gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

高橋義人『ナチズム前夜のフリッツ・ラング』その2

2018-12-22 13:08:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
「邪悪な眼差しは『メトロポリス』(1926)のなかにも出てくる。労働者の娘マリアは平和を説くが、会社の社長が作らせたマリアそっくりのロボットは、労働者に反対を呼びかける。そしてロボットのマリアは本物のマリアとは違い、邪悪な眼差しを有している。その眼差しの命じるままに、労働者たちは決起し、工場を破壊する。だが、そのために自分たちの住む町が洪水に押し流され、子どもたちが死んでしまったことを知ったとき、労働者たちはマリアを『魔女』と呼び、彼女を火あぶりにする。邪悪な眼差しといい、魔女の火あぶりといい、ラングは魔女狩りの時代のモティーフを使いながら、この傑作を作りあげたのだ。
 『ドクトル・マブゼ』のなかで、暗い背景のなかにマブゼの顔だけが意味ありげに繰り返してアップになるシーンがある。このシーンでラングは、マブゼの有する恐ろしい暗黒の力を浮かびあがらせている。
 世の中を動かしているのは暗黒の力である。この力はマブゼのような特定の個人のうちに姿を現わすこともあれば、時代の運命となって現われることもある。これがラングの作品の多くを貫く主題であり、暗黒の力が主題をなしているからこそ、ラングは犯罪映画やフィルム・ノワールと呼ばれるジャンルを切り開くことができた。暗黒の力が出現しやすいのは、ハンナ・アレントの言う『暗い時代』である。『M』の最後で、捕まったMは連続少女殺人事件を起こした理由を述べている。『俺のなかに何者かの影が忍びよってきて、俺を苦しめる。俺は昼も夜も幻想の影におびえている。俺は妄想に襲われて、罪を犯してしまう。どうしようもなかったんだ』と。Mは犯罪者であると同時に、『暗い時代』の犠牲者である。『暗い時代』は悪魔の跳梁跋扈する時代である。Mは『あの声を聞くと、殺さずにいられなくなってしまう』と言うが、『あの声』とは悪霊の声、暗黒の力の声にほかならない。
 Mの弁護人が、『こいつは明らかに精神に異常を来している。彼に必要なのは医者である』と述べているように、Mは暗黒の力に操られる精神異常者だった。同じくマブゼも、『ドクトル・マブゼ』の終わりでは狂人となって現われる。Mやマブゼばかりではない。最初はラングが撮ることになっていた『カリガリ博士』の主人公も、映画の最後では狂人であることが判明する。異常な復讐欲に燃えるクリームヒルトもほぼ狂人である。マブゼのような狂人が強大な権力を手にすると、世の中はさらなる混乱の坩堝へと突き落とされ、クリームヒルトのように復讐欲に燃える人物が政権を取れば、他国との戦争は不可避になる。それがラングの映画にこめられたメッセージである。
 ラングのサイレント映画は、『死滅の谷』(1921)から『月世界の女』(1929)にいたるまで、すべて第一次大戦と第二次大戦のあいだに作られている。第一次大戦に敗れたドイツは精神的にも物質的にも疲弊し、人々は異常なインフレに苦しんでいた。それは、魑魅魍魎や悪霊の数々が跳梁跋扈する『暗い時代』だった。そんな時代にラングの鋭い感性は、眼に見えない魑魅魍魎をドクトル・マブゼやクリームヒルトやMとして形象化したのだった。つまりラングが戦前の諸作品で描いたのは『暗い時代』そのものであり、この時代によって悪の世界へと引きずり込まれる人々のどうしようもない運命だったのである。
 その意味では、ラングの処女作とも言える『死滅の谷』は示唆に富んだ作品である。原題は『疲れた死神』であり、死神は逢引き中のアベックのうち、男の方を死の世界へ拉致してしまう。嘆く娘は死神に、恋人を返してほしいと懇願する。死神もできたら返してやりたいと思い、娘に恋人の身代わりになる人物を探してきたら返してやろうと言う。娘は火事で燃えさかる老人ホームのなかへ飛びこみ、建物のなかに一人残された赤子を死神に渡そうとするが、渡すには忍ばず、赤子を窓から母親に差し出し、自ら火に焼かれて死んでしまう。
 死んだのは、男と娘である。男は第一次大戦中に戦死したドイツ兵なのかもしれない。そして恋人の死を嘆く娘も、戦後の疲弊した社会のなかでは生きつづけることができない。死神もできたら彼らを死なしたくはないが、その秘められた願いも叶わず、彼自身が『疲れている』。要するに、第一次大戦後のドイツで多くの人々が死の坂道をころがり落ちてゆくのは避けられない運命だ、とラングは言いたいのである。」(また明日へ続きます……)

高橋義人『ナチズム前夜のフリッツ・ラング』その1

2018-12-21 12:39:00 | ノンジャンル
 東京国立近代美術館フィルムセンターが発行した「NFCニュースレター・第30号」に載っていた、高橋義人さんの論文『ナチズム前夜のフリッツ・ラング』をこちらに転載させていただきたいと思います。

「ヨーロッパには古来から魔法円の迷信がある。描かれるのは円かペンタグラムで、この円のなかに入っていれば、人は悪魔や悪霊から身を守ることができるが、自分のいる円のなかに悪魔が入れば、悪魔によってずたずたにされてしまうという迷信である。この魔法円と覚しきものがラングの映画には時々出てくる。たとえば『ドクトル・マブゼ』(1922)には、降霊術の会で人々が手をつないで円をつくり、円のなかに霊を呼び出す場面が出てくる。円であることを示すために、ラングはテーブルを上方から撮影している。ラングの映画で円のモティーフは、非現実や幻想を表すために用いられることが多い。たとえばラングのハリウッド時代の作品『青いガーディニア』(1953)では、主人公の女性が眩暈を起こして倒れるときに、渦巻きのモティーフが現れる。『ドクトル・マブゼ』では画面の周辺がしばしば円形に縁どられる。木下恵介の『野菊の如き君なりき』で画面が卵形の円で白く囲まれるのは美しい回想シーンだったが、『ドクトル・マブゼ』の場合、円形の縁どりは、この円のなかにいる登場人物がマブゼの恐ろしい魔法の虜になっていることを示している。たとえばマブゼの敵である検察官ヴェンクは、マブゼの扮する魔術師ヴェルトマンのショーにおいてマブゼに魔法をかけられ、夢うつつの状態になってショーの会場を出てゆくが、このときも画面は円形に縁どられている。
 ラングの最初のトーキー作品『M』(1931)の冒頭にも魔法円が出てくる。円陣を組んでいるのは子どもたちで、その中央にいる女の子が、いま話題になっている殺人鬼について、『今度襲われるのは誰?』と指を指す。魔法円はここでも不吉なモティーフをなしている。この映画の後段では、魔法陣は円形ではなく、菱形になって現れる。連続少女殺しの変質者Mを警察とギャングの双方が追いつめる。Mとは殺人者(中略)の頭文字である。Mが通りを歩いている少女を見つけ、殺意を抱くとき、彼の顔は店のショーウインドーのなかの飾りの反射によって菱形に囲まれる。この菱形については諸説あり、たとえばG・ゼスレンは(中略)、ラングにとって四角形は男性的な原理、円は女性的な原理を表わすと主張している(中略)。しかし果たしてそう言えるだろうか。菱形に囲まれたとき、Mは自分でもどうしても制御できない殺人欲に駆られるのであり、菱形は魔法円と同じく、魔的な力を示していると考えるべきではあるまいか。
 Mは気の弱い内向的な中年男であり、彼はその気の弱さや内向性や変質癖ゆえに、魔的な力に捉われる。他方、ドクトル・マブゼは自ら魔的な力をふるって、人々を操ることができる。そこにマブゼとMの違いがある。そのマブゼの魔的な力は、彼の異様な眼差しによって表されている。トランプで賭事をしているとき、マブゼに睨みつけられた相手はその眼力に気圧され、勝てる手を持っているにもかかわらず、勝負を投げ出してしまう。マブゼの眼差しはまことに不気味である。だが、ヨーロッパの観客のなかには、マブゼのこの眼差しが何であるか、直覚する人が多いだろう。それは邪悪な眼差し(中略)と呼ばれるものだ。魔女狩りが猖獗をきわめた16、17世紀では、邪悪な眼差しは彼女の第一の特徴をなすものと考えられていた。グリム童話には記されていないにもかかわらず、後世の人々は、魔女から逃れようとした二人の兄妹は、魔女の邪悪な眼差しによって金縛りにあい、逃げることができなかったと解したのである。
 魔女が悪事をはたらくことができるのは、悪魔から邪悪な眼差しを授けられているからである。そしてマブゼもそのような眼差しを有しているからこそ、人々の心を自由に操ることができる。マブゼばかりではない。『ニーベルンゲン』(1924)の第二部『クリームリヒトの復讐』の主人公クリームリヒトもそうだ。夫ジークフリートを殺された彼女は、復讐の念に燃えて、邪悪な眼差しで部下のフン族を睨みつける。すると、部下たちはクリームリヒトの親族であるニーベルング族を襲い始め、フン族とニーベルング族のあいだに血なまぐさい戦闘が繰り広げられる。画面にはおびただしい数の死者が映し出される。ラングは明らかに、ジークフリートの死をオーストリア皇太子の暗殺に、フン族とニーベルング族の戦いを第一次大戦に重ねあわせている。ジークフリートが殺されなければ、クリームヒルトの凄惨な復讐劇は起きなかったであろう。そしてオーストリア皇太子が暗殺されなければ、第一次大戦は回避できたにちがいない。(中略)(明日へ続きます……)

鈴木則文監督『トラック野郎 突撃一番星』その2

2018-12-20 13:02:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
 夜。雨。ジョナサン、ひとりでラーメン食べてる。そこへ若い女(亜湖)がやって来てカップラーメンを食べ始める。ジョナサン、それが気になって汁をズボンにこぼしてしまう。ティッシュをくれる女。「素敵なトラックね。私は飛騨の下呂温泉でダンスの公演があるの。わたしはジプシー・マリー」「松島金蔵です。公演を見にいくよ」。リンゴをもらうジョナサン。
 桃次郎「エリコさんは?」スミ「結婚話がまとまったとかで、故郷の下呂に行った」。
 花嫁姿のエリコを想像する桃次郎。“飛騨路・下呂温泉”の字幕。エリコの母「エリコがやっと結婚を承知することに。相手は高山の銀行に勤めてて真面目。2人の子持ち。上は大学生」エリコ「桃さん、勘違いよ。母の再婚話。説得しに来たの」。
 (中略)エリコ「亡くなった父は青真珠の養殖の研究をしていて、飛騨にはたまにしか帰ってこなかった。小さい真珠が生きがい。(中略)」
 ストリップ劇場。ジプシー・マリー。背広姿で花を持つジョナサン。
 楽屋。「また来てくれてありがとう」。ジョナサン、火のついたタバコを差し出し、「寿司買ってきた。君のためなら何でもやる。トラックは人に貸して」「じゃあうちのマネージャーになってくれるのね。大好き」。
 “高山祭”の字幕。桃次郎がエリコを案内。
 駅弁を売る玉三郎の父、駅のホームで玉三郎を見つける。
 山車。「嘘はまだばれてない」。
 玉三郎の父「下呂温泉へ皆を招待します」。“飛騨獅子太鼓”の字幕。
 座敷。父「これで温泉芸者は全員だ」桃次郎「腹くくって飲もう」玉三郎もやけ酒。「来年にはホテルを借り切って」と玉三郎が言うと、父は彼の頭をつかみ、「皆さん、申し訳ない。ご迷惑をおかけしました。ただこうした友だちを息子が得たのは何よりも宝です」「父ちゃん」「皆に酌して回れ」。(中略)「では次はストリップの方を」、ジョナサンとジプシー・マリー現れる。
 父、ジョナサンに「倅がお世話になりました。飛騨の地酒です」。客にもみくちゃにされて笑顔のマリーに、ジョナサン「もう帰ろう。お前たちに見せてたまるか」父「ケンカは止めて、飛騨の太鼓を聞いてください」。太鼓を叩く父。
 桃次郎「トラックを捨てる覚悟は?」ジョナサン「女房子供もかわいいが、もう少しこの娘といたい」。マリー、ジョナサンの免許証を拾い、家族写真を見る。
 マリー「これ3粒飲めば楽に死ねる。私一人で先に行ってる」と言って3粒飲み、意識を失う。
 走る桃次郎。眠るジョナサン。「起きろ」「彼女は?」「早朝に発った。女中にこれを預けて」。『ジョナサンをお返しします。皆さんのお仲間にまた入れてあげてください。 マリー』。リンゴを見つめるジョナサン。「いい夢を見させてもらったな」。
 桃次郎「スミさん、エリコさんは?」「チーコとピーコが逃げた」。
 船で帰ってきたエリコに「見つかりましたか? 君のせいじゃない。力を落とさないで。僕が必ず取り戻す。どうすれば?」スミ「餌付けのゴングしか思いつかない」「船を出してくれ」俊介(川谷拓三)「よし、もう一度くたばりたかったら乗れ」。
 ゴングを打ち鳴らす桃次郎。やがて日も傾きかけた頃、やっとイルカが現われる。
 エリコ「帰ってきた!」と海に飛び込み、イルカと戯れる。スミ「エリコが好きなんだろ? 今度はエリコさんに奇跡を起こしてやんな」。スミ去り、泣き笑い。
 「乾杯!」俊介「桃次郎さんは男の中の男だ」エリコ「やっぱり言えない。女の方からプロポーズなんて。相手の気持ちもあるし」桃次郎「どーんとぶつかって来て下さい」。
 台風。エリコ「真珠研究所への返事を」俊介「断って下さい。先生の研究を継ぐと決めてから、エリコさんのことは諦めました」「父の二の舞になるわ」「無償の情熱を持つのは男だけです。筏の様子を見てきます」。
 高波の中で作業する俊介。それを見つめるエリコ。
 エリコの写真入りのペンダント。「今日は桃さんから皆へスイカの奢りだよ」桃次郎「今度こそ本当だ。向こうが指名手配してきた」ジョナサン「仲人は俺たち夫婦がしてやる。これから桃次郎がプロポーズに行くぞ。一本締めだ!」。
 上下白い背広姿の桃次郎。呆然と泣くエリコに「どうしたんです?」「俊介さんが遭難したんです。私たち愛し合っていて、結婚を夢見てました。昨日嵐の中を出て行く姿を見て、私が付いていく人はこの人だけだと分かったんですが、もう遅かった」。「救出されたぞ!」「ひどい出血だ。1時間以内に病院に」桃次郎「僕の車に」。
 さんざんたらい回しにされた結果、やっと手術で助かる。医者「もう少し遅かったら危なかった」「どうもありがとう」「2人で青真珠を」「じゃあ、これを俊介君に」とペンダントをエリコに渡す。
 桃次郎、ジョナサンに次いで玉三郎も「七転八起」とペイントされたトラックで走る。

 この映画も楽しめました。

鈴木則文監督『トラック野郎 突撃一番星』その1

2018-12-19 11:41:00 | ノンジャンル
 WOWOWシネマで、鈴木則文監督の1978年作品『トラック野郎 突撃一番星』を見ました。
 地球に近づくUFO。「今晩は。150光年のかなたからあなたに会いに来た者です」。“愛はUFO”のプレート。“トルコ宇宙船”のネオン。“未知との遭遇”のプレート。
 フェリーの上で望遠鏡を見る桃次郎(菅原文太)。やもめのジョナサン(愛川欽也)は「ついに気がふれてUFO狂いになった」と言う。そこへ美女が現われ、「今度私とコンタクトしない?」と誘ってくる。その女は自分の兄と言って高級服屋(せんだみつお)を紹介し、似合うと言われた桃次郎は4万7千円を払う。港に着いたらね、という美女。
 “伊勢志摩国立公園”“鳥羽港”の字幕。白づくめの姿の桃次郎とジョナサン。女と服屋は車で逃げる。
 「こんばんわ。地球のあなたに抱きしめられるのを待ってる。じらさないで。あなたとの第三種接近遭遇を」。目の前の道が明るくなり、白い姿の人影(原田美枝子)が現われる。一目ぼれする桃次郎。「宇宙人の使者の方ですか? ジョナサン、邪魔するな」。ジョナサンと桃次郎はケンカをし始め、その間に女性は消える。
 ニュース「続いてのUFO情報です」。ジョナサン「早く荷を乗せないと。(中略)やっと頼んで二人分の運賃もらったんだから」。
 ジョナサン「前方に服屋発見」桃次郎「よーし、挟み撃ちだ」服屋は桃次郎のトラックの上に乗り、そこからジャンプする。桃次郎は肥溜めを運ぶ老人に停車させられ、車も汚される。
 “海女の郷”。食堂。服屋「大盛のご飯お替り」店の者「もう3杯目よ」。そこへ桃次郎とジョナサンが現われ、服屋を捕まえる。服屋は玉三郎と名乗り、ジョナサンに助手にしてくれと懇願する。
 ジョナサン「玉三郎、人生は七転び八起きだ」玉三郎「社長、社歌を歌います」。東芝のCMの替え歌を歌う玉三郎。
 食堂。「ジョナサン、助手使ってんだってな。景気がいいな」「うちは赤字だ」桃次郎「クビにしろ」。玉三郎は外でUFOの娘を口説いている。あわてて井戸に落ちる桃次郎。
 玉三郎、桃次郎に「後ろに見えたUFOはただのバキュームカーだ。彼女は俺と同郷だ」「紹介しろ。大飯喰らいの役立たず」。
 イルカショーをやるUFOの娘。玉三郎、桃次郎を紹介する。「私、月田エリコです。このイルカはピーコとチーコで子供のころから面倒を見ています。こちらが上司のスミさん(樹木希林)です。餌をやってきますね」、ジョナサン「また恋をしたな。どうせ振られるのに」スミ「明日私と出かけませんか?」桃次郎「明日はUFO学会があって」「エリコとハイキングなんですけど」「間違ってました。明日なら大丈夫です」。
 “いるか研究所”のプレート。2人乗り自転車。テニス後のソフトクリームを顔にべっとりつける桃次郎。
 “東京”の字幕。食堂。玉三郎へ父からの手紙「お前は社長になっているらしいが、今度東京に同郷の者を誘って遊びに行く」。「社長かよ」桃次郎「どうする、玉三郎?」「嘘がばれたら大変だ。父はただの駅弁売りだ」「俺たちの会社を玉三郎の会社にしてやろう、なあ、社長」社長(小松方正)「仕方ない」。
 父来る。スイカの土産。「これが皆お前の会社のトラックか」ジョナサン「桶川運送弁当部、万歳!」皆も万歳する。
 玉三郎、父を社長席に座らせ「気分いいだろ?」ジョナサン「私は支社長です。こちらがタイピスト」と社長の妻(天地総子)と紹介すると、父は社長の妻に体をこすりつける。「皆でゆっくりと東京見物をするつもりだ」と父。社長は「もう止めた」と言うが、父は「社員を大切に」と玉三郎に言う。
 宴会で安来節を踊る桃次郎とジョナサン。
 「玉三郎のお父さん、よく飲むな」。
 父「社員の皆さん、じゃんじゃんやってください。休みまであと2日ある」玉三郎「ナポレオンを買って来い」「店はもう閉店です」「叩き起こして買ってこい」桃次郎「調子に乗るな」と玉三郎を連れ出す。彼らの相談を盗み聞く父。(中略)
 夜明けのトラック。
 エリコはイルカと泳ぐ。桃次郎「イルカ君の餌、持ってまいりました」。(中略)スミの自家用ジェットボートで真珠研究所に行く一行。
 溺れて意識をなくす桃次郎。スミ「死んだらだめ。桃太郎さーん。一目会った時から好きだった。こんな私でいいの?」桃次郎、エリコと勘違いしていて肯く。キスするスミ。(中略)
 港。ジョナサン「それは俺の荷だ。どうなってんだ、組合長さん」「不況続きで、白ナンバーより青ナンバーの方が信用できる。地元優先だ」。
 ジョナサン、他のトラック仲間からつるし上げを食っている。桃次郎「どうした?」「運賃を一人でダンピングしやがった」ジョナサン「稼ぎが悪くなって、人のこと構ってられるか! 駆けずり回ってやるしかない」桃次郎「出ていけ。二度と仲間に顔を出すな」、
 「クソー、馬鹿野郎」とジョナサン。(明日へ続きます……)

斎藤美奈子さんのコラム・その30&山口二郎さんのコラム・その15

2018-12-18 05:55:00 | ノンジャンル
 恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラムと、同じく日曜日に掲載されている山口二郎さんのコラム。

 まず12月12日に掲載された「正しい年表」と題された斎藤さんのコラム。全文を転載させていただくと、
「書店には『当代一のストーリーテラーが、平成最後の年に送り出す、日本通史の決定版!』を謳(うた)う歴史の本がもっか山積み。発売されてまだ一カ月なのに、アマゾンには早くも五百件近いレビューがついていた。
 でも、この本のことは別の媒体(さっき原稿を送ったばかり)に書いたので、これ以上はふれない。それよりも、右の本といっしょに買った別の歴史の本が予想以上に素晴らしく、ちょっと感動してしまったのだ。
 『ともに学ぶ人間の歴史』(学び舎)。じつはこれ、中学校の歴史分野の教科書である。
 まず驚いたのが巻末の年表で、日本史の時代区部は『北海道など』『本州など』『沖縄など』の三本立て。17世紀を例にとれば、北海道は『アイヌ文化の時代』、本州は『江戸時代』、沖縄は『琉球王国』だ。この年表で学んだ子どもは日本の多様性を知り、北の先住民にも沖縄の基地にも目が向くだろう。
 受験向きではないこともあり、採択しているのは国立や私立の一貫校が中心。昨夏、この教科書を選んだ灘中学に大量の抗議文が送りつけられたことでも注目された。抗議は慰安婦に関するものだったが、そんなのは枝葉の問題。このような教科書で学んでいる中学生がいると考えるだけでも嬉(うれ)しい。唯一の難点は、少部数のためか入手しにくいこと。なんとかならない?」

 また、12月9日に掲載された「人間破壊の国」と題された山口さんのコラム。
「入管法改正案の審議の中で、外国人技能実習生が三年間で69人も死亡していたことが明らかになった。現在の技能実習制度は奴隷的労働の温床となっていることは明らかである。この事実についての見解を問われた安倍首相は、『見ていないから答えようがない』と答えた。これだけ多くの人命が失われているのだから、答えようがないはないだろう。審議の前日、『ややこしい質問を受ける』と軽口をたたいた揚げ句がこれか。
 沖縄では辺野古埋め立てのための土砂搬入の準備が進められている。土砂を積みだす施設はカミソリ付きの鉄条網で囲われていたというニュースもあった。このまがまがしい鉄線は、あたかも県民を強制収容所の囚人とみなしているようで、沖縄を見下す国家権力の象徴である。
 敢えて言う。今の政府は人でなしの集まりである。外国人労働者は人間ではなく単なる労働力であり、死に追いやられる人権侵害があっても平気の平左。沖縄で県民が民主的手続きを通して新基地建設について再考を求めても、一切聞く耳を持たず、力ずくで工事を始めようとする。沖縄県民は主権を持つ国民の範疇(はんちゅう)には入れられていない。
 人間の尊厳に対してここまで無関心さらには敵意をたぎらせてるのは、あの権力者たちが人間として欠陥を抱えているからとしか思えない。」

 そして、12月16日に掲載された、「野蛮の国」と題された、山口さんのコラム。
「安倍政権はついに辺野古への土砂の投入を始めた。沖縄県民の身を切られるような痛みを想像しながら、暴挙を傍観するしかないのが情けない。
 民主主義国家において、力による直接行動は弱者、被治者が強者、権力者に異議申し立てをするとき、一つの方法として是認されている。黒人の政治参加の権利を求めたワシントン大行進から、最近のフランスにおける黄色いベストの運動に至るまで、市民が街頭に出て声を上げることで、強者が己の間違いに気づかされることがある。
 日本では、正反対に権力者が少数者、被治者に対してむき出しの力を振るっている。政府は合法的手続きを取ったと言い張るが、それは防衛省幹部が私人のふりをして行政不服審査に訴えたという茶番に由来する偽の合法性である。
 権力者の力ずくがまかり通るのは野蛮国である。スペインの思想家、オルテガは『大衆の反逆』の中で野蛮人の特徴として、他人の話を聞かない、手続き、規範、礼節を無視することを挙げている。日本の権力者にもそのまま当てはまる。『敵とともに生きる! 反対者とともに統治する! こんな気持ちのやさしさは、もう理解しがたくなりはじめ』たとオルテガが書いた。
 私たちにも、野蛮を拒絶し、文明の側に立つという決意を固めることくらいはできる。」

 今回も大変勉強になりました。