goo blog サービス終了のお知らせ 

常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

雲井龍雄

2018年12月03日 | 

今年もアパートの玄関先にクリスマス・ツ

リーを飾る季節になった。昨日、詩吟の山

形岳風会の合同役員会と懇親会があった。

いかに、この趣味の会を次代に生き残して

いくか、危機感は増え続けている。この会

報の小さなコラム、「詩歌の聖地を訪ねて」

のシリーズ執筆を担当している。初回は歌

人結城哀草果、2回目が同じく歌人の斎藤

吉、そして次回は米沢の漢詩人「雲井龍

雄」の執筆を予定している。幕末の志士と

してよりは、漢詩人として詩吟愛好家に知

られる人物である。「この身飢ゆればこの

児育たず、この児棄てざればこの身飢ゆ」。

戦後、民謡歌手から転出した人気歌手三橋

美智也のヒット曲「男涙の子守唄」に挿入

された詩吟である。この詩は雲井龍雄の詩

「棄児行」の一節である。下級藩士の4男

として生まれた龍雄は、中島家の養子とな

って家督を継ぎ、藩の仕事に就き、江戸に

出て、籾倉掛という閑職に就いた。許可を

得て安井息軒の三計塾に学ぶ。ここで海防

や攘夷など、海の向こうの国への目を開か

されることになる。やがて江戸は無血開城

となり多くの武士が職を失った。そこで起

こったのが、職を失った武士たちの捨て子

のおぞましい流行である。江戸で龍雄が目

にした捨て子を、漢詩に詠んだ。昭和の戦

後も似た世相があった。三橋美智也の哀愁

を帯びた「男涙の子守唄」は大ヒットとな

った。江戸の激動は、雲井の想像を超える

ものがあった。西郷隆盛らによる無血開城

がとげられると鳥羽伏見の戦いが起こる。

雲井の目には、薩長の横暴と写った。安井

息軒の推挙によって集議員寄宿制となり、

議会で太政官の出してくる議案に猛烈な反

対の弁を述べる。やがて、集議員も追放さ

れ、米沢に帰り、「討薩激」を書き、薩長

政府から厳しい目を向けられるようになる。

慷慨山の如く死を見る軽し

男児世に生まれて名を成すを貴ぶ

時平かにして空しく瘞む英雄の骨

匣裡の宝刀鳴って声有り

明治3年12月28日、雲井龍雄は政府から、

陰謀の疑いをかけられ、小塚原で斬首刑を

受けて27年の短い生涯を閉じた。詩はそ

の前年、戊申戦争後、米沢から中央政府を

睨み、鬱勃として闘志を見せたものであ

る。やはり薩長政府は、雲井を危険人物と

して亡き者としたのであった。 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする