笹沢信「ひさし伝」を読了する。放送作家から戯曲作家、そして小説家。ユーモアを武器として戦後の日本を駆け抜けた井上ひさしの生涯を膨大な資料を駆使して綿密に描く本格評伝である。
第1章は「本が父親」である。5歳の時に父を亡くした井上ひさしは、生まれ育った山形県高畠町小松の家を出、再婚した母の住む岩手県一関市へ行き飯場に住む。昭和24年4月、ひさしが15歳の時である。その年の9月には弟と一緒に仙台の児童養護施設「仙台光ヶ丘天使園」に入園。翌年には仙台第一高等学校に入学。
ひさしは父が残した本を乱読、そして施設では映画と読書に明け暮れた。高校1年のときに運命的な本に出会う。チャールズ・ディケンズの「デビット・コッパーフィールド」だ。ひさしはこの本との出合いを「夜寝る時間が惜しい、ご飯を食べるのも惜しいほど熱中して、三日間ぐらい夢中で読みました。自分の人生に重ねあわせて、これこそ、自分の未来の設計図だと思ったんですね。ストリーとそれを紡ぎだす言葉が、人間の心をここまで揺り動かすことができるとは思ってもみなかった。この時から本を本格的に読み出したんです。小説がこれだけ素晴らしいものなら、僕も書いてみたいと、この時はじめて思ったんですね」
この評伝を読み継ぎながら、近くにある「遅筆堂文庫山形館」を訪れて見た。生前のひさしの蔵書3万冊と書かれてあるが、この展示から井上ひさしの関心の広さが見るものを圧倒しないではおかない。ここはシベールアリーナを併設し、スポーツ、演劇、音楽、落語などが楽しめるホールを備え、山形の文化活動の中心を占めている。
放送作家として「ひょこりひょうたん島」「ゲバゲバ90分」「ブンとフン」などの台本を書き出してから、小説家として「手鎖心中」で直木賞を受賞、さらに劇作家として戯曲「道元の冒険」、「十一ぴきのねこ」を発表し一躍文壇、劇団の注目を集めていく。その後の活躍は、ここでは書かないが、評伝では時期を追ってジャンルを分けて詳述している。
伝記の面白さは、私の関心がそこに偏っているためか、その人の終焉の部分にあると思う。ひさしは、75歳の誕生日を前にして、肺がんの告知を受ける。宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘を回避する「ムサシ」、小林多喜二の虐殺を扱った「組曲虐殺」で成功を収めたひさしは、「このふたつのが最後なら満足だよ」と病床でひさしは語った。しかし、闘病の苦しさは、ひさしの想像を超えるものであった。
その苦しみのなかで、沖縄戦をテーマにした新作「木の上の軍隊」へ執筆の意欲を持ち続けた。集めた資料を病床の手に取りやすいところ置いて、目を通す毎日だったという。そして、もう書けないと分かったときも、「やっぱり沖縄のことを書きたい。悔しい」と何度も口にした。
ひさしはその病床で、新国立劇場で上演を予定されていた「東京裁判三部作」のチラシのコピー案を書いた。これがひさしの絶筆となっている。娘の麻矢は、父の柩にディケンズん「デヴィッド・コパフィールド」を入れた。
過去は泣きつづけている----
たいていの日本人がきちんと振り返ってくれないので。
過去ときちんと向き合うと、未来にかかる夢が見えてくる。
いつまでも過去を軽んじていると、やがて未来から軽んじられる
過去は訴えつづけている
東京裁判は、不都合なものはすべて被告人に押しつけて、お上と国民が一緒になって無罪地帯へ逃走するための儀式だった。
先行きわからないときは過去をうんとべんきょうすれば未来は見えてくる
瑕こそ多いが、血と涙から生まれた歴史の宝石
「寂聴伝」を書いた斉藤慎爾、「ひさし伝」の笹沢信。この二人が飛島で育った兄弟であることは、以前のブログにも書いた。そして、私の青春時代の同世代人で知人でもあった。このふたつ評伝から、教えられることは実に多い。作家の世界に深く分け入り、作品を体系づけ、その作家の真実を教えてくれる。