みどりの一期一会

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究極の判断迫らぬ世に 3・11から10年/福島の事故から10年 いま再び脱原発の決意を/

2021-03-12 22:24:20 | 地震・原発・災害
気温が高く暖かい毎日が続くので、
たねなし金柑「ちびまる」の霜よけのポリを外してやりました。
木をすっぽりと覆っていると、せっかくの実が収穫しにくいということもありました。

ポリがなくなったのでオレンジ色の金柑の実が採りほうだい。

粒が大きくて、とっても甘い。
金柑は寒い冬を越すと甘みが増します。

庭仕事のあとは、定番のお蕎麦で昼ごはん。

夕ご飯は、紅鮭とアサリの酒蒸しとがんもどきです。


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後半は、
3・11から10年、東京電力福島第一原発事故と脱原発に関する記事をいくつか紹介します。

 社説:究極の判断迫らぬ世に 3・11から10年
2021年3月10日 中日新聞 

 きょう三月十日は戦時下の一九四五年、東京大空襲に見舞われ、東京の下町地域を中心に十万人以上が亡くなった日です。そして、あす十一日は東日本大震災から十年。失われた命や、その後の困難に身を置く人々の痛みに思いをはせる時間が続きます。
 東京消防庁の消防士だった中澤昭さん(84)は、それぞれの現場にいた消防隊員から話を聞いています。定年退職後、取材、執筆活動を続けてきました。

「生の声」を残したい
 三七年の、現在の消防記念日にあたる三月七日に生まれた中澤さんは八歳の時、地元板橋区で空襲を体験しています。東京大空襲から二カ月後の五月。米軍は容赦なく東京を焼き尽くしていました。
 父親は消防団として消火活動に駆り出され、中澤さんは母親、弟とともに逃げました。防空壕(ごう)は満員で入れず、隠れる場所のない畑で恐怖の一夜を過ごしました。
 東京消防庁に入った後、「うちが燃えた記録はどこかにないのかな」と図書室に足を運び、空襲に関する記録を探しました。しかし戦時下の他の公文書と同様、敗戦とともに焼却されたものも多く、消防隊がどんな思いで活動していたかの記録は見つかりませんでした。隊員の生の声を聞いて残したいという気持ちが芽生えました。
 二〇〇一年に出版した「東京が戦場になった日」(近代消防社)では、年少消防官や、学徒消防隊の元隊員たちに話を聞いています。徴兵で人手不足になった消防業務に駆り出されたのは十代や、兵役猶予されていた理系、医系の大学生だった若者たちでした。
 同書によると、粗製乱造されたポンプ車はエンジントラブルが相次ぎ、隊員たちの命を脅かしたといいます。赤いポンプ車は戦争末期、「国防色」の茶褐色に塗り替えられました。防護の意味とともに、赤色の塗料が不足していたという事情もあったそうです。

美談にしてはいけない
 劣悪な装備で三月十日の猛火にさらされた若者たちはなすすべもなく、犠牲者も出ました。救えなかった命に心を痛め、心身の回復に長く時間がかかった年少隊員もいました。
 経験したことのない危険な状況の中での消防隊員の苦悩と苦闘は「3・11」にも共通します。
 中澤さんは近著「行くな、行けば死ぬぞ!」(同)で、事故を起こした東京電力福島第一原発に、冷却のための放水部隊として出動した東京消防庁の後輩たちを取材しています。
 妹から「お兄ちゃん、行っちゃだめ」と携帯電話に繰り返しメールを受けた隊員もいました。家族で「なぜ人は、他人のために命を懸けるのか」を話し合い、息子から「それでも行かない方がいい」と止められた隊員もいました。
 がれきだらけの原発敷地内で慣れない防護服を着用しての放水作業は困難を極めました。
 最初の放水の時には、敷地内で東電社員らの拠点となっていた免震重要棟の存在も知らされていませんでした。この建物を使うことができれば、移動の距離を短くできるなど、作業がもう少し効率的にできた可能性もあり、片山善博総務相(当時)は後に「応援を要請するのであれば、現地の全貌を明らかにしてほしい」と国会で苦言を呈しました。
 政府事故調査委員会による吉田昌郎(まさお)・福島第一原発所長(故人)の聴取の記録、「吉田調書」では消防庁による放水の効果については、警視庁や自衛隊による放水とともに「意味がなかった」の一言で片付けられています。放水に当たった人々は命の危険と向き合い、家族とともに苦悩したにもかかわらず、です。
 地下鉄サリン事件などさまざまな現場に出動した消防隊員から話を聞いてきた中澤さんは自問自答を繰り返しているといいます。人はどこまで人のために命を懸けなければいけないのか。新型コロナウイルスと直面している医療現場の人々の胸中でも同じ問いが繰り返されているかもしれません。

命守る行政を最優先に
 中澤さんは言います。「私には分からない。答えが出ない。少なくとも命を懸けて人を救うことを美談にしてはいけない。命を守る行政を最優先にするべきだ」
 中澤さんの意見に賛同します。社会にできることは、究極の判断を迫られるような状況をできる限り減らすことです。防火、防災の設備やそれを担保する法制度を充実する。非常時には関係機関が情報共有を徹底する。戦争は起こさない。原発事故を防ぐには、稼働しないのが一番の近道です。
 命を救う人の苦悩を減らしていくことが、すべての人の命を守ることにつながります。そんな社会をつくることを後押しする。それが私たち報道機関の責務でもあると、あらためて思います。


 国の責任認定、原告逆転勝訴「対策取れば事故至らず」―原発避難者訴訟・東京高裁(2021年02月19日 時事通信) 

 地上波初放送 映画『Fukushima50』の事実歪曲とミスリード 門田隆将の原作よりひどい事故責任スリカエ、
東電批判の甘さの理由(2021.03.12lite-ra )


  社説:福島の事故から10年 いま再び脱原発の決意を
2021年3月12日朝日新聞

 「原発に頼らない社会を早く実現しなければならない」。朝日新聞は東京電力・福島第一原発の事故を受けて、2011年7月、「原発ゼロ社会」をめざすべきだと提言した。
 その後も社説などで、原発から段階的に撤退する重要性を訴えてきた。主張の根底にあるのは、「再び事故を起こしたら、日本社会は立ち行かなくなる」という危機感である。
 最悪の場合、止めたくても止められない――。福島の事故では、原発の恐ろしさをまざまざと見せつけられた。
 生々しい記憶が10年の歳月とともに薄れつつあるいま、脱原発の決意を再確認したい。

 ■廃炉への険しい道
 原発が事故を起こせば、後始末がいかに困難をきわめるか。目の前の厳しい現実もまた、この10年の苦い教訓である。
 つい最近、廃炉作業中の2号機と3号機で、原子炉格納容器の真上にあるフタの部分が高濃度の放射性物質に汚染されていることがわかった。
 周辺の放射線量は、人間が1時間で死にいたるほど高い。炉心で溶け落ちた核燃料(燃料デブリ)の取り出しについて、原子力規制委員会の更田豊志委員長は「作戦の練り直しが必要になるだろう」と述べた。
 1~3号機には800~900トンの燃料デブリがあるとみられる。だが、炉内のどこに、どんな形で残っているのか、いまだに全容をつかめていない。新たに見つかった2、3号機の高濃度汚染で、取り出し作業はいっそう難しくなるだろう。
 以前の工程表は「20~25年後に取り出しを終える」としていたが、いまでは年限が消えてしまった。燃料デブリが残ったままでは、建屋や設備の解体と撤去が進まない。冷却用の注水にともなって高濃度の汚染水が生じ続け、それを浄化した処理水もたまっていく。
 国と東電の掲げる「30~40年で廃炉完了」は不可能ではないのか、との疑念が膨らむばかりだ。廃炉の終着点が見えないと地元の復興もままなるまい。
 原発の事故は地域社会を崩壊させ、再構築にはきわめて長い年月がかかる。この悲劇を繰り返すわけにはいかない。

 ■安全神話は許されぬ
 しかし、7年8カ月にわたった安倍政権をへて、流れは原発回帰へ逆行している。
 事故の翌年、討論型世論調査などの国民的な議論をへて、当時の民主党政権は「30年代の原発ゼロ」を打ち出した。だが同じ年の暮れに政権を奪還した自公は、さしたる政策論争もなく原発推進に針を戻してしまう。
 古い原発の廃炉などで20基ほど減ったものの、安倍政権の下で総発電量に占める原発の比率は事故前に近い水準が目標とされた。事故後に設けられた「原発の運転は40年」の原則をよそに、20年延長の特例も相次いで認められている。
 菅政権はこの路線を継承し、「引き続き最大限活用する」との方針を示している。「原発の依存度を可能な限り低減する」といいつつ、具体策を示さぬまま再稼働を進める。その姿勢は不誠実というほかない。
 政府は再稼働にあたり、原発の新規制基準は「世界で最も厳しい」と不安の解消に努めてきた。これが新たな安全神話を醸成していないか気がかりだ。
 電力会社の気の緩みも見すごせない。福島の事故の当事者である東電も、原発中枢部への不正入室を許し、重要施設の耐震性不足の報告を怠るなど、安全に対する姿勢に問題がある。
 にもかかわらず、産業界を中心に原発への期待は大きい。
 「原子力はエネルギー自立に欠かせない」「原発の運転期間を80年に延ばすべきだ」。エネルギー基本計画の改定を議論する経済産業省の審議会では、原発推進論が相次いでいる。事故の痛みを忘れたかのようだ。
 破綻(はたん)した核燃料サイクルまでも「推進してほしい」という要望があることに驚く。
 使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出しても、高速炉の開発が頓挫したため大量消費は望めない。そんななかで核燃料サイクルを進めたら、原爆の材料にもなりうるプルトニウムの保有量が思うように減らず国際的に批判されよう。
 安全神話の上で国と業界がもたれあう。事故前と変わらぬ構図を解消すべきだ。

 ■再エネの拡大こそ
 原子力ばかりに力を注いでいては、再生可能エネルギーや水素を柱とした脱炭素時代の技術革新に乗り遅れてしまう。
 地球温暖化を防ぐには、安全で低コストの再エネを広げるのが筋だ。原発利用は再エネが拡大するまでの一時的なものにとどめ、できるだけ早く脱原発のシナリオを固める必要がある。
 40年たった原発を引退させ、新増設や建て替えをしない。そう決めれば、おのずと原発ゼロへの道筋は見えてこよう。
 原子力からの撤退へ向け、着実な一歩を踏み出して初めて、福島第一原発事故の教訓が実を結ぶことになる。


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