みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

向老学学会「おひとりさまで生きる」/雷雨のあとに・・・ブログ通信簿(7/26)

2008-07-27 21:29:23 | ジェンダー/上野千鶴子
名城大学・天白キャンパスで向老学学会があったので行ってきました。
満席と聞いていたので、早めに家を出て、9時過ぎに会場に到着。


来賓席だけあけて、3列目の真ん中に着席。

午前の基調講演は上野さんの「おひとりさまで生きる」。
パワーポイントを駆使しての専門的な話だったのですが、
上野節のサクレツで、ダジャレも連発、会場は笑いの渦。
おもしろかったです。

午後のシンポジウムは、「おひとりさまの老後を支えるしくみ」


パネラーのなかでは、ふなきドクターの話がいちばんおもしろかったです。
石原美智子さんの話は、亡くなったつれあいの両親が「サンビレッジ新生苑」に
入っていたので、内情をよく知っているだけに複雑な思いで聴いていました。

上野さん、デジカメを向けたら気づかれたようです。

コメンテーターとしてもちゃんと働いて、
最後にみんなで、主催者の労をねぎらいました。


資料には、日経に連載中の【やさしい経済学「21世紀と文明」の
記事のコピーもありました。

 「エイジングとポストモダン社会」―
―[7] 「向老学」重要に 東京大学教授 上野千鶴子
 
(2008.07.25日本経済新聞)

 老年学と向老学は違う。老年学が「老い」を客体として扱う学際研究であるのに対し、向老学は、「老い」を主体として経験する当事者研究の一種である。
 医学に対して患者学、人間学に対して人類学、福祉学に対して障害学、教育学に対して不登校学…当事者学が発展したなかで、向老学も生まれた。
 老い、衰え、介護を受けるようになっていく長寿社会を、なぜわたしたちはこれほどうとましく思わなければならないのだろう? 向老学は、老いに抵抗し、立ち向かうための学問ではなく、老いを受容し肯定するための思想であり、学問である。
 向老学の創始者は、名古屋在住の高橋ますみさん。1999年には日本向老学学会も誕生した。思えば、これまで「老いる」という経験については、あまりわたしたちは語ってこなかったし、知ってこなかったのではないだろうか?
 なかでも「もしぼけたら……」の恐怖は強く。驚くのは、最近になって認知症当事者による発言が増えたことである。『私は誰になっていくの?――アルツハイマー病者からみた世界』(クリエイツかもがわ)の著者、オーストラリアのクリスティーン・ボーデンさんは、患者仲間で自助グループをつくって助け合い、医療の世界に発言を続けている。ついに専門家が彼女を呼んで、話を聴くようになった。「わたしのことはわたしに聞いて」という患者のことばに耳を傾けると、認知症患者が何にパニックを感じ、何にどう反応するかがわかる。数年してみたら、ボーデンさんがブライデンさんになっていた。どうしたのかと思ったら、認知症であることを明らかにして、恋愛して再婚したのだという。うーむ。生きてると希望はいくらでもある。
 要介護になってからの介護される側の経験もこれまで語られてこなかったことのひとつだ。要介護については障害者のひとたちがキャリアで大先輩。脳性麻痺(まひ)の小山内美智子さんは、自分は「介護されるプロ」だという。これまで何人も介護者の人たちを教育してきた。どんな介護がよい介護か、介護される人以上に、うまく伝えることができる人はいないのだから、介護福祉を育成する専門課程に、要介護者を教師として雇うべきだ、と彼女は主張する。
 当事者研究が始まってみると、知らないことだらけ。専門家が当事者に学ぶおもしろい時代がやってきた。(2008.07.25日本経済新聞)


おまけに、7月24日の「[6] 障害者に学べ」の記事。
内容は、今日の講演の内容にも通じる。

 エイジングとポストモダン社会」―
―[6] 障害者に学べ 東京大学教授 上野千鶴子

(2008.07.24 日本経済新聞)

 介護保険の自立の概念は他人の世話にならないことをさす。他方、障害者自立支援法にいう自立の概念は、他人の介助を受けて自分の生活を自己決定することを指す。介護保険は使わない方がよいとされるが、自立支援はあって当然、なのだ。両者の自立の理念にはこれほどの違いがあり、したがって法律の使い勝手にも違いがある。同じ障害の程度なら、介護保険を使うより、障害認定を受けて自立支援法の対象になった方がよい。
 それだから障害者支援を介護保険に統合しようとした時に、障害者団体が反対した理由ももっともである。統合すれば明らかにサービス低下になることがわかっていたからだ。
 うらがえしに言えば、これほど使い勝手の悪い、しかも改悪のつづく介護保険を、高齢者が黙って受けいれていることの方が理解にくるしむ。
 「要求なくして制度なし」…障害者団体がその歴史から学んだ教育だ。制度はタナからボタモチのように降っては来ない。要求してさえ値切られるのに、黙っていてほしいものをくれるところはない。高齢者は票田としては大きな規模をもっているのにもかかわらず、組織化されていないために、政治的な影響力の行使ができていないのだ。
 日本には障害者運動の歴史がある。労働運動も女性運動もあった。要求は闘い取らなければならないし、獲得したものすら闘って守らなければ奪われる時代である。日本にないのは高齢者運動である。当事者のいないところで、制度の改革ができるわけがない。
 アメリカには会員数3900万を擁する全米退職者連盟がある。どの政党も無視できない巨大な政治勢力として影響力を行使している。日本にも高齢者の当事者団体ができて、権利としての介護を獲得する必要がある。権利意識をもった団塊世代の高齢者が層として登場することで変化が期待できるが、それまで待っていられない。
 世代間対立をあおりたいわけではない。高齢者の生活の安全保障を確保することで、子世代は介護負担から解放され、親の長寿をうとむこともなく、自分の人生を自由に歩むことができる。自分自身の将来のリスクにも安心と安全を期待でき、社会への連帯と信頼を維持することができる。何より成長と発展へ向かって馬車馬のように尻を叩(たた)かれ続けてきた日本人にとって、今日を生きることが明日のための手段でない時代がようやく来た、と言えるだろう。
(2008.07.24 日本経済新聞)



上野さんを見送って地下鉄「塩釜口」駅近くのお店でひとやすみ。

頭もずいぶん働かせたので、糖分の補給に、
友人ふたりと、ソフトクリームサンデーを食べました。

「ブログに載せたい」と店員さんに言ったら、
PRしてくださいね、とのこと。
そういえば・・・ここ
「不二家」だった(笑)。
外は改装中のお店だったけど、おいしかったですわ~。


岐阜駅まで迎えに来てくれたともちゃんに聞いたら、
岐阜は午後に激しい雷雨があったそう。

雲が多めだけど、鳥羽川堤防から見たうつくしい空。

ここ数日の暑さでしおれかけてたカサブランカも、

イキイキと生き返っていました。


雷雨の影響か、画像がうまく送れないので、
今日は、これにて終了。

そうそう、昨日26日の 「ブログ通信簿 は、
点数は同じだけど、
庭の知識や経験を生かした「お庭番(警務官)?!」から、
ほんものの「庭師」に昇格(喜)。
でもっ、「57歳・男性」になってた。
わたし、「おとこ」はヤダッ。


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