久しぶりに夕方、庭に咲いている花を撮りました。
食べるショウガとはちがうジンジャー。
和名でハナシュクシャ(花縮砂)。
英名ではジンジャー・リリー、ガーランド・リリーといいます。
センダンの樹の下に育っているジンジャーは、
オレンジ色の花を咲かせています。
日中は日陰になっているのですが、
西に傾いてきた陽が花に当たってあざやかに浮かび上がっています。
茎の断面が四角い カクトラノオ(フィソステギア)は咲きはじめ。
薄桃色ののすすしげな花です。
樹の下に増えているので、これからつぎつぎに咲いてくれます。
きのうは、まどかさんたちが買ってきてもらったお寿司とお惣菜で夕食。
子どもたちも大はしゃぎ。
たまには外食もよいのですが、持ち寄ったもので家で
ゆっくりとおしゃべりしながら食べるのもいいものですね。
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話しは変わりますが、
8月29日からの中日新聞社説で、
「私たちは憲法精神を守る言論に立つ。戦後の平和な社会は、この高い理想があってこそ築かれたからだ。
一度、失えば平和憲法は二度と国民の手に戻らない。」
「読者のみなさんとともに、今、あらためて憲法を考えたい」
と、「今、憲法を考える」が連載されています。
きょうの社説で3回目。
終わりと書いてないので、まだ続くようで、読むのが楽しみです。
社説:平和の道しるべたれ 今、憲法を考える(1) 2016年8月29日 中日新聞 マッカーサーの執務室が今も残っている。皇居堀端の第一生命本社ビルの六階。連合国軍総司令部(GHQ)が一九四五年の終戦後、そこに置かれた。執務室は広さ約五十四平方メートル。引き出しのない机と革製の椅子…。背もたれのばねが弱り、今は座ることを許されない=写真、同社提供。 四六年一月二十四日。当時の首相幣原喜重郎は正午にGHQを訪れた。年末から年始にかけ肺炎で伏せっていたが、米国から新薬のペニシリンをもらい全快した。そのお礼という口実をもって、一人で訪問したのである。 お礼を述べた後、幣原は当惑顔をし、何かをためらっている様子だった。最高司令官のマッカーサーが「意見を述べるのに少しも遠慮する必要はない」と促すと、幣原は口を開いた。 何と「戦争放棄」の条項を新憲法に入れる提案をし始めたのだ。日本が軍隊を持たないということも…。「マッカーサー回想記」の記述だ。こう続く。 <私は腰が抜けるほどおどろいた。(中略)この時ばかりは息もとまらんばかりだった。戦争を国際間の紛争解決には時代遅れの手段として廃止することは、私が長年情熱を傾けてきた夢だった> 二人の会談は三時間に及んだ。マッカーサーは後に米国議会上院でも同じ趣旨の証言をした。 また五七年につくられた憲法調査会会長の高柳賢三がマッカーサーに書簡を出したことがある。戦争放棄はどちら側から出た考えなのかと-。 五八年十二月に返信があった。その書簡でもマッカーサーはやはり幣原による提案だと書いていた。今年になって、堀尾輝久東大名誉教授が見つけた新史料である。こう綴(つづ)られている。 <提案に驚きましたが、心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました> 幣原側にも史料がある。五一年に亡くなる十日ほど前に秘書官だった元岐阜県知事平野三郎に東京・世田谷の自宅で語った文書である。その「平野文書」が国会図書館憲政資料室に残る。 <風邪をひいて寝込んだ。僕が決心をしたのはその時である。それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった> <天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた> 天皇制存続と絡み合う オーストラリアなどは日本の再軍備を恐れるのであって、天皇制を問題にしているのではない、という幣原の計算があった。戦争放棄をすれば、天皇制を存続できると考えたのだ。この二つは密接に絡み合っていた。そして、マッカーサーと三時間かけて語り合ったのである。 <第九条の永久的な規定ということには彼も驚いていたようであった。(中略)賢明な元帥は最後には非常に理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった> <憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来(でき)ることではなかった> 「平野文書」は九条誕生のいきさつを生々しく書き取っている。 むろん、この幣原提案説を否定する見方もある。GHQに示した当初の政府の改正案には「戦争放棄」などひと言もなかったからだ。大日本帝国憲法をわずかに手直しした程度の内容だった。かつ、二人の会談は録音がないから、明白な証拠は存在しない。ただ、会談から十日後に示されたマッカーサー・ノートと呼ばれる憲法改正の三原則には、戦争放棄が入っている。 ドイツの哲学者カントは十八世紀末に「永遠平和のために」で常備軍の全廃を説いた。第一次大戦後の二八年にはパリで戦争放棄をうたう不戦条約が結ばれた。実は大正から昭和初期は平和思想の世界的ブームでもあった。軍縮や対英米協調外交をすすめた幣原もまた平和主義者だった。 戦後国民の願いでも 憲法公布七十年を迎える今年、永田町では「改憲」の言葉が公然と飛び交う。だが、戦争はもうごめんだという国民の気持ちが、この憲法を支え続けたのだ。多くの戦争犠牲者の願いでもあろう。行く末が危ういとき、この憲法はいつでも平和への道しるべとなる。 私たちは憲法精神を守る言論に立つ。戦後の平和な社会は、この高い理想があってこそ築かれたからだ。一度、失えば平和憲法は二度と国民の手に戻らない。 読者のみなさんとともに、今、あらためて憲法を考えたい。 |
社説:過去幾多の試練に堪へ 今、憲法を考える(2) 2016年8月30日 中日新聞 詩人の谷川俊太郎さんが世界人権宣言を訳している。一九四八年、国連で満場一致で採択された宣言である。第一条は-「わたしたちはみな、生まれながらにして自由です。ひとりひとりがかけがえのない人間であり、その値打ちも同じです」。 第三〇条は「権利を奪う『権利』はない」。真理である。例えば基本的人権はどんなことがあっても奪われない。たとえ国民が選んだ国家権力であれ、その力を乱用する恐れがあるため、憲法という鎖で縛ってある。その目的は人権保障であり、個人の尊重である。日本国憲法九七条はこう記す。 <基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託された> 信託とは信頼して管理や処分を任せることである。憲法学者の石川健治東大教授によれば、信託者、受託者、受益者の三者からなる。この九七条では過去の国民が現在・将来の国民に信託している。受託者は受益者のために厳粛な責任を負うという意味である。受益者は将来の国民でもある。 そうして過去・現在・未来をつないでいるわけだ。そもそも戦争の犠牲の上にある憲法だ。 「戦争犠牲者から常に問い掛けられている部分で、この憲法の深みにつながっています。見えない原動力です」と石川氏は語る。 国民への信託は憲法一二条とも響き合う。自由と権利のために国民に「不断の努力」を求める条文である。憲法は権力を縛る鎖であるから、憲法を尊重し、擁護する義務に国民は含まれない。だが、信託によって、国民は道徳的に、そして道義的に「不断の努力」が求められる。 人間とはある政治勢力の熱狂に浮かれたり、しらけた状態で世の中に流されがちだ。移ろいやすさゆえに、過去の人々が憲法でわれわれの内なる愚かさをも拘束しているのである。 「信託」の言葉は、憲法前文にも「国政は、国民の厳粛な信託による」と記されている。この受託者は代表者であり、やはり道徳的な重い責任を負う。未来の国民のために信託を受け努力する。それが憲法に流れる精神である。 自民党の憲法改正草案は、その重要な九七条を全文削除する。権利を奪う「権利」はない-、それが過去から受け継ぐ真理だ。 |
社説:明治の論争が試される 今、憲法を考える(3) 2016年8月31日 中日新聞 大日本帝国憲法をめぐる枢密院での伊藤博文と森有礼との論争は有名である。伊藤は初代首相、森は初代文部相となる重鎮だ。伊藤は憲法創設の精神を語った。 <第一君権ヲ制限シ、第二臣民ノ権利ヲ保護スルニアリ> 立憲君主制をめざしたので、君主の権力を制限して、国民の権利を保護すると述べたのだ。憲法で権力を縛る立憲主義の根本である。 森の答えが実に興味深い。 <臣民ノ財産及言論ノ自由等ハ、人民ノ天然所持スル所ノモノニシテ(中略)憲法ニ於テ此(これ)等ノ権利始テ生レタルモノヽ如ク唱フルコトハ不可ナルカ如シ> 生まれながらにして持つ権利は憲法で明文化する必要はないと主張しているのだ。弁護士の伊藤真さんに解説してもらった。 「明文化すると、明文化されていない権利が無視されることを恐れたのです。人間の持つ自然権は、すべてを書き尽くせません。基本的なことを書き、時代に即して解釈していく方が幅広く人権を守れると考えたのです」 自然権は十七世紀に活躍した英国の思想家ジョン・ロックらが主張した。権利を守るために契約により政府をつくる。もし、正しい政治がなければ、国民が政府に抵抗する「抵抗権」を認めた。さて自然権を憲法に書くべきか-。 一七八七年の米合衆国憲法には当初なかった。九一年の修正条項で自由と権利が規定された。フランスの一九五八年の憲法でも規定がないが、前文で一七八九年宣言への至誠をうたう。フランス革命時の有名な人権宣言である。つまり、生まれながらに持つ自由と権利は自明の理なのだ。 「天賦人権説」という。日本国憲法もこの考え方に基づくが、自民党の憲法改正草案は同説を採用しないと公言する。草案は「公の秩序」が人権より上位にくるような書きぶりだ。まるで国が恩恵として与える明治憲法の「臣民の権利」と同じだ。 作家の高見順は一九四五年九月三十日の日記に書いた。 <戦に負け、占領軍が入ってきたので、自由が束縛されたというのなら分るが、逆に自由を保障されたのである。なんという恥かしいことだろう> 明治の森有礼でさえ、自由と権利を「人民ノ天然所持スル」と述べた。人権宣言から二百年を超す今、天賦人権説への異論が出るとは、まことに恥ずかしい。 |
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