近く向日市を離れ、三重県に行くことになりました。どうして向日市で日本共産党が議席占有率日本一
になったのか?以前に出した本、「世直しご一緒に」を見ながら、今の思いも少し追加して向日市民の
皆さんへの贈り物にしたいと思います。45回位の連載になりそうです。
(本はあと少し残っているのでお申し込み頂ければお送りいたします。)
カバー画「乙訓の里」115×55・亀山素光。 作者(故人)は「釣り名人」として知られた「日本画家」。向日市に住んでおられ、1984年に著者が向日市長選挙に立候補する際、激励と共に寄贈されたもの。
世直しご一緒に、大橋満
寺前いわお元日本共産党衆議院議員の推薦のことば
向日市を日本一にしはった この活動。読んで、学んでほしいなあ
一人の議員を当選させるのが「やっと」というときにはじまって、2人から8人の議席へ。20年間で日本一にしはった!また、小選挙区の選挙で京都3区、初めて私を当選させる大きな役割を果たされた。その歴史を作った活動を学んでほしいなあ!
世直し ご一緒に 連載 NO.1
はじめに
京都府向日市は、北・東・西の三方を京都市と接し、京都と大阪を結ぶ交通の要に位置するまちで、五万五千人が生活しています。(2019年10月1日現在57,548人)面積七・六七平方キロメートル、西日本で一番狭い市域ですが、豊富な地下水に恵まれ、ふるく長岡京の時代(西暦784年頃)には大極殿をはじめとした中心施設がおかれ政治・文化の中心地として栄えた地域です。今は阪急西向日駅近くの「大極殿・朝堂公園」をはじめ、都市公園として整備されています。
一九六〇年代半ばから京都・大阪のベッドタウンとして人口が急増し、一九七二年に市制移行。まちづくりに参加する住民の運動が活発に展開されました。このまちで一九九九年、日本共産党議員団は三三%(定数二四人のうち八人)という全国一の議席占有率を達成し、以後も維持してきました(二〇一一年には定数二〇となり、共産党議員は六人で占有率三〇%)。住民とともに歩んできた共産党が、市民の方々に信頼されてきた結果だと思います。
私は、一九六七年に二七歳で市制移行前の町会議員に当選して以来、二〇一一年まで一一期四四年間、向日市の日本共産党議員団長を務めさせていただきました。私自身、市民本位の市政の実現のためにがんばってきたつもりですが、もちろん、主人公である住民のみなさん自身の運動があり、また、地域の共産党組織の発展と一体になって、ここまでやってこれたのです。
議会の中で、共産党議員団が大きな力を持つということはどのような意味があるのでしょうか。また、それはどうして実現したのでしょうか。これからどういう展望があるのでしょうか。自分なりに四四年間の足跡をふりかえって、考えてみようと思います。
本書の中心は、向日市の日本共産党議員として、生活相談活動と住民要求の実現、市政の改革と議会運営の民主化に取り組んできたことがらを、 主に向日市議会の議事録をもとにふりかえり、まとめたものです。その一つひとつが、議会外の住民運動と深く結びついたものであることは言うまでもありません。
また、 「もうひとつのライフワーク」は、 議員活動とともに五〇年間、 「日朝協会」の役員として、日本と韓国・朝鮮との真の友好を実現するために続けてきた国際問題の取り組みですが、これも議会で取り上げたことにしぼりました。
お読みいただいたみなさんが、それぞれご自身の暮らしと、まちの政治、国の政治を結びつけて、あらためてお考えいただき、「世の中まだまだ捨てたもんじゃない。これからも元気を出して生きていこう!」と思っていただければ、大変うれしく思います。(住民運動は、継続中であり後日編集委員会を作ってまとめ上げなければなりません。)