恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラム。
まず8月29日に掲載された「特攻五輪」と題されたコラム。全文を転載させていただくと、
「こんな季節にオリンピック・パラリンピックなんて、どうかしてるよ。そう思わなかった人はいないだろう。熱中症で救急搬送された人は七月だけで約五万四千人、死者は百三十三人。各地で猛暑日が続いた八月の集計結果が恐ろしい。
二年後の五輪を考えるなら、開催日程を秋にずらすべきだと考えるのが正常な人の神経である。私は東京五輪そのものに反対なので、違約金を払ってでも五輪開催権を返上するのが賢明な判断だと考える。同じ意見の人も十人に一人くらいはいるんじゃないか。
開催日を秋にずらせないのは、アメリカの放送局の都合だそうだ。放映権料をあてにするIOCは最初から日程優先。その条件で招致に成功した日本も逆らえない。
せめて協賛企業の一社でも『この日程ならスポンサーは降りる』と表明しないか待っているのだが、それもない。大手新聞社がこぞって協賛企業という翼賛体制の下では新聞記事も『暑さ対策』を求めるのが精一杯。
かくて責任の所在が不明瞭なまま、死を賭した五輪が開催される。選手はもちろん、ボランティアスタッフも観客も命の危機にさらされる。まるで特攻五輪である。
二年後の猛暑日、朝のニュースは『屋外での観戦は控えましょう』『ボランティアにも参加しないでください』と呼びかけられるだろうか。甚だ疑問だ。」
また、10月31日に掲載された、「渋谷の文化」と題されたコラム。
「私はときどき本の買い出しに行く。「何か安くて旬のお魚はないかしら」と同じ感覚だ。
書評家ってのは因果な商売で、年がら年中、借金取りに追われるように『何か安くていい旬の本はないかしら』と思いながら暮らしている。『今日は収穫がなかったわ』ではすまない。何かしら獲物をゲットして帰らないと、明日締め切りの原稿が書けないのだ。
ところが、私があてにしている町の魚屋さんに該当する書店がどんどん消えている。渋谷の再開発にともない、四月には駅南口の山下書店が消えた。これは痛かった。
ここ十数年の渋谷を思い出しても、第一勧銀共同ビル地下の旭屋書店が消え、東急文化会館の三省堂書店が消え、文化村通りのブックファーストが消え、東急プラザの紀伊國屋書店が消え、明治通りの文教堂書店も、旭屋の後に移ったブックファーストも消えた。そして先日、買い出しに出かけると、桜丘のあおい書店が消えていた。なにそれ、聞いてねえよー!
2000年に約2.万1千5百店あった全国の書店は、17年には約1万2千5百店に減少した。渋谷の書店の撤退はビルの建て替えによる場合が多い。が、新しく建ったビルには書店が入らないのである。こうして渋谷は文化不毛の街と化し、ハロウィーンで騒ぐ人々に占拠される。因果関係はない? いや、あるでしょ。」
さらに11月4日の日曜日の東京新聞に掲載された、山口二郎さんの「法の支配と裁判所」と題されたコラムを転載させていただくと、
「安倍政権の特徴は、人の支配である。近代国家の大原則は法の支配である。この原理は、われわれ人民がおとなしく法を遵守(じゅんしゅ)するのではなく、権力者が己の欲望のままに、反対者を力ずくで弾圧したり、公共財産を私物化したりすることを防ぐために、法の支配は確立された。
森友・加計問題に表れているのは、最高権力者による権力の私物化である。沖縄県知事による名護市辺野古の埋め立て許可の撤回に対しては、防衛省が私人の立場に成り代わり、行政不服審査という人権救済の仕組みを悪用して撤回の効力を停止し、埋め立て再開を実現した。
法の支配を回復するためには、司法が法の番人としての役割を果たすことが必要である。しかし、原発、辺野古埋め立てなど政府がかかわる案件では、裁判所は政府を勝たせ続けている。最高裁判所判事の人事権を内閣が握っているので、巨大な官僚機構である裁判所は内閣の意向を忖度(そんたく)する。政治的な案件は多数者の意思に任せるというのがその理屈である。
そもそも裁判とは、多数者が憲法や法律を無視した意思決定を下す可能性を前提とし、多数者の誤りを正すためにある。裁判所が多数意思をチェックするという本来の役割を果たすよう、監視が必要である。」
今回も、2020年の東京オリンピックがアメリカのテレビ局からの放映権にたよって実現していること、本の紹介することを職業とする方にとって「いい」書店の減少がが仕事を困難にし始めていること、そして本来、三権分立であるはずの国のシステムが現在崩れ、安倍政権が裁判所と行政の人事権を持っていることによって1権独裁の形が実現していることを分かりやすい文章で紹介してくれていました。どの問題も解決策が急がれます。
→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
まず8月29日に掲載された「特攻五輪」と題されたコラム。全文を転載させていただくと、
「こんな季節にオリンピック・パラリンピックなんて、どうかしてるよ。そう思わなかった人はいないだろう。熱中症で救急搬送された人は七月だけで約五万四千人、死者は百三十三人。各地で猛暑日が続いた八月の集計結果が恐ろしい。
二年後の五輪を考えるなら、開催日程を秋にずらすべきだと考えるのが正常な人の神経である。私は東京五輪そのものに反対なので、違約金を払ってでも五輪開催権を返上するのが賢明な判断だと考える。同じ意見の人も十人に一人くらいはいるんじゃないか。
開催日を秋にずらせないのは、アメリカの放送局の都合だそうだ。放映権料をあてにするIOCは最初から日程優先。その条件で招致に成功した日本も逆らえない。
せめて協賛企業の一社でも『この日程ならスポンサーは降りる』と表明しないか待っているのだが、それもない。大手新聞社がこぞって協賛企業という翼賛体制の下では新聞記事も『暑さ対策』を求めるのが精一杯。
かくて責任の所在が不明瞭なまま、死を賭した五輪が開催される。選手はもちろん、ボランティアスタッフも観客も命の危機にさらされる。まるで特攻五輪である。
二年後の猛暑日、朝のニュースは『屋外での観戦は控えましょう』『ボランティアにも参加しないでください』と呼びかけられるだろうか。甚だ疑問だ。」
また、10月31日に掲載された、「渋谷の文化」と題されたコラム。
「私はときどき本の買い出しに行く。「何か安くて旬のお魚はないかしら」と同じ感覚だ。
書評家ってのは因果な商売で、年がら年中、借金取りに追われるように『何か安くていい旬の本はないかしら』と思いながら暮らしている。『今日は収穫がなかったわ』ではすまない。何かしら獲物をゲットして帰らないと、明日締め切りの原稿が書けないのだ。
ところが、私があてにしている町の魚屋さんに該当する書店がどんどん消えている。渋谷の再開発にともない、四月には駅南口の山下書店が消えた。これは痛かった。
ここ十数年の渋谷を思い出しても、第一勧銀共同ビル地下の旭屋書店が消え、東急文化会館の三省堂書店が消え、文化村通りのブックファーストが消え、東急プラザの紀伊國屋書店が消え、明治通りの文教堂書店も、旭屋の後に移ったブックファーストも消えた。そして先日、買い出しに出かけると、桜丘のあおい書店が消えていた。なにそれ、聞いてねえよー!
2000年に約2.万1千5百店あった全国の書店は、17年には約1万2千5百店に減少した。渋谷の書店の撤退はビルの建て替えによる場合が多い。が、新しく建ったビルには書店が入らないのである。こうして渋谷は文化不毛の街と化し、ハロウィーンで騒ぐ人々に占拠される。因果関係はない? いや、あるでしょ。」
さらに11月4日の日曜日の東京新聞に掲載された、山口二郎さんの「法の支配と裁判所」と題されたコラムを転載させていただくと、
「安倍政権の特徴は、人の支配である。近代国家の大原則は法の支配である。この原理は、われわれ人民がおとなしく法を遵守(じゅんしゅ)するのではなく、権力者が己の欲望のままに、反対者を力ずくで弾圧したり、公共財産を私物化したりすることを防ぐために、法の支配は確立された。
森友・加計問題に表れているのは、最高権力者による権力の私物化である。沖縄県知事による名護市辺野古の埋め立て許可の撤回に対しては、防衛省が私人の立場に成り代わり、行政不服審査という人権救済の仕組みを悪用して撤回の効力を停止し、埋め立て再開を実現した。
法の支配を回復するためには、司法が法の番人としての役割を果たすことが必要である。しかし、原発、辺野古埋め立てなど政府がかかわる案件では、裁判所は政府を勝たせ続けている。最高裁判所判事の人事権を内閣が握っているので、巨大な官僚機構である裁判所は内閣の意向を忖度(そんたく)する。政治的な案件は多数者の意思に任せるというのがその理屈である。
そもそも裁判とは、多数者が憲法や法律を無視した意思決定を下す可能性を前提とし、多数者の誤りを正すためにある。裁判所が多数意思をチェックするという本来の役割を果たすよう、監視が必要である。」
今回も、2020年の東京オリンピックがアメリカのテレビ局からの放映権にたよって実現していること、本の紹介することを職業とする方にとって「いい」書店の減少がが仕事を困難にし始めていること、そして本来、三権分立であるはずの国のシステムが現在崩れ、安倍政権が裁判所と行政の人事権を持っていることによって1権独裁の形が実現していることを分かりやすい文章で紹介してくれていました。どの問題も解決策が急がれます。
→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)