また昨日の続きです。
時計を見ると、集合時間まであと二十分だった。来たときとおなじようにまた時間をかけて山を下る。そして一時間もすれば、あの見慣れた部屋にいるのだ。(中略)食事の後の薬の投与、消灯時間の在室確認。瞼のうらの模様がどんどん膨らんでそれがすべてになってしまうまで、シーツにくるまって何も考えないでいる。おなじことのくりかえしだ。森や湖をいくら見つめてみても、迫ってくるものはもうどこにもなかった。(中略)彼女のふたつの肺のあいだには薄いつくりのコップがひとつあって、こういう気持ちになるたびに━━まるで雨漏りを受けつづけるボウルのように、そこに何かが溜まってゆく。(中略)それが溢れてしまったときに、きっと自分は死んでしまうのだとマリーはかたく信じていた。(中略)
「ねえ」とマリーは湖を眺めたまま小さな声で言った。「あなたには、できないことってある?」(中略)「できないことって?」「できないことよ」マリーは言った。「たとえば━━わたしは、人にたいして、死ね、ってことが言えない」「面とむかって言えないってこと?」「ううん。黙ってるときも無理。思ったりもできない」「冗談でも?」「「うん、冗談でも言えないし、思えない」(中略)「わたしは……本が踏めないかな。そうだね、本が踏めない。たぶん、親が教師だったせいかも。本は大事にしろって言われてきたから」(中略)
集合時間まであと十分という時間になり、さっきそれぞれが歩いてきた道をふたりでもどっていった。ハナとエリカがふたりを見てひそひそと笑った。看護係のアンナは細い腕の内側でこめかみの汗をぬぐい、それから両腕を何度もふりあげてシートについた草や土をばさばさと振り落としていた。(中略)ミア寮にいる少女たちのなかでいちばん年下のケイトはシロツメクサやそのほかの花を使っていくつもの王冠をつくり、それを自分のまわりに並べていた。(中略)マリー、これあげる。物をほとんど食べないケイトは少しの風にも震える声でマリーに言う。自由時間をぜんぶ使って人数分を編んだのだと嬉しそうに笑いながら、その王冠をマリーの頭の上にそっとのせた。月に二度ある、水曜日の午後のピクニック━━往復に一時間半ほどかけてする小さな登山が終わって、来たときとおなじように女の子たちは草原の斜面を降りていった。(中略)マリーは脚を速めてカレンの隣に追いつき、そして大きく息を吐いた。そして、さっきの話のつづきなんだけど、と話しかけた。
「まずひとつ。あなたは踏めないもののほうが多いって言ったけど、そんなことはない。踏めないものの数は、そんなに多くない。それからふたつ。あなたが私に求めた、愛の証明について。(中略)でも、証明できないからって、それが存在しないことにはならない。人が何を信じるのかは、それが証明されているからじゃないもの。想像できるから信じられるの。(中略)ねえ、人は、本当は、何もないところから愛を生みだすことなんてできないんじゃないかしら。(中略)愛じたいは、わたしたちの存在を越えて、最初から最後まできっとどこかにあるもので、愛っていうのはきっと、わたしたち個人のものなんかじゃなくて、どこかにあるものなのよ。どこかにあるそれに、わたしたちはときどき触ったり触らなかったりしているだけなのよ。たぶん。わたしがあなたを愛していたかどうかを証明することはできない。けれど、いま自分が誰かを愛していないからといって、愛が消えてしまったことにはならないんじゃないかしら。(中略)」
カレンはマリーの話を聞き流しながら、自分が踏んだ石の数(中略)をかぞえていた。そして自分がさっきマリーにした━━本当にわたしのことを愛していたのかどうかという質問のことも、もうよく思いだせなくなっていた。マリーは誰にも気づかれない汗をかきながら、(中略)正しいと思える言葉たちに一生懸命につないでいった。マリーの愛の証明は、ありふれた理想にすぎなかった。しかし自力でその場所に辿り着いたマリーにとって、そこから見えるものにかたちをつけてゆくことは、まるで自分自身を手術するくらいに困難なことだった。(中略)
アンナはいくつもの後ろ姿を見守りながら、草原のゆるやかな斜面を下っていった。校外学習と呼ばれるこのピクニックの帰り道、アンナはいつもさまざまな困難と問題をかかえたこの女の子たちの人生を、そして自分自身の人生を漠然と俯瞰しているような気持ちになることがあった。そしてうんと良く晴れた今日のような日には、アンナはそこに自分の娘の姿を見つけることもあった。(中略)わたしには娘が見えるのだから、存在しないものを、どうして人が見つめることができるだろう。(中略)少女たちは歩きつづけた。(中略)(また明日へ続きます……)
→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
時計を見ると、集合時間まであと二十分だった。来たときとおなじようにまた時間をかけて山を下る。そして一時間もすれば、あの見慣れた部屋にいるのだ。(中略)食事の後の薬の投与、消灯時間の在室確認。瞼のうらの模様がどんどん膨らんでそれがすべてになってしまうまで、シーツにくるまって何も考えないでいる。おなじことのくりかえしだ。森や湖をいくら見つめてみても、迫ってくるものはもうどこにもなかった。(中略)彼女のふたつの肺のあいだには薄いつくりのコップがひとつあって、こういう気持ちになるたびに━━まるで雨漏りを受けつづけるボウルのように、そこに何かが溜まってゆく。(中略)それが溢れてしまったときに、きっと自分は死んでしまうのだとマリーはかたく信じていた。(中略)
「ねえ」とマリーは湖を眺めたまま小さな声で言った。「あなたには、できないことってある?」(中略)「できないことって?」「できないことよ」マリーは言った。「たとえば━━わたしは、人にたいして、死ね、ってことが言えない」「面とむかって言えないってこと?」「ううん。黙ってるときも無理。思ったりもできない」「冗談でも?」「「うん、冗談でも言えないし、思えない」(中略)「わたしは……本が踏めないかな。そうだね、本が踏めない。たぶん、親が教師だったせいかも。本は大事にしろって言われてきたから」(中略)
集合時間まであと十分という時間になり、さっきそれぞれが歩いてきた道をふたりでもどっていった。ハナとエリカがふたりを見てひそひそと笑った。看護係のアンナは細い腕の内側でこめかみの汗をぬぐい、それから両腕を何度もふりあげてシートについた草や土をばさばさと振り落としていた。(中略)ミア寮にいる少女たちのなかでいちばん年下のケイトはシロツメクサやそのほかの花を使っていくつもの王冠をつくり、それを自分のまわりに並べていた。(中略)マリー、これあげる。物をほとんど食べないケイトは少しの風にも震える声でマリーに言う。自由時間をぜんぶ使って人数分を編んだのだと嬉しそうに笑いながら、その王冠をマリーの頭の上にそっとのせた。月に二度ある、水曜日の午後のピクニック━━往復に一時間半ほどかけてする小さな登山が終わって、来たときとおなじように女の子たちは草原の斜面を降りていった。(中略)マリーは脚を速めてカレンの隣に追いつき、そして大きく息を吐いた。そして、さっきの話のつづきなんだけど、と話しかけた。
「まずひとつ。あなたは踏めないもののほうが多いって言ったけど、そんなことはない。踏めないものの数は、そんなに多くない。それからふたつ。あなたが私に求めた、愛の証明について。(中略)でも、証明できないからって、それが存在しないことにはならない。人が何を信じるのかは、それが証明されているからじゃないもの。想像できるから信じられるの。(中略)ねえ、人は、本当は、何もないところから愛を生みだすことなんてできないんじゃないかしら。(中略)愛じたいは、わたしたちの存在を越えて、最初から最後まできっとどこかにあるもので、愛っていうのはきっと、わたしたち個人のものなんかじゃなくて、どこかにあるものなのよ。どこかにあるそれに、わたしたちはときどき触ったり触らなかったりしているだけなのよ。たぶん。わたしがあなたを愛していたかどうかを証明することはできない。けれど、いま自分が誰かを愛していないからといって、愛が消えてしまったことにはならないんじゃないかしら。(中略)」
カレンはマリーの話を聞き流しながら、自分が踏んだ石の数(中略)をかぞえていた。そして自分がさっきマリーにした━━本当にわたしのことを愛していたのかどうかという質問のことも、もうよく思いだせなくなっていた。マリーは誰にも気づかれない汗をかきながら、(中略)正しいと思える言葉たちに一生懸命につないでいった。マリーの愛の証明は、ありふれた理想にすぎなかった。しかし自力でその場所に辿り着いたマリーにとって、そこから見えるものにかたちをつけてゆくことは、まるで自分自身を手術するくらいに困難なことだった。(中略)
アンナはいくつもの後ろ姿を見守りながら、草原のゆるやかな斜面を下っていった。校外学習と呼ばれるこのピクニックの帰り道、アンナはいつもさまざまな困難と問題をかかえたこの女の子たちの人生を、そして自分自身の人生を漠然と俯瞰しているような気持ちになることがあった。そしてうんと良く晴れた今日のような日には、アンナはそこに自分の娘の姿を見つけることもあった。(中略)わたしには娘が見えるのだから、存在しないものを、どうして人が見つめることができるだろう。(中略)少女たちは歩きつづけた。(中略)(また明日へ続きます……)
→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)