どこまでだって歩いていけるさ

2012年1月22日 それまでの日記を引き連れてOCN Cafeから移住。
新しい扉の向こうには何があるのだろうか。

何をどう見るか

2009年01月17日 | 日記
ここ数年売り上げの良かった我が社が 昨年の夏に増床したことはすでに書いた

階下の会社が移動して空き室になったところを借りることにしたのだ

その3分の1のスペースが 社員の食堂兼会議室というわけだ

そこにはかなり大き目の液晶テレビも設置した

ところが昼間の休み時間に見るものなど 誰もいない

ある者は分室で昼寝 ある者はPCでネット 携帯をいじくっている者や読書の人もいる

TV好きの社長が社員の為と思ってくれたのだろうが ほとんど飾り物と化している


それにしても いつの間にか液晶TVは当たり前になってしまった

TVを見る習慣の無い私の部屋にあるのは 1996年製14インチブラウン管

目覚まし時計としては異様に また無用に大きい代物

だからといって天気予報がはずれる確率は 液晶TVとなんら変わらずだ

画面が大きく美しいとか 音響が素晴らしいとかは 確かに大事な要素

それに習慣が無いとは言っても 一年に何度か 思い出したように見ることはある

私も買えないわけでもなく またあるに越した事は無いとも思う

素晴らしい映像を放映している時などは殊に


だが ほんの僅かな時間の為にさして必要でもない物を買うという気は起こらない(ケチなのか^^?)

それに加えて 自分の心や脳がどう情報を受け取り咀嚼するのか 

その事のほうが私には重要課題という気がしてならない

何をどのように見ようとも 私という人間の辞書に無い語彙は理解し得ない

学ぶとか知るとかいった以前の問題であり 人格とか感性とか習性とか知性とか常識とか・・・

早い話 同じ物を見たり聞いたり そして食べたりしても 思考の奥行きや幅は人によって違うということ


残念ながら 私の辞書は簡易版にできているのだが それを少しでも厚いものにできたらと思っている

勿論 そのきっかけとしてTVを見るという手段には何の反論も無いのだが

私は今のところ 別の手段を選択したいと考えている

娯楽としてTVを見るのは おそらくもうちょっと後のことになりそう

あっ 決してテレビっ子への批判では無いことをお断りしておく

言ったように 何をどう見るかは人にかかっていることだから
 
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