昔 年齢とともに食べる肉が牛から豚に 豚から鶏に変わるのは その動物を捕まえることのできる(あるいは飼育できる)自分の体力の変遷でもあるというような文を読んだことがある(飼育の後の捌きも含めてか)
誰が言ったものか そもそもその説の真偽も定かではないのだが 妙に納得した記憶がある(だから今もまだ覚えている)
受験による日本史アレルギーもあったのか 若い頃は西洋に関する本を読むことが多かった
エカテリーナやイヴァン雷帝といったロシアものから 中世ヨーロッパに関するもの ハプスブルグ家やルートヴィヒなどなど 絵画との密接な関係もあった一方 日本に関する歴史は受験の範疇を超えるものには一切触れてこなかった
それがいつしか変わってきたのは これもやはり私の体力の問題なのだろうかと最近思う
保科正之(家光の異母弟)のことも 会津藩・家綱補佐・山崎闇斎・藩校日新館が芋づる式にずらずらと出てくればそれで終わり
彼が秀忠のご落胤であり(そんなものは時代劇の中の話かと思っていたが) 名君であったことを私が知ったのは すでに中年を過ぎてからのこと
彼が作ったという「会津家訓十五か条」のことを知ったのもその時で 会津の子供たちはそれを学校で習うと聞いたが 現在もそうなのだろうか
家光から十分な信頼を得ていたうえに もともと徳川の血を引く彼が将軍徳川家への忠節を誓うのは 幕藩体制の地盤を強固なものにする必要のあった時代には当然だっただろうと思う
皮肉にも それが約200年たった幕末のあの悲惨な会津の運命につながったということなのだろうか
「もし」や「たられば」を歴史に持ち込むのはタブーだろうけれど 多くの人間が作り上げる歴史と一人の人間の言動によって動いていく歴史の綾について ついつい考えてしまう