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常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

金剛

2013年11月19日 | 


北海道は昭和時代、相撲の聖地であった。北海道出身の横綱を数えると、知っているだけで五指を超える。千代の山、吉葉山、大鵬、北の富士、北の湖、千代の富士、北勝海、大乃国。こう数えると北海道は、今日のモンゴルをはるかに上回る力士の供給地であった。その理由は、この地方の貧しさにあると言っていい。「土俵には金が埋まっている」と言ったのは、初代若乃花だ。力士として成功して親に楽をさせたいと角界を目指し、成功を収めた力士は多い。

二所さんと世間からも愛された元関脇金剛は、深川市の出身である。その金剛の話題が、今日の新聞に載っていた。見出しは、「二所さん、誕生日覚えてますよ」であった。きのう、11月18日が金剛の65歳の誕生日だ。本来であれば、増位山や黒姫山らと一緒に今場所の終了後に協会を定年退職するはずであった。だが、脳腫瘍病状が悪化し、金剛はこ夏に協会を去り、親方を務めた二所ノ関部屋も消滅した。

金剛が力士を目指したのも、家のためであった。井戸掘り、雪降ろしと、学校が休みの日は一生懸命に働いた。だが家は貧しく両親の苦労も多かった。ならばと金剛は力士を目指した。巡業で深川を訪れた大鵬に憧れたのも理由のひとつだった。母は反対で進学することを勧めた。しかし金剛の決意は固く、母にの手前受けに行った高校入試は、全科目白紙の答案を提出した。私の姉が嫁いだ音江の家の隣が、金剛の生家であった。吉沢が生家の名であった。義兄は金剛を可愛がり、親しみを込めてゴンと呼んだ。帰省するたびに、義兄は「ゴン、足を見せろ。だめだ、これじゃあ。稽古が足りん。しっかりしろ」と声をかけた。少年金剛は悪びれずに「はい」と返事をした。

金剛は110㌔台と軽量ではあったが、順調に番付を上げていった。1964年の入門直後の序の口では、いきなり全勝優勝を飾った。1969年の5月場所で十両に昇進するとその翌年、2場所連続の優勝をして幕内に進んだ。憧れの横綱大鵬の土俵入りで露払いを務めた。1975年7月場所には、平幕で13勝2敗で幕内優勝を果たした。この場所は最強の横綱北の湖にも土をつけ、歯に衣着せぬ語り口で、「ほら吹き金剛」の異名をほしいままにした。その後、8代二所の関の娘と結婚し、10代二所ノ関親方を継いだ。八百長問題に揺れた2011年には、協会広報として取材マイクの前に立ったが、さすがに歯切れは悪かった。

この心労のせいであったか、脳腫瘍に侵され手術したがかっての面影をなくして協会を去った。「銀行へ金を下ろしにいくと財布を忘れる。朝、何を食べたか思い出せないんだよ」そんなことを記者に語った。金剛はいまどんな闘病生活をしているのだろうか。

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