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常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

竹林の七賢

2013年11月20日 | 日記


中国で革命が起きる時代、つまり権力の交代期には、隠棲という生き方が賢人の間に行われることが多かった。「竹林の七賢」はそうした生き方の典型である。190年代、魏、蜀、呉の三国分立の時代、思想家は直接的な現実批判を避け、抽象的な哲学論議と人物批評を行うことが盛んになった。これを清談と言った。権力者からの言論弾圧を避けるためである。

七賢とは。陳留の阮籍、この人は「詠懐詩」などの文学に優れた。譙国の嵆康、琴の名手で「養生論」を著わし、神仙の術を論じた。河内の山濤。沛国の劉伶、酒をこよなく愛し「酒徳頌」を作った。阮籍の甥、阮咸は琵琶の名手であった。河内の向秀は「荘子」の注釈書を書いた。琅邪の王戎、巧みな処世術で高官となったが、極度の吝嗇であった。七人それぞれが個性を持ち、同じ生き方をしなかったが、頻繁に竹林に集まって酒を飲み、清談をし、また琴や琵琶で音楽に耽った。

彼は俗世界を避け山林に隠れ、酒を飲んで自由奔放に生きた。老荘の思想は、そうした生き方を推奨していた。七賢は、245年か約10年もの間、こうした清遊を続けた。だが、そんな噂が権力の側に少しずつ伝わっていった。魏の司馬氏から、七賢に出仕要請が行われた。この要請をきっぱりと断ったのは、嵆康のみであった。権力は嵆康を要注意人物として神経を尖らせ、他の事件の関係者として捕らえ処刑した。他の賢人は、出仕の要請に応じたものの、大酒を飲んり奇行をするなどしてサボタージュを続けた。王戎のように巧みな処世術を発揮して、ちゃっかり高官におさまったものもいる。

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