純白の花が、少し黄みを帯びて、
うっすらと白い雲と月と空のコントラストがうつくしい。
無粋な電線が写らなければ、もっとよいのだけれど・・・。
ギンモクセイのお花はいつ見ても、どきどきするほどきれいです。
ふと見ると、足元には収穫した北銀杏の実。
まだにおわないから助かってます。
ホトトギスも咲きはじめました。
この二株は、買ってきた鉢のまま、花が咲きました。
びみょうに色が違います。
チシオモミジの下で夏越ししたデンファレも、
草の中で花を咲かせています。
そろそろ10月中旬なので、家の中に取り込まないと。
夕陽に映える酔芙蓉。
ほんのり桜色です。
人気ブログランキングに参加中
応援クリックしてね
『む・しの音通信』67号の第二弾、「会員のエッセイ(寄稿)のうち、
「みずからを見つめ直す刺激的な時間『おひとりさまの老後』を読む会」と、
自治ネット主催の福嶋さんの講演会を聞いての「政治の原点は『市民』」
の二つを紹介します。
関心のある方はお読みください。
みどりのwebページ
『む・しの音通信』No.67(2008.9.28発行) 会員のエッセイ みずからを見つめ直す刺激的な時間 「『おひとりさまの老後』を読む会」 愛知県東郷町・山下律子 「長生きすればするほど、みんな最後はひとりになる」という書き出しで始まる『おひとりさまの老後』(上野千鶴子著/法研)。読めば読むほど、隠された棘が顔を出す"危険な本"である、この上野千鶴子さんの著書を読む読書会に参加した。 私が参加した8月の読書会は、第1章「ようこそ、シングルライフへ」を読む日だった。 前半は、小見出しごとに、どの部分が印象に残ったか、どう自分に引きつけて読んだかなど、担当した人が本文の要旨と自分の感想を言うという形で進行。後半で、参加者が「自分の場合だったら」と考え、「わたし」を主語に話し合うという形式で進められた。 私は読書会に参加するのは初めてだったのだが、著者は何が言いたいのかなどの洞察や評論だけで終わらず、そこからさらに、「ひと」がどうしたかではなく、「わたし」はどうなのか、「わたし」はどう思うのかを突き詰めて話すというはじめての体験に、非常にスリリングで刺激的な印象を受けた。 たとえば、《「いっしょに暮らそう」という悪魔のささやき》編。上野さんは、年老いた母親に対して、「おかあさん、いっしょに住んだら」という子どもからの誘いを"悪魔のささやき"とよんでいるのだが、この箇所に関連して、読書会では大いにトークが盛り上がった。 上野さんは、「いっしょに暮らそう」という子どもからの申し出について、親は「究極の愛情表現とカンちがい」し、子は「究極の自己犠牲、親孝行のあかしとカンちがい」しているとバッサリ切り捨てる。とはいえ、老親の介護問題をクリアしないことには、わたしの「おひとりさまの老後」はやってこない。 ここで少し個人的な話をさせてもらいたい。私は遅く生まれた一人っ子で、母親との濃密な関係性の中で育った。強度の箱入り娘状態で、大学に入るまで、1人で電車に乗ったこ とも、喫茶店(飲食店)に入ったこともなく、「家を出るには結婚するしかない」と、大学卒業と同時に結婚しようとして相手の母親の反対で結婚式が中止になった過去がある。親の反対を乗り越え、その後、結婚はしたものの、親との関係性は持ち越したまま。現在、母親がうつ病と骨粗鬆症による骨折の続発により、要介護状態になり、退院後の生活をどう組み立てるかに頭が痛いという状況にある。 「転んだら、確実に骨折しますよ」と医師に言われている母親には、常時の見守り介護が必要だ。だからといって、仕事と地方議員とボランティアとしての活動を抱えながら、「おかあさん、いっしょに暮らそう」とは、とても言えない。介護保険を使って、介護はプロの手にゆだねるしかない。「心細いのよ。あなたがいてくれたら」とすがるように見つめる母を振り切り、「また来るから」と言いつつも、「どうしたら母から解放されるのだろう」と思う私は、とんだ親不孝者だ。 そんな鬱々とした心理状態でいた私にとって、「わたし」を語る読書会での議論はまさに目からうろこだった。参加者の話を聞くうちに、口では親不孝者と開き直りながら、本当は母にいい顔をしたい、良い子と見られたいという親に依存した自分の姿が見えてきて、正直落ち込んだ。だが、親と子という縦関係を卒業し、個々人としての横関係に組み替える必要性を実感できたのは、読書会に参加してこその得がたい収穫だったと思う。 『おひとりさまの老後』は、一見、平易で読みやすい。だが、そこで提起されている事柄は、自分の秘めた感情を刺激し、見たくない部分までもあぶり出す。読書会は、そんな毒をあえて皆で飲み干し、次に進もうという場でもある。「わたし」を主語にすれば、いやでもみずからの姿を意識する。本当の救いは、そこから逃げずに一歩踏み出す勇気にあるのだ。 次回は9月29日(月)に第2章を読む予定。みずからを見つめ直し、勇気をもらいたい人に、ぜひ参加をおすすめしたい。 ------------------------------------------------------------------ 政治の原点は「市民」 愛知県武豊町・小寺きしこ 市民派議員としてのスキルアップの連続講座の翌日、「無党派・市民派自治体議員と市民のネットワーク」の前我孫子市長・福嶋浩彦氏の講演《市民自治・・・我々はどう考え、どう行動するのか》を聞いた。 まずびっくりしたのは、福嶋さんは、議員を3期、市長を3期経験されて、今52歳。政治の世界で24年も働いていたのに、威圧感がなく、経験から話される言葉には説得力がある。 福嶋さんは、5つのテーマで講演された。1つ目は「地方自治とはなにか」。福嶋さんは「原点は、市民主権。主権者である市民が国と地方自治体に権限を分け与えている」と言われた。自治体が社会や暮らしを動かしているのではなく、そこに住んでいる市民が町の施策を自治体に委ねているという。地方自治法第1条に「地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本とする。」とあるが、主役は市民なのだと。 2つ目は「市民自治の視点」で、福嶋さんは「市民自治の土台は、直接民主主義。自治体の長と議員は、直接選挙で投票した市民に責任を持つこと。日常的な市民の直接参加が不可欠であること。長と議会が市民参加を踏まえた活力を対抗させ合う緊張関係に立つことこそが、2元代表制には大切である」と言われた。さらに「市民が議会活動へ参加すること。条例づくりや請願の審議などに、市民が関わることが大切である」とも。 これまでの市民は、選挙で長や議員を選んだらすべてを委ねてしまっていた気がする。でも本来は、市民が直接議会に関わることで、議会の意思決定に大きな影響を与えることができる。請願は、憲法で定められた市民の権利である。わたしは、7,000人の署名のついた請願の紹介議員になったことがある。議会では否決されたが次年度の予算には計上されていたという経験をした。市民が議会に目を向け、参加することで議会活動が正常化されていくと感じた出来事であった。そのためには、長・議員一人ひとりが市民の声をきちんと聴くことが大切である。そうすることで、福嶋さんのいわれる「市民のあきらめの無関心をなくすこと」ができるのだと思う。 3つ目のテーマは「自治をリードする議会に」。福嶋さんは「2元代表制の自治体の議会に『与党』『野党』はない。選挙が終われば、『長』対『議員』である。議員は、議会の場で、市長が提案したことに対して、議論することが大切である。市長の提案に対して、議決するのが議会。その結果に議員は、議会の総意として責任をもつ。そして、市民への説明責任を果たすことが重要である」「市長の提案が、議会で反対されるのは、議会のチェック機能が正常に働いている証拠。否決されてあたりまえ」と言われた。 「否決されてあたりまえ」なんて思ったことがなかったので、わたしの中に衝撃が走った。裏を返せば、否決することに後ろめたさを感じていたのだ。市民の立場にたって判断すれば反対することも「あたりまえ」そう思えた瞬間でもあった。 「市民の公共をつくる」では、「協働の本質は、事業者市民(NPO、ボランティア、企業)と行政が協働した結果、目的が達成されること。目的とは、サービスを受ける市民(第3者)が喜ぶこと。行政と事業者市民だけの自己満足な関係ではいけない」と話された。常に、原点である市民の声を聴くということを忘れてはいけないのだ。 最後のテーマは「市民も自治の力を高める」。福嶋さんは「異なる利害関係を持つ市民同士が、きちんと対話し、お互いに納得のできる合意をみずから創り出す力が必要である」という。それは、市民の自立を意味する。すべてを「長」と「議員」に委ねるのではなく、市民みずからも、まちの方向を決める一員として参加することこそ成熟した地方自治なのだと思う。 福嶋さんの講演を聞いて、わたしは、議会での対立を恐れず、自信をもって市民の声を届ければいい。迷った時こそ、市民の声を聴こう。市民のための政治だからこそ、市民と組もう、と思った。 (『む・しの音通信』67号より) ------------------------------------------------------------------- |
最後まで読んでくださってありがとう
「一期一会」にクリックを
明日もまた見に来てね