昔、新聞の切り抜きにはまっていたことがある。もう30年も前の作業だが、いまも保存して時々眺めたりして楽しんでいる。朝日新聞に「日記から」と題して、著名な作家や学者が1週間単位で、日記風なエッセーを書きつぐコラムがあった。
朝の散歩から帰って切り抜き張をパラパラとめくっていると、散歩に関するものが、2編目についた。中国文学の一海知義と山田風太郎のものである。
一海知義は「散歩」と題して、
「このごろなぜか早起きになり、毎朝散歩する。雨の日も傘をさして出る。そう遠くへは行かぬので、同じ道を歩いていることが多い。いきおい同じ風景の中での四季の微妙な変化、人びとの生活の移り変わりががうかがえて、興深い。」
さらに続けて漢学者らしい薀蓄が述べられる。
「ところで散歩の散は、散木、散人などというときの散に通ずるらしい。散木、散人ともに中国古代の哲学書『荘子』に見える。散木とは、使い道のない役立たずの樹をいう。散人も同様、いわば無用の人間をいい、よく雅号の下につけて何とか散人と気取る人もいる。散歩も同じだとすれば、散歩とはあてもなくふらつくこと、用もない外出である。散歩は健康によいなどというが、それは結果であって、健康のために散歩したのでは、散歩の語義に反する。」
散歩という漢字はどこか和風で、漢詩に梁川香蘭の「散歩」というのがあったと記憶しているが、どこか漢文化と似合わない語だと思っていたが、一海先生の薀蓄でこんな誤解も払拭された。
山田風太郎の「午前三時半の散歩」はユニークだ。
「未明の散歩。ある夏の夜明け方これをやったらきわめて快適だ。それからやみつきになった。多摩の丘の上の町から犬を連れていろは坂を下り、麓の堤防を歩いて帰る。行程約1時間10分。途中で日の出を見ることになる。すると、このごろは午前3時半出かけるのがいちばんいい。だから、出かけるときはまだ真っ暗だ。」
こんな時間には人通りもない。パトカーが不審がって、止まって様子を見ていた、とも書いている。私の知り合いにも、暗がりから散歩に出かける人がいるが、やっぱり気持ちがいいのだろうか。雪道を暗がりで懐中電燈を持って歩いているいうが、危ないなあと思っていたら、案の定転倒して腰を痛めた。
私の散歩は、そのときに応じて臨機応変である。
雨の日や雪道は階段を約1時間、時間のないときは近くの坂道を約1時間、比較的ゆとりのあるときは、自転車で千歳山に行き頂上まで往復1時間。そして目的ははっきりと、足の筋肉を鍛えるためである。健康はもちろん、足が弱ると老化が進む。そのために、はかない抵抗を試みている。