きょうの朝日新聞「論壇時評」は、
高橋源一郎さんの「原発と社会構造 真実を見つめ上を向こう」。
原発事故関連であらわされた論考についての批評。
開沼博さんの『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』も取り上げられている。
2011.6.30 朝日新聞
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原発については、ウイメンズ アクション ネットワーク(WAN)でも、
[WAN的脱原発]の特集を組んでいておもしろい。
シリーズの(5)は、岡野八代さんの「脱原発の思想――安全神話から、安心な社会の構想へ」。
昨日かえってから読んだ、朝日新聞【私の視点】の、
「放射能のリスク 汚染の中で生きる覚悟を(今中哲二)」にも考えさせられた。
「論壇時評」の見開きの右のページの、きょうの朝日新聞社説。
リスクは、だれにも同じように降りかかってくる、わけではない。
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高橋源一郎さんの「原発と社会構造 真実を見つめ上を向こう」。
原発事故関連であらわされた論考についての批評。
開沼博さんの『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』も取り上げられている。
2011.6.30 朝日新聞
【論壇時評】原発と社会構造 真実を見つめ上を向こう 作家 高橋源一郎 2011.6.30 朝日新聞 ■真実見つめ上を向こう 20歳だった頃、ぼくは、ある大手自動車工場の季節労働者として働いていた。同じような仕事をしていても正社員とは大きな差をつけられていた。ある時、不思議な社員がひとり混じっていることに気づいた。彼は正社員なのに、ぼくたち季節労働者のように無視されていた。やがて、彼がかつての「左派」の組合の生き残りで、会社との共存を目指すいまの組合から徹底して疎んじられていることを知った。夜明け近く、夜勤が終わろうとした時、停止中のベルトコンベヤーの横で、彼と話したことがあった。 「なんだか、この職場、暗いですね」 「労働運動がなくなったからね」 「……労働運動って、何ですか?」 ぼくがそう訊(たず)ねると、彼は、数秒押し黙り、こう答えた。 「みんなで上を向くことかな」 ぼくは9カ月働いたが、結局、彼に話しかける社員は一人もいなかったのだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・ 木下や今野が、原発と労働の関係に焦点を当てたとするなら、開沼博は原発と地域社会の関係に注目する。なぜ、原発は「福島」にあるのか。その謎を徹底的に追及したのが、『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』だ(〈3〉)。まだ20代の、福島県出身の大学院生の修士論文が一躍脚光を浴びることになったのは、ぼくたちがもっとも知りたかったことが書かれているからだ。福島に原発が到来した理由を調べることは、「原子力」を鏡として、戦後そのものを、あるいは、近代140年の歴史を見つめ直す試みでもあった。3月11日の直前に完成した、この長大な論考は、その日を予期したかのような発見に満ちている。 著者がいう「原子力ムラ」は、いわゆる、中央の、原子力を囲む閉鎖的な官・産・学問の共同体のことではない。福島のような、原発と共に生きることを選んだ地方の「ムラ」のことだ。 「成長は中央にとってのものであり、ムラにとってのものではなかった」。その中で「原発誘致」が始まる。「福島第一原発建設計画は『東北のチベット』と自称しながら困窮に悶(もだ)えるムラの発展をかなえる『夢』」として提示された。確かに原発は一時の繁栄を「ムラ」に与えた。だが、結局は、「ムラ」を「原発依存症」にしただけではなかったか。気づいた時には、もう他の選択肢はなかった。ぼくたちに、そんな「原子力ムラ」のほんとうの姿は見えなかったのだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・ 木下や今野はぼくたちが「見てこなかった」労働者を白日の下にさらし、開沼は「見てこなかった」ムラを提出する。ぼくたちひとりでは「見えない」ものも、専門家は見せてくれることができる。だが、専門家が見つけたものにはそれを「見よう」という強い意志を持つ、ぼくたちのような素人が必要なのだ。 最後に、ネット上で話題を呼んだ動画(宮崎駿の菅首相へのメッセージ〈7〉、反原発デモの集会での歴史社会学者・小熊英二の挨拶(あいさつ)〈8〉)とツイッター(作家・矢作俊彦の「鼻をつまんで菅を支持する」〈9〉)にも触れておきたい。それらのことばは、一見、関係ないようでいて、彼らの「専門」との深い関連を感じさせる。共通しているのは、忘れられていた「みんなで上(未来)を向こう」という思いではなかったか。 ◇ たかはし・げんいちろう 1951年生まれ。明治学院大学教授。作品に『優雅で感傷的な日本野球』『さよなら、ニッポン』など。作家デビュー前の20代の10年間、肉体労働の日々を送った。 |
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原発については、ウイメンズ アクション ネットワーク(WAN)でも、
[WAN的脱原発]の特集を組んでいておもしろい。
シリーズの(5)は、岡野八代さんの「脱原発の思想――安全神話から、安心な社会の構想へ」。
[WAN的脱原発](5)脱原発の思想 ――安全神話から、安心な社会の構想へ 岡野八代 2011年06月29日 WAN 「心配しないで」と普段私たちが日常会話で使うときそこに込めようとする、あるいは聞き取ってしまう含意とはなんだろう。今回の大震災後、多くの人が、「一人じゃないよ」「私たちも一緒にいる」という言葉を口にするのを何度も聞いて、安心と安全のあいだには大きな隔たりがあり、しかもその隔たりは、ジェンダーの視点からその意味をしっかりと考える必要があるのでは、と思い始めた[以前、本エッセイに関連する論文として「平和を求める――安全保障からケアへ」という拙稿を書いたことがあるので、そちらも参照してほしい。太田・谷澤編『悪と正義の政治理論』(2007)。 決定的だったのは、ニュースを通じて、ミャンマーからの難民で今回の被災地でのボランティアとなった方が、津波にあったビルを清掃しながら「ここにいるのは、日本人だけじゃないから」という、自らの言葉を涙に詰まらせているのを見た時だ。そう、人は誰かを安心させようとするとき、「自分もここにいるよ」と知らせようとするのだ。 問題を抱え、不安でたまらない時、たとえその問題を解決することにはならなくても、一緒に悩んでくれる友がいてくれる。何かに困っている時、途方に暮れている時、「もう大丈夫、心配ないよ」という他人の言葉に、「自分も一緒にいるから」という言葉を聞き取ってしまう。それが、安心するときの経験ではないだろうか。 安心する、という私たちの経験が教えてくれているのは、誰かと問題を共有し、共にその問題に心を配ってくれる人がいると確証できることの大切さである。私たちの人生には心配の種が尽きないけれど、だからこそ逆に、安心させてくれる他人と出会い、またわたしも誰かに安心を届けられることに喜びさえ感じることができる。ミャンマーから難民として日本社会で生活し始めた人たちが、「自分たちもここにいる」という言葉で伝えようとしているのは、日本社会はそうした安心を与えられる人々で構成されていること、だから、もちろん不安はすべて払拭されないかもしれないけど、それでももう少し未来が見通せるように、共にこうして問題に立ち向かっていけるはずだ、というメッセージなのだろう。・・・・・ (つづきはWANサイトでどうぞ) |
昨日かえってから読んだ、朝日新聞【私の視点】の、
「放射能のリスク 汚染の中で生きる覚悟を(今中哲二)」にも考えさせられた。
【私の視点】放射能のリスク 汚染の中で生きる覚悟を 今中哲二(京都大原子炉実験所助教) 2011-06-29 朝日新聞 旧ソ連のチェルノブイリ原発事故の影響について、長年にわたって現地の調査を続けてきた。その過程で、放射性物質に汚染された地域での被曝(ひばく)線量をソ連がかなり綿密に調べていたことを知った。村ごとに外部被曝による線量や、食品や牛乳などから体内に取り込まれる放射性物質を計算し、基準値と照らし合わせ、居住可能かどうかを判断していた。 福島第一原発事故の被災地でもこのような作業が必要だ。放射性物質の分布は濃淡が激しく、同じ集落でも、場所が違うと線量も異なる。だから、住宅1軒ずつの線量を計測しないと、被曝量も出せない。その土地で摂取されるあらゆる食品の放射能も、住民の内部被曝の度合いも測るべきだ。そして、住民に「あなたがここに住み続けると受ける線量はこのくらいですよ」と示す必要がある。 線量をはかりにくいストロンチウムやプルトニウムがまき散らされたチェルノブイリに比べ、福島の被災地に残るのはほとんどが放射性セシウムで、計測に大きな困難はない。自治体が責任を持ってその作業を進めるのが望ましい。そのうえでとどまるかどうかは、住民自身が決めることだ。 よく基準値以上なら危険で以下なら大丈夫、と考える人がいる。年間1ミリシーベルトとか、20ミリシーベルトとか、さまざまな基準値が議論されている。しかし、こうした数値は、科学的根拠に基づいて直接導かれたものではない。がんになるリスクのある放射線にどの数値まで我慢するかは、社会的条件との兼ね合いで決まる。 たとえば、1ミリシーベルト以下でも我慢できず、安全な場所に引っ越そうとする人もいるだろう。しかし、引っ越しにはそれなりの経済的、精神的負担が伴う。人によっては「20ミリシーベルトを超えてもまだ故郷に残りたい」「農業を続けたい」という判断もあるに違いない。 放射能をどこまで我慢するか。この難しい判断を市民一人ひとりが迫られている。それは福島県だけのことではない。東京もそれなりに放射能に汚染されている。少なくとも一時は、外出を控えた方がいいほどのレベルだった。だとすれば、汚染の低いところへ避難すべきだったか。そこでも、個人の判断が必要になる。 私たちはもはや、放射能汚染ゼロの世界で暮らすことが不可能になった。これからは、放射能汚染の中で生きていかなければならない。その事実を受け入れたうえで対策を考えなければならない。(構成・国末憲人) 2011.6.29 朝日新聞 |
「論壇時評」の見開きの右のページの、きょうの朝日新聞社説。
社説:放射線と不安―感じ方の違い認めよう 2011年6月30日(木)付 朝日新聞 放射線への不安が被災地から離れた場所にも広がっている。東京など首都圏でも、個人や市区町村が公園や通学路、給食の食材など、身の回りの線量を測っている。 原発事故の現場に近い福島県とは切迫感に差がある。だが、一時的にせよ東京では水道水で、遠い静岡でも製茶で、放射性物質が基準を超えていた。日々発表される数字は常に過去のものであり、いま自分のまわりでどうなのかはわからない。不安を感ずるのも無理はない。 まずは、わかりやすくきめ細かな情報を提供したい。 原発事故から3カ月余り。市民が放射線の情報を理解して判断する力は上がっている。行政が単に「安心して」と広報して納得できた時代ではもうない。 とくに、幼い子を持つ親世代の不安にどう応えるか。重要かつ難しい課題である。 たとえば、厚生労働省が「妊娠中の方、小さなお子さんをもつお母さん」向けに出したパンフレットは「水道水は安全です」「外で遊ばせても心配しすぎる必要はありません」と簡潔にし、あえて具体的な根拠や数値を入れなかった。すると「かえって不安になる」と、親たちからの批判にさらされた。 身近な市区町村や学校は、住民に理解と納得をしてもらううえで大きな役割を担う。砂場の砂に不安を覚える人がいれば、一緒に線量を測り、説明する。安全かどうか、見解が分かれる値なら、話し合って砂を入れ替えることもあってよい。 低線量の放射線の危険は、わからないことが多く、受け止め方は人によって違う。子どもは大人より放射線の影響を受けやすいから、親世代は心配する。 「子どものためなら、徹底的に安全策をとりたい」と考える人がいる。食材が心配で学校の給食を食べさせたくないから弁当を持たせる、野外活動が心配だから休ませる――。逆に「気にしすぎて野菜不足や運動不足になるほうが、子どもの成長に悪い」と考える人もいる。 どこまで心配し、安全策をとるか。個人の価値観で判断が分かれるところが出てくる。 鋭敏になっている子育て世代に上の世代が「心配しすぎだ」といっても、やすらげない。考え方の違いがあれば、互いの選択肢を封じることなく尊重し、語りあえる関係を守りたい。 子どもの健やかな成長はだれもが望んでいる。放射線リスクの受け止め方の違いで社会に亀裂を生じさせ、原発事故の被害がさらに広がらないよう、子育て世代の不安を受け止めたい。 |
リスクは、だれにも同じように降りかかってくる、わけではない。
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