みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

シクラメンを買いました/阪神大震災から11年。

2006-01-17 10:34:28 | 地震・原発・災害
  

1995年1月17日の明け方、
異様な地ひびきを感じて目を覚まし、
直後にドーンとつきあげるような揺れがきた。
「地震!」と飛び起きて、
どこかで大きな地震だ、と直感し、
すぐにテレビをつけた。

岐阜、京都、大阪・・・・・
つぎつぎに画面に写る震度。
数字に取り囲まれて神戸だけは空白だった。
震源地は神戸なのか?
午後になると、空から、燃えている神戸が写った。
神戸と縁が深い会社の社宅で育ったわたしは、
胸がつぶれる思いで一日中テレビを見ていた。

そのころわたしは、
チェルノブイリ原発被災者のためのNGO、
「チェルノブイリ救援・中部」の代表をしていた。
活動の経験から、いったん大災害が起きると、
現地は大混乱でなにもかも届かなくなる、
ことを知っていた。
なによりも情報の空白地帯になることも。

同時に、自治体議員もしていたので、
必要なひとに必要なものを届けるために、
正確な情報を知りたいと、
援助が必要なあちこちの役所に電話をかけた。
わかったのは、どこも情報が錯綜し混乱していて、
行政システムがまったく機能していない、
という事実だった。

3日目の朝、いてもたってもいられない思いで、
リュックサックに思いつくかぎりの物を詰めて、
とるものもとりあえず、4人で神戸に向かった。

西宮から徒歩で神戸にはいり、
目に映る現地の惨状に言葉もなく、
唇をかみしめながらただ歩きつづけた。
「この大地震はどこに起きても不思議はなかった。
あの朝、救われていたのはわたしだった。
わたしは無力だ」と思いながら。

現地を自分の目で見たわたしは、
チェルノブイリへの救援活動をきゅうきょ
「阪神大震災の被災者支援」に切り替えた。

その後、救援車両の許可証をもらって、
必要な医薬品や生活物資を届けるために
なんども岐阜と神戸を往復した。
わたしたちの救援の基本は、
「援助が受けにくいより弱い人たちに」
「ハンド・ツー・ハンドで」だった。

テントの中などで孤立している人を探し、
救援物資を届けながら、あちこちの避難所に
「岐阜にきませんか」とポスターを張り、
たくさんのひとを無条件で受け入れた。

 

  

 

  

あれから11年。

わたしが出会ったひとたちは、
いまどうしているのだろう。


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コメント (3)
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