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斎藤美奈子さんのコラム・その106&前川喜平さんのコラム・その67

2022-02-17 13:26:00 | ノンジャンル
 恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラムと、同じく日曜日に掲載されている前川喜平さんのコラム。

 まず2月9日に掲載された「無責任な追悼」と題された斎藤さんのコラムを全文転載させていただくと、
「石原慎太郎氏は暴言の多い人だった。「文明がもたらしたもっとも有害なもおはババア」「三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している」。暴言の多くは、女性、外国人、障害者、性的マイノリティーなどに対する差別発言だったが、彼は役職を追われることも、メディアから干されることもなかった。そんな「特別扱い」が彼を増長させたのではなかったか。
 彼は生涯現役の作家だった。晩年に至ってもベストセラーを連発した。だが、作家としての石原慎太郎の姿勢にも私は疑問を持っている。
 朝日新聞の文芸時評を担当していた2010年2月。「文学界」三月号掲載の『再生』には下敷き(福島智『盲ろう者として生きて』。当時は書籍化前の論文)があると知り、両者を子細に読み比べてみたのである。
と、挿話が同じなのはともかく表現まで酷似している。三人称のノンフィクションを一人称に書き直すのは彼の得意技らしく、田中角栄の評伝小説『天才』も同様の手法で書かれている。これもまた「御大・石原慎太郎だから」許された手法だったのではないか。
各紙の追悼文は彼の差別発言を「石原節」と称して容認した。二日の本紙「筆洗」は「その人はやはりまぶしい太陽だった」と書いた。こうして彼は許されていく。負の歴史と向き合わず、自らの責任も問わない報道って何?」。

 また、2月13日に掲載された「コミットメントは約束」と題された前川さんのコラム。
「安倍元首相は九日、自民党の「責任ある積極財政を推進する議員連盟」設立総会でスピーチし、首相在任中に2025年度中の基礎的財政収支(プライマリーバランス)の黒字化目標を設定したのは「国際約束ではなく、コミットメント(決意)だ」と述べたという。
 久しぶりにこの人の詭弁(きべん)的言辞を聞き、どっと疲れる既視感を覚えた。20年1月、衆議院予算委員会での桜を見る会をめぐる質疑。宮本徹議員が、首相の地元事務所が桜を見る会を含む観光ツアーへの参加を募集していることをいつから知っていたのかと質問したとき、安倍氏は「幅広く募っているという認識だった。募集しているという認識ではなかった」と珍答弁をした。それを思い出したのだ。
 試みに僕が長年愛用してきた「カレッジクラウン英和辞典」(三省堂)を開いてみると、comm9tmentの訳語は「約束、、言質、言明、誓約、公約」とあり、同義語としてpromiseという単語も掲げられている。つまりコミットメントとは約束のことなのである。とこにも「決意」という意味はない。
 一万歩譲って彼のコミットメントが約束ではなく決意だったとしても、決意ならいくらでも反故(ほご)にそいていいわけがない。こんな無責任な人物を八年間も首相の座にとどまらせた日本の不幸を改めて痛感した。」

 そして、2月16日に掲載された「チョコと恋愛」と題する斎藤さんのコラム。
「バレンタインデーの夕方の街。直前の駆け込み組なのかな、チョコレート売り場にはやっぱり行列ができていた。
 2月14日はかつて女性にとって重要な日であった。「唯一女子から告白していい日」と喧伝(けんでん)されていたからだ。すると残る364日は「女子から告白しちゃダメな日」なのか!? たぶんそうだったのだろう。
 小笠原祐子『OLたちの〈レジスタンス〉』によると、仕掛け人は予想通りチョコレートメーカーで、「女性が好きな男性にチョコを贈る日」としてそれが定着したのは1970年代だったようだ。が、この習慣もまもなく形骸化し、この本が出た1998年当時は儀礼的に職場でチョコを配る義理チョコ文化の最盛期。愛の告白的な意味はかなり薄れていた。
さらに時間がたった現在では、非正規雇用者の急増などでOLという語もほぼ死語と化し、友チョコ、自分チョコなど、バレンタインデー文化も多様化している。
 恋愛の作法自体も変わった。恋愛も文化だから時代時代のジェンダー規範に縛られる。「告白するのは男子から」という過去の習慣は「慎み深い女性は自分から好きだなんて言えません」という馬鹿げた刷り込みによるものだったのだろう。
 チョコの数が人気のバロメーターになったのもすでに過去の話である。一喜一憂なさいませんように。」

 どれも一読に値する文章だと思いました。