常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

永代橋

2019年08月19日 | 日記

文化4年8月19日(1807)、江戸で大惨事が起きた。深川八幡のお祭りは、例年8月15日と決まっている。ところが、この日、台風の来襲でもあったのか、豪雨である。まるで、今年の台風20号が上陸した高知のような雨だ。雨は翌日もその次の日も続き、18日になってようやく雨の峠を迎えた。延期されていたお祭りは、19日に実施されることになった。

待ちかねたお祭りの人出が多いのはもちろんだが、近くの浄心寺で身延山の出開帳の行事があったので、人出は輪をかけたように増え、隅田川にかかる永代橋を渡る人が増え、あまりの多さに、橋は人がすれ違うこともできないような混雑である。なかには、橋を通るのを諦めて、船に乗る人も多数であった。お祭りの山車が出るころには、人出は最高潮に達している。

さらにハプニングが重なる。水戸藩家斉の弟、民部卿が街道を通ることになった。大名行列とまではいかないが、それに準じている。そのため道を開けることを余儀なくされて人々は、混雑を究めた永代橋へと向かい、橋の上は人で溢れる鈴なりの状態になった。橋の幅は約7mだが、人の重さに堪えかねて、橋は24mの区間がばっさりと折れ、川へと落下した。この区間にいた人々はもとより、後ろから押されるように進んでいた人たちも川に中へ放り出された。

前日までの雨で増水していた暴れ川である。泳いで岸へ逃れた人もいたが、大半の人が水死した。数百人の水死者と言われたが、後になっての推定では、1500人は下らないと言われている。江戸で最大の水難事故になった。この惨事を、現場で見ていた人に、俳人の小林一茶がいる。地方の俳人行脚で句会を開いた一茶には、その惨劇を仲間に語った。テレビも新聞もない時代である。瓦版とて地方までは届かない。現場を見た人の証言は、聞く人へ、大きな衝撃をもって伝わったことは想像にかたくない。

コメント (4)
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