歌だったのに」(中略)「でも、ひとつだけ、聞いておきたかったことがあるんだよね」「何を?」「簡単なことよ。あなたが、本当にわたしのことを愛していたのかどうかってこと」(中略)「そんなこと聞いて、どうなるの?」(中略)「べつにどうにもならなくたっていいじゃない。どうにかなることばっかり、有益なことにしか人は興味を持っちゃいけないってことはないんだから。わたしが何を知りたいと思おうが、それはわたしの自由じゃない。ねえ、そうじゃない?」「だったら答えるのも答えないのも、わたしの自由ってことになるよね」とマリーは言った。「だいたい、愛していたかどうかなんて、いったいどんなふうに答えればいいものなの? こういう場合、『ええ、わたし、あなたを愛していたわ』って言えば、それですむ話なの? そういうことが聞きたいの?」「そんなに難しく考えないでよ」カレンは目を細めた。「愛していたかどうか、あなたにわかる範囲で答えてくれればいいだけのこと」(中略)「ねえ、とにかくこんな話は無意味だよ。わたしはもうあなたとは何でもないんだから。何でもない人と、愛の話とかしたくないんだけど」少しの沈黙のあと、そうよね、とカレンは肯いた。「わたしが間違っていたのかも」「だったらもう、さきに行ってよ。集合場所に、さきにもどって」(中略)しかしカレンはこう言うのだった。「間違っていたかもっていうのは━━さっきわたし、もう未練なんかないって言ったでしょ。そのことよ。もしかしたら、わたしまだあなたのことが好きなのかもね。あなたの写真、わたしまだよく見てるし」(中略)「……ねえ、カレン、わたしたちはもうお終いねって話したあと、今度家に帰ったら、そのときに全部削除するって約束したよね。それであなたは一度家に帰ったわよね。それで、ぜんぶ消したって言ったよね。あなたがひとでなしでなかったら、あなたはわたしの写真なんて、それがどんな写真であれ、もう一枚だって見られないはずなんだけど」(中略)「あなたと約束したあとにね、気が変わったの。思い出って、ほら、誰のものでもないからさ。あったことは、あったことだもの。わたしはそれに従順なだけ」(また明日へ続きます……)

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