伊藤彰彦氏の2016年作品『映画の奈落 完結編』を読みました。深作欣二監督作品『北陸代理戦争』の脚本を書いた高田宏治と主人公のモデルだった川内弘についての本でしたが、念入りな取材と、それをうまくまとめあげた点で評価されていい本だと思いました。
さて、恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラムと、同じく日曜日に掲載されている前川喜平さんのコラム。
まず3月23日に掲載された「男女別出席簿」と題された斎藤さんのコラムを全文転載させていただくと、
「本紙連載大型企画「ジェンダー平等/ともに」を楽しみに読んでいる。二十日の一面と社会面に掲載された記事も盲点をつくものだった。
〈「男女別」出席簿まだ一部で 小学校6.8%、中学は25.3%〉
首都圏の小中学校の男女混合出席簿の普及率を調べた記事で、そんなのとっくに100%達成されているだろうと思っていた私には意外な内容だった。都内では小学校の混合出席簿導入率が9割を超える一方、中学校で導入ゼロの自治体が十六。埼玉県川口市と千葉県船橋市では小中学校ともに導入率15%未満というのが目を引く。
ジェンダー平等の達成にとって、自治体ごとの差を数値化、見える化するのはきわめて有効な手段といえる。八日に初めて発表された「都道府県版ジェンダー・ギャップ指数」はそのお忌みでかなりおもしろい試みだった。行政分野のトップ5は鳥取、徳島、市が、島根、岐阜。教育分野のトップ5は広島、神奈川、石川、高知、岡山で、必ずしも「進んだ都会/遅れた地方」という結果になってはいないのだ。
ちなみに埼玉県の教育分野のランキングは47位、千葉県は36位だった。出席簿の問題も他の自治体と比較されたら、いずれ放置できなくなるだろう。混合出席簿は平等教育の基本中の基本。他県の導入率も知りたい。」
また、3月27日に掲載された「ヤジと民主主義」と題された前川さんのコラム。
「25日札幌地裁で、公道でヤジを飛ばした人を警察が排除したことを違法として賠償を命じる判決があった。2019年参院選で安倍首相(当時)の街頭演説に向かって「安倍やめろ」とか「増税反対」と叫んだ人たちを北海道警察の警察官たちが拘束し排除した。これが人身の自由と表現の自由を侵害する行為であることは明らかだ。当然の判決である。
この事件については北海道放送が製作した「ヤジと民主主義~小さな自由が排除された先に~」という優れたドキュメンタリー番組がある。今もユーチューブで見られるが、ヤジを飛ばした人を直ちに警察が排除する様子は歴然としている。「もめ事になる可能性がある危険な事態だった」という警察の主張に根拠がないことは明らかだ。
恐ろしいのは、ヤジを排除した警察官たちに何のためらいも疑念も感じられないことだ。彼らはただ上司の命令に忠実なだけだ。しかし国民の命令である憲法は上司の命令より上位にある。いくら上司い命じられても、人間の自由は決して侵してはならない。
今のロシアでは「HET BONHE(戦争反対)」と口にするだけで警察に拘束される。これはよそ事ではない。日本の警察もロシアの警察のようになりかけている。日本の警察を憲法に従う組織に作り直さなければならない。」
そして、3月30日に掲載された「論理国語と文学国語」と題された斎藤さんのコラム。
「新年度から高校の国語教育が変わる。
従来の国語総合」に変わり、新しい必修科目は論理的・実用的な文章を扱う「現代の国語」と、文學に特化した「言語文化」に分けられる。2023年度以降の登場する選択科目も「論理国語」や「文学国語」に再編されるのだそうだ。
批判の声は多い。受験対策上「論理国語」が優先されるのは必至。このままでは文学作品にふれる機会が減るばかりだ。そもそも「論理国語」と「文学国語」を分けたりできるものなのか。
私は文章指南書界の長い論争を思い出した。
発端は、谷崎潤一郎が『文章読本』で「私は、文章に実用的と芸術的の区別はないと思います」と書いたことだった。これはなかなかの爆弾発言で、以来、文章読本の書き手はみな谷崎に反発し「区別はある」と主張してきた。本多勝一『日本語の作文技術』は、文學的文章として詩歌・純文学・随筆・大衆小説を、事実的文章として論文・批評・解説記事・新聞記事をあげている。
たしかに詩歌と新聞記事とではテイストが異なる。が、そのテイストの差は両方知っていないと区別できない。谷崎潤一郎の主張は今から思うとラジカルだった。詩歌も小説も評論も、多様な文章を雑食させてきた日本の国語教育もラジカルだった。論理性と文学性は両立する。当たり前の話だろう。」
どれも一読に値する文章だと思いました。
さて、恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラムと、同じく日曜日に掲載されている前川喜平さんのコラム。
まず3月23日に掲載された「男女別出席簿」と題された斎藤さんのコラムを全文転載させていただくと、
「本紙連載大型企画「ジェンダー平等/ともに」を楽しみに読んでいる。二十日の一面と社会面に掲載された記事も盲点をつくものだった。
〈「男女別」出席簿まだ一部で 小学校6.8%、中学は25.3%〉
首都圏の小中学校の男女混合出席簿の普及率を調べた記事で、そんなのとっくに100%達成されているだろうと思っていた私には意外な内容だった。都内では小学校の混合出席簿導入率が9割を超える一方、中学校で導入ゼロの自治体が十六。埼玉県川口市と千葉県船橋市では小中学校ともに導入率15%未満というのが目を引く。
ジェンダー平等の達成にとって、自治体ごとの差を数値化、見える化するのはきわめて有効な手段といえる。八日に初めて発表された「都道府県版ジェンダー・ギャップ指数」はそのお忌みでかなりおもしろい試みだった。行政分野のトップ5は鳥取、徳島、市が、島根、岐阜。教育分野のトップ5は広島、神奈川、石川、高知、岡山で、必ずしも「進んだ都会/遅れた地方」という結果になってはいないのだ。
ちなみに埼玉県の教育分野のランキングは47位、千葉県は36位だった。出席簿の問題も他の自治体と比較されたら、いずれ放置できなくなるだろう。混合出席簿は平等教育の基本中の基本。他県の導入率も知りたい。」
また、3月27日に掲載された「ヤジと民主主義」と題された前川さんのコラム。
「25日札幌地裁で、公道でヤジを飛ばした人を警察が排除したことを違法として賠償を命じる判決があった。2019年参院選で安倍首相(当時)の街頭演説に向かって「安倍やめろ」とか「増税反対」と叫んだ人たちを北海道警察の警察官たちが拘束し排除した。これが人身の自由と表現の自由を侵害する行為であることは明らかだ。当然の判決である。
この事件については北海道放送が製作した「ヤジと民主主義~小さな自由が排除された先に~」という優れたドキュメンタリー番組がある。今もユーチューブで見られるが、ヤジを飛ばした人を直ちに警察が排除する様子は歴然としている。「もめ事になる可能性がある危険な事態だった」という警察の主張に根拠がないことは明らかだ。
恐ろしいのは、ヤジを排除した警察官たちに何のためらいも疑念も感じられないことだ。彼らはただ上司の命令に忠実なだけだ。しかし国民の命令である憲法は上司の命令より上位にある。いくら上司い命じられても、人間の自由は決して侵してはならない。
今のロシアでは「HET BONHE(戦争反対)」と口にするだけで警察に拘束される。これはよそ事ではない。日本の警察もロシアの警察のようになりかけている。日本の警察を憲法に従う組織に作り直さなければならない。」
そして、3月30日に掲載された「論理国語と文学国語」と題された斎藤さんのコラム。
「新年度から高校の国語教育が変わる。
従来の国語総合」に変わり、新しい必修科目は論理的・実用的な文章を扱う「現代の国語」と、文學に特化した「言語文化」に分けられる。2023年度以降の登場する選択科目も「論理国語」や「文学国語」に再編されるのだそうだ。
批判の声は多い。受験対策上「論理国語」が優先されるのは必至。このままでは文学作品にふれる機会が減るばかりだ。そもそも「論理国語」と「文学国語」を分けたりできるものなのか。
私は文章指南書界の長い論争を思い出した。
発端は、谷崎潤一郎が『文章読本』で「私は、文章に実用的と芸術的の区別はないと思います」と書いたことだった。これはなかなかの爆弾発言で、以来、文章読本の書き手はみな谷崎に反発し「区別はある」と主張してきた。本多勝一『日本語の作文技術』は、文學的文章として詩歌・純文学・随筆・大衆小説を、事実的文章として論文・批評・解説記事・新聞記事をあげている。
たしかに詩歌と新聞記事とではテイストが異なる。が、そのテイストの差は両方知っていないと区別できない。谷崎潤一郎の主張は今から思うとラジカルだった。詩歌も小説も評論も、多様な文章を雑食させてきた日本の国語教育もラジカルだった。論理性と文学性は両立する。当たり前の話だろう。」
どれも一読に値する文章だと思いました。