常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

田部重治

2019年08月31日 | 

田部重治は明治17年、富山県に生れ、後東大英文科を卒業した。19世紀イギリスの唯美主義批評家のペーターを研究、法政大学などで英文学の教鞭をとった。一方、法大のスキー山岳部長を務め、登山家としても知られる。著書に『わが山旅五十年』(平凡社)、『山と溪谷』がある。登山家となる背景に、幼いころ生まれ故郷で眺めた、立山連峰、毛勝山など美しい風景がある。学生時代に小暮理太郎と知り合い、山岳への興味を深めていった。

田部が生まれたのは、富山県上新川郡山室村で、母の里は山に近い大崎野村で、大日岳の麓にあり、この村から立山の美しい山並みが望遠された。母の里から4㌔ほどに、伊折があり、ここは剣岳や立山に登る拠点となっている。その昔は、ここを流れる早月川遡って室堂に出た。今では富山駅からケーブルカーとバスを乗り継いで、2時間で誰でも行くことができるが、当時は一日がかりで行った。それでも、このルートは、早い方であった。

田部が初めて立山に登ったときも、このルートを使った。かつては硫黄の荷下ろしで道が整備され、川の渡渉もなかったが、この時は二人の案内人が流れに仁王立ちになって田部達を渡してくれた。そんな渡渉を5度も経て、やっと雪渓にたどり着いている。案内の人たちは、この川を渡るときは、杖を使い岩から岩へと飛び渡った。それほど身軽であった。

そして5時間後に室堂に着いている。伊折の人が案内を務めていたことは、決して口外してはならない秘密であった。ここを案内するのは、芦峅寺と岩峅寺の人に限って許されていた。こんな苦労を経て登った室堂から光景を、田部は感動を隠し切れずに綴っている。

「左には別山、立山、浄土山がさながら架空的な夢幻の世界から、いまだけ存分に見せてやろうといわんばかりに白雪をいただき、秀麗な姿をもって聳立し、その右に茫洋とした弥陀ヶ原が大きく開いて、表面に小さく虫のように動いているのが登山者の数限りない行列で、前面、室堂の手前に数条の凄惨な噴煙が立ちのぼっているのが地獄谷だった。」

田部がこの光景を見てから、もう100年以上の年月が経っている。そんな時代から、人々に親しまれてきた立山。時代の流れを感じながら、その頂上に立ってmみたい。





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