一休
2013年11月21日 | 人

一休と言えば、すぐに「一休とんち噺」を思い出す。昔はこれがテレビのアニメにもなって、そのキャラが味噌のコマーシャルになったこともあった。一休は文明13年(1481)11月21日に没した。一休が生まれた1394年は室町時代、後小松天皇、足利義満将軍の時代である。出自は後小松天皇の落胤であるということが伝えられている。
6歳で出家、22歳のとき終生の師である京都大徳寺の高僧、華叟宗曇の門へ入った。宗曇は枯淡の禅僧で、大徳寺の庵はみすぼらしく、何も無い状態で食べ物さえ事欠く有様であった。そのなかで3年間じっと宗曇に仕え、ひたすら禅を学び続けた。ある日師は宗純に「洞山三頓の棒」という公案を出した。これに宗純は「有漏路 無漏路 一休み 雨降れば降れ 風吹けば吹け」と答えた。有漏路とは迷いの世界、無漏路とは悟りの世界を指している。人生とは煩悩の世界から悟りの世界へ往く一休みのようなもの。雨が降ろうが、風が吹こうが関係ないという意味だ。華叟宗曇はこの答案を良しとし、宗純に一休の号を与えた。このときから一休宗純を名のるようになった。
一休は大徳寺の住持として迎えられたが、この寺に住むことはなく放浪の生活を送った。剃髪せず髭も剃らなかった。着ている袈裟はぼろぼろ、手には朱鞘を佩いた木刀を持ち、「今の僧はこんなもんじゃ。見た目には飾っているが、中身は用立たずの木刀よ」と、厳しい批判をくり返した。自身が男色や女色に浸っていることを隠そうともせず、晩年には森侍者という側女に身辺の世話をさせた。江戸時代、説話のモデルとして一休噺に登場した。小僧の一休が知恵を出して難問を解決する噺は人気を呼んだ。
日本詩吟学院の教本には一休宗純の漢詩「客中」が入っている。この詩を放浪中の一休心中を詠んだものとしてみればその味わいは更に深くなる。風さえ吹いた跡を、白雲に残していくのに、一休の放浪はその跡さえ留めることはない。古寺の鐘の音が聞こえているばかりだ。
吟髪霜白衰容を奈んせん
風は過ぐるも浮雲一片の縦あり
識らず今宵何れの処にか宿せん
一声あり古寺暮楼の鐘