人生には人それぞれ大きなターニングポイントがある。そのポイントは自ら志したもの、あるいは環境がそうさせるものと様々である。東晋時代を生きた陶淵明(365~427)にとって彭沢県の知事を辞して、郷里へ帰った41歳の時がこのポイントであった。陶淵明はこの年になるまで、官職への就任と辞任を幾度となくくり返した。それは没落しつつあった陶家の家族の口に糊するための止むをえぬ選択であった。
こんなエピソードが伝わっている。ある日のこと、淵明は友人に、「しばらく役所づとめをして、隠棲するための生活資金を作りたいのだがね」これを聞いた官僚の友人は、すぐに行動を起こして淵明をほ彭沢県の知事に据えた。知事に就任した淵明は酒好きであったので、下僚に言って公田にことごとく酒米を植えようとした。家族がこれに反対したので、田の四分の一だけしぶしぶ飯米を植えることにした。
郡の政庁から、監察官が県の視察に来ることになった。下僚が淵明に「監察官を迎えるときは、正装してうやうやしくなさいますように」と言ったが、淵明は「五斗米のために、つまらぬやつに頭を下げることなどできん」とこれを断り、知事の職を辞した。そのときの詩が
「帰りなん、いざ」である。
帰去来(かえりなん)兮いざ
田園まさに荒れなんとす なんぞ帰らざる
既に自ら心を以ってからだの役となす
なんぞ惆悵として独り悲しむや。
淵明が官職を辞すことにこだわったのは、役人に頭を下げたくなかっただけではない。東晋から宋へ、時代は大きなうねりのなかにあった。ここで官職にあることは、新しい権力に就くか、東晋を守るか、自らの生命を賭して選択をを強いられる。そこから逃れる知恵として、隠棲というのがあった。酒を愛し、詩作に悠然たる境地を見出した淵明ではあるが、宋の創始者劉裕への、反感と怒りをその心底に秘めていた。